01/10 Mon.-4
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確かに。
カイトに、『普通』なんて言葉を当てはめてはいけない――そう、彼女は思った。
それは分かっているつもりだった。
しかし、まさかいきなり婚姻届を突きつけられるとは、思ってもみなかったのだ。
ま、待って、ちょっと待って。
その用紙とカイトを見比べる。見事な、大パニックの渦の中に沈められていた。
本当に落雷のような男だった。
ちょっと遠いかなと思っていたら、いきなり目の前に落ちてくるのである。驚かないハズがない。
そして今、メイは助手席に乗せられていたのだ。
結局、あの用紙を彼女は記入した。
名前を書いて、印鑑を押したのである。
印鑑は、不動産屋との賃貸契約をするために作っていた。
彼女が書き終わると、その紙を奪い取るや、カイトは自分の名前を書き始めたのだ。
左手が、彼女の握っていたボールペンを掴む。
その手から生まれる文字を見たことはあったけれども、やはり妙な角度で記されていくような気がする。
カイトの名前が、生年月日が書き記されていく。
乱暴に印鑑を押して筆記試験を済ませたカイトは、今度はがばっと立ち上がると出ていこうとした。
用紙を握りしめたまま。
が。
ドアのところで立ち止まる。
振り返ったかと思うと、彼女の側まで駆け戻り――ぐいと手首を掴んだ。
「来い!」
そうして連れ去られてしまったのである。
予想通りというか何というか、車は役所に入っていった。
シンと静まり返っている建物。
そういえば。
今日は祝日。
成人の日だ。
一体、彼はどこからこの用紙を持ってきたのだろうか。
そして、どこに提出する気なのだろう。
メイの頭の中では、疑問が渦を巻いた。
しかし、彼の動きは迷う様子もない。
脇の方にある建物に車を横付けにしたかと思うと、一人降りて行ってしまった。
慌てて彼女も追いかける。じっと待っていられなかったのだ。
「あの…カイト…」
声をかけても、いまのカイトには耳に入っていないようだった。
ドアを開けて建物の中に入ると、ピタリと足を止める。
「おい!」
と言われたので、自分を呼ばれたのかと思って、彼女は小走りに近づいた。
しかし、そうではなかったようだ。
彼の近くにある、ガラスの小窓が開いて、誰かがそこから顔を覗かせたのだ。
「はいはい…って、ああ、あなたですか」
職員風の人が、カイトの顔を見ると苦笑した。顔見知りなのだろうか。
そんな彼の前に、記入を終えた婚姻届を突き出す。
面食らったようではあったが、相手はそれを受け取った。
「しかし…あなたのように、用紙をもらったその日に提出する人も珍しいですよ。しかも、こんなに早く…あ、おはようございます」
用紙のシワを伸ばしながら、職員は言葉の途中でメイを見つけたのだ。
だから、穏やかな笑顔で朝の挨拶をしてくれる。
慌てて彼女は、ぺこりと頭を下げた。
そういえば。
時間外や休日でも、こういうものを受け付けてくれるところがあると、聞いたことがあった。
どこかの芸能人が、自分たちの決めた日と時間に受け付けてもらいたくて、夜中に入籍したというのだ。
そういう時間外専用の受付場所なのだろう、ここは。
カイトは、職員相手に無駄口を叩くこともなかった。イライラしているのが、ハタから見ても分かる。
一刻でも早く、それを受理して欲しいようだ。
一刻でもって。
かぁっとメイは赤くなった。
そんな翻訳をしてしまった自分が、恥ずかしくなってしまったのである。
もしそうだとしたら、カイトはとても彼女と結婚したいと思っているように感じられてしまうのだ。
しかし、否定する材料は全然なかった。
それどころか、いきなり婚姻届を持って帰ってきたカイトが、余計に裏付けているような気がした。
そんな。
思い返してみても、自分がそんなにまで彼に好かれる理由に思い当たらないのだ。
いつも、怒鳴られてばかりだった。
彼にとって自分が有益だとは、とてもじゃないが思えない。
なのに。
どうして。
メイは、切ない目で彼を見つめた。
どうして、私を好きになってくれたんだろう。
でも、それを聞いてもカイトは答えてくれないような気がした。彼の口から、そんな言葉が出てくるところが、想像できなかったのだ。
メイが、一人考えに耽っている間に、事態は進展した。
「ああ…いけませんねぇ。ここに何も書いてありませんよ…ほら、ここ」
そう言って、職員は婚姻届の端の方を指した。
「婚姻届けには、必ず証人がいるんですよ。夫になる人と妻になる人の一人ずつ…これが記入してありませんと、申し訳ありませんが受け付けられませんねぇ」
どなたか成人されている方に、記入してもらって来てください、と彼は書類をカイトに返すのだ。
「てめーが書け!」
しかし、彼は怒ってしまった。
まさかそんなものに、婚姻届の提出を阻まれるとは思ってもいなかったようだ。
「そんな…出来ませんよ。親御さんでもかまわないんですから…どなたかに書いてもらってきてください」
彼の剣幕に、逃げるように相手が手の先だけで用紙を返してくる。
「だから、用紙を取りにこられた時に、書き方を説明すると言ったじゃないですか…掴むなり行ってしまわれるから」
カイトに睨まれて、職員の人はほとほと困ってしまったようだ。
「クソッッ!」
怒鳴るなり、カイトは用紙を奪い返した。
そして、途中にいるメイを捕まえて、再び車に引き戻した。
彼は、無言で車を出す。
どこに行くつもりなのか。
声をかけるのをためらわせるような、カイトのオーラがあるものだから、不安になりながら運転席を見る。
『親御さんでも』
さっきの職員のセリフが戻ってくる。
メイに、それは無理だ。
この辺りに、彼女の婚姻届に名前を記入してくれるような人はいない。
ということは。
もしや、カイトの両親のところに、これから連れて行かれるのだろうか。
彼の口から、親の話を聞いたことはない。
それどころか、カイト自身の話ですら、ほとんど聞くことはなかった。
まだ、たくさん知らないことがあるのだ。
しかし、普通結婚となると、親への紹介があるのが普通だろう。
もしかしたら、カイトはそうしてくれるのかもしれない。
ドキドキ。
途端に、胸が慌てだす。
いや、すでに十分慌ててはいたのだが、カイトの両親に紹介されるとなると、また話は別である。
どんな風に挨拶をしたらいいのだろう。
気に入ってもらえるだろうか。
赤信号で止まった時、そんなメイの気持ちを知らないカイトは、ポケットからケイタイを取り出した。
ボタンをいくつか片手で押すような操作をしたかと思うと、その小さな通信機を耳に当てる。
「オレだ…これから行く、家にいろ!」
彼が言ったのはそれだけだった。
言い終わるや、電話を切る。
赤信号の間の出来事だった。
ものの十数秒の出来事である。
あっけ。
メイが呆然としているうちに、また車は走り始めた。