01/10 Mon.-6
☆
朝――いきなりケイタイが鳴って。
『オレだ…これから行く、家にいろ!』
聞き間違いようのないカイトの声は、完全な命令口調だった。
しかも、言葉が終わったかと思うと、ケイタイは切れたのである。
ツーツーツーツー。
ソウマは、うろんな目でケイタイを見つめた。
「どうしたの…?」
居間にいる夫の行動が、不可解に見えたのだろう。
ハルコが、台所から首を傾げながら近づいてくる。
「台風が来るぞ…珍しいこともあったもんだ」
ソウマは苦笑しながら、これから訪れるだろう存在のことを、そう形容した。
※
そして――本当に、台風だった。
うるさいチャイムの連打に、ソウマは玄関に急き立てられた。
そして、ドアを開けたのだ。
相手がカイトであるかを確認するより早く、白い紙が突きつけられた。
「書け!」
声は、紛れもなくカイトのもの。
最初は、借金の証文か何かだと思った。
一瞬のことで、用紙の内容まで読めなかったからだ。
突き出されて揺れる紙を、じっくりと眺める。
『婚姻届』
彼の国語力に問題がなければ、用紙にはそう記載してあった。
婚姻?
オレとお前じゃ結婚は出来んぞ――そう茶化そうと思ったが、すでに「夫になる者」のところも、「妻になる者」のところも、文字が埋められていたのだ。
カイトと。
ソウマは、紙を乗り越えてカイトを見た。
全身から、パワーと勢いを感じる。
いつもの彼だった。
いや、正確に言えば、ボロボロになる前のカイトと同じ生命体だ。
その生命体を視線で乗り越えると、彼女がいた。
目が合うと、混乱したような表情のまま、ぺこっと軽く頭を下げられる。
ああ。
全部分かった。
分かったやいなや、ソウマは顔が緩んでしまう。
ようやく――彼らは、心を通じ合わせることに成功したのである。
正月明けから、メイが仕事に行っているのは知っていた。
何しろ、その世話をしたのはハルコであり、承諾したのはシュウなのだから、ソウマの耳に情報が入ってこないワケがない。
仕事に行き始めてから一週間くらいか。
それで、この有り様なのである。
ほーら、それみたことか。
以前、ソウマはカイトに言ったことがあった。
彼の短気な性格を考えれば、本当の恋に落ちたが最後、一秒でも離したくなくなって、すぐに籍を入れるに違いない、と。
その時は、邪険に扱われただけだった。
そのカイトが、今は証人の欄に名前を記入して欲しがっているのだ。
さぁて、どうしてやるか。
ソウマは、彼らを居間の方に招き入れながら、意地悪を考えていた。
あれだけ彼らも、ヤキモキさせられたのである。
特にハルコに至っては、物凄い心配をしていた。
その時のことを、いまのカイトは、すかーっと忘却の彼方に押しやっているようである。
貸しにしておいた、2、3発のパンチでは、まだ気がおさまりそうになかった。
「どうしたの…あら!」
台風が来たのは分かっていただろうが、一体何事なのかまだ把握していないハルコが現れた。
ソウマは軽くアイコンタクトを送ったが、しかし、こんな突拍子もない事件を、視線だけで伝えることは不可能だ。
ただ――彼女も、メイを見つけたようである。
表情が、ぱっと優しい色に変わった。
「元気そうね…」
「あ、はい…あの時は、ありがとうございました」
女性陣の挨拶を聞きながら、ソウマは居間に入った。
ソファを勧めるまでもなく、勝手に座るカイト。
からわかれる隙を見せないようにしている風に思えて、それがまた笑いを誘う。
メイには、席を目の動きで勧めた。
少し戸惑った後、彼女はカイトの隣にちょこんと座る。
「とっとと書け!」
やはり、からかわれるのがイヤなようだ。
カイトは、とにかく目的を達成しようとしていた。
ハルコが、横から用紙を覗き込んでくる。
その表情が、ぱっと明るくなった。
それが分かると、ソウマも嬉しくなる。
彼女とは、確かに長い付き合いで、いろんなことを理解しているつもりだった。
どうすれば喜ぶかとか、どうすれば困るかとかもちゃんと分かっている。
けれど、こういうスペシャルな喜び方を見ることは、余りない。
彼女の予想外の幸福が訪れたのだ。
その予想外の幸福というヤツを、ソウマは時々探してしまっている。
ただ、彼女を理解しているということは、彼女にも理解されているということで、なかなかそれが実現出来ないのだ。
その笑顔を生み出したのが、自分ではないところが少し妬けはするが、目撃出来たのは嬉しかった。
ソウマにしてみれば、可愛い弟のようなカイトも幸せになる。
妻も幸せな気分になる――二重の幸せを感じることが出来たのだ。
しかし、弟には弟への対応方法がある。
その上、弟は問題児だった。
「やれやれ、お前が短気なのは知ってはいたが…ここまでとはな」
まずは、軽いジャブを繰り出す。
相手の眉が、ひくっと動いたのが分かる。
どうにも好みの言葉ではなかったようだ。
もちろん、分かって言っているのだが。
「ああ、ごめんなさい…お茶をいれるわね」
さすがに、妻も現状を理解したようだ。
少しでも長く、彼らを引き止めようと思ったのだろう。
お茶の準備に立ち上がった。
勿論、普通の接客の作法としては定番であったが、きっと彼女も話を聞きたくてしょうがないのである。
一体――どんな過程を踏んで、この状態に至ったかを。
メイは、よく気がつく女性だ。
身重の彼女を思ってか、手伝いに行こうとしてくれた。
カイトには、勿体ないくらいの相手である。
「茶なんかいらねー! それより先に、これを書け!」
しかし、短気のムシは、ハルコの好意と好奇心の芽を摘もうとした。
ソウマは、あえて口をはさまなかった。彼女が反撃するだろうと思っていたのだ。
「お茶を飲まないと…書いてあげないわ」
この発言には、思い切り笑ってしまった。
カイトの顔が、絶句、という表情になってしまったからだ。
痛いところを突かれてしまったのだろう。
カイトの性格は知っている。
そんなに沢山の人間と、懇意にしていないことも。
だから、からかわれることを覚悟で、この家に書類を書いてもらいに来たのである。
きっと、ほかに思い当たらなかったのだろう。
それがまた、ソウマの心をくすぐった。
おかげで、こんなに近くで、しかも早く、結果を見ることが出来たのだから。
「はっはっは、そうだな…どうせなら、昼メシでも食ってくか? 今日はオレがパスタをゆでるぞ」
そこまで長居はしないことは知っていた。
しかし、ついからかってしまいたくなるのだ。
ギロッッ。
怒り狂う一歩手前――そんなカイトに睨まれる。
もう完全に、あのつらい時の影はない。
ここにいる男は、一刻でもはやく、メイを自分のものにしたがっている、ただのエゴイストだった。