01/10 Mon.-3
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「今日は、ゆっくりして行けます? もしそうなら、夕ご飯、腕を振るいますね」
メイがそう言った瞬間、カイトは頭をガツンと、岩か何かで殴られた気分だった。
不意打ちの、彼女の発言だったのである。
おかげで彼は、久しぶりの二人の朝食だというのに、一気にかっこんでから飛び出すハメになったのだ。
昨日は、バスで街まで来た。だから、自分の車はない。
通りでタクシーを止めて、まず自宅までかっ飛ばさせた。
その車中。
カイトは、ムカムカしていたのだ。
彼女が、とんでもないことを言ったせいである。
ゆっくりしていけるかどうか、聞かれたのだ。
こんな屈辱はなかった。
要するに彼女は、最終的には――カイトに家に帰れ、と言っていたのである。
夜までは一緒にいてもいいけれども、夕食が済んだら家に帰って、翌日から普通の生活を送れ、と言ったも同然だったのだ。
もう。
カイトは、メイを二度と手放す気はないというのに。
離れて暮らす気なんか、さらさらないというのに、そんなふざけたことを笑顔で聞いてきたのである。
穏やかな気分でいられるはずがなかった。
いままで通り、家まで連れ帰るのは可能だ。
お互いの思いが、やっと通じたのである。
そんなことは簡単なハズだった。
しかし。
もう、それではカイトの気持ちは済まなかったのだ。
前と同じ生活に戻るだけなんて、とても耐えられない。
たとえ思いが通じていても、彼らは社会的に何の関係もない他人のままなのだから。
また、いつどんな事故が起きて、彼女が離れていくかもしれない。
そうならざるを得ない事態が、起きるかもしれない。
たとえ確率が、1%未満であったとしても、それでもゼロではないのだ。
その現実が、激しくカイトを急き立て苛立たせ、怒らせたのである。
メイとの間に、わずかの障害も欲しくなかった。
となると、もう答えは一つしか見つからなかったのである。
※
カイトは家に帰り着くなり部屋に駆け込み、ボタンの吹っ飛んだシャツを放り投げ、そこらにある新しい服を着込んだ。
着込みながら、ガタガタと机の引き出しを開ける。そして必要なものを掴む。
キーを取って、今度は自分の車で飛び出して行った。
家についてから出ていくまで、5分以内の出来事だった。
カイトは、役所に飛び込んだ。
休みだった。
その瞬間、彼は自分の車を役所に突っ込ませたい衝動にかられたのである。
一番大事な時に、公務員連中は休んでいるのだ。
当たり前である。今日は祝日なのだから。
ここで諦めればよかったのに、カイトはそうできなかった。
どうしても、明日に回したくなかったのだ。
いますぐ、必要だったのである。
そんな時。
役所の建物の中で、何かが動いた。
よく見れば、人がいるのが分かった。
カイトは、車から降りるやそっちに向かって駆ける。
正面玄関ではない、脇にある建物だ。
そのドアは、少し開いたままになっている。
カギがかかっていないのだと、カイトに教えた。
「おい! 誰かいねーのか!」
そのドアを蹴り開けながら、カイトは怒鳴った。
「うわぁぁぁ!!!!」
彼の怒鳴りに、思い切りびっくりしましたという悲鳴があがる。
声の方を向くと、守衛室のような部屋があった。
ちいさなガラスの窓があって、そこを開けて話ができるようになっている。
カイトは、ばっと手を伸ばして小窓を開けた。
「ななな、何ですか…いきなり…」
中にいたのは――しかし、守衛には見えなかった。
元は穏やかなのだろう表情を、驚きで塗り固めている男がいたのだ。
ひょろっとしていて、シャツ姿に黒い腕カバーなどをしていた。そして、手には書類の束。
どう見ても、役所の職員がいいところだった。
「…よこせ」
カイトは、唸った。
「は?」
男は、意味の分からないような、間の抜けた声をあげた。
「婚姻届、よこせっつってんだ!!!!」
そして、ようやくメイの元に戻ってくることが出来たのである。
※
「あ、あの…これ…?」
驚きとか困惑とか、そういうもので一杯の、とにかく混乱した表情で、彼女は見上げてくる。
彼が苦労して奪い取ってきたものとの間を、交互に視線が行き来する。
「書け!」
カイトは、もう一回言った。
他に、どう表現すればいいのかなんて分からなかった。
とにかく、ここまで全て勢いで持ち込んだのだ。
いや、ただの勢いではない。
もう彼女を絶対に手放したくないという、強固な後ろ盾のある勢いだった。
これを、メイが書けば。
そうすれば。
彼女は、社会的にさえ自分と一緒にいることが可能なのである。
誰からも咎められることなく、誰にでも胸を張って、彼女が自分のものであるということを主張できるのだ。
いま出来る、一番最大のことだった。
いや――本当は婚姻届ごときで、自分の不安が簡単に拭い去られるとは思っていない。
しかし、この紙きれさえも提出していないと、更に大きな不安が押し寄せてくるのだ。
そんなのはもう、耐えられなかった。
何故、気持ちが通じてなお、離れて暮らす必要があるというのか。
逆に、一緒に暮らす大義名分がないと言うのなら、もう彼にはこの方法しか思いつかない。
婚姻関係。
おそらく、一生側にいるという契約書。
この契約書が、絶対破棄出来ないものであったら、もっといいのに。
メイが、自分とその用紙を何度も何度も見比べる。
そこで。
初めて胸が冷たくなった。
もしかしたら、と。
もしかしたら、彼女はカイトと結婚したくないのかもしれない、と。
いまの今まで、その可能性について考えてもいなかった。
一番自分がやりたいことだけを考えていたので、そこまで頭が回らなかったのだ。
眉間にシワが寄る。
苦しい気持ちがわき上がってきて、それを押さえようとしたらそんな表情になるのだ。
いや…か?
口に出して聞いたら――真実になってしまいそうだった。
「もう…」
ぼそっと。
重い口を、カイトはようやく開く。
自分が何を言おうとしているのか、よく分かっていなかった。
「もう…離れちまうのなんか…まっぴらだ」
苦しい顔を見られたくなくて、顔を横に向けた。
あんな。
彼女を傷つけたり、スレ違ったり、自分を憎んだり。
もう二度と、そんなことはイヤだった。
それをどうしたら、彼女に伝えることが出来るのか。
いま、カイトが言ったようなセリフでは、やはりうまく伝えられた気がしない。
もっとうまく伝える言葉が、この世にはあるハズなのだ。
それなら、たった今だけでいいから、彼に宿って欲しかった。
なのに、いままで彼があんまりムゲにしてきたものだから、今更言葉の神さまは振り返ってくれなかった。
つれなく遠くに行ってしまっただけである。
クソッッ!
思い一つきちんと伝えられなくて、カイトは苛立った。
これでは、彼女に拒まれてしまうかもしれない。
また離れて暮らす日々を、続けなければいけないかもしれないのだ。
そんな彼の横で、メイが動いた。
しかし、用紙の中身を埋め始めたワケではない。
立ち上がって、台所の方に行ってしまったのだ。
カイトは目を見開きいた。
動けない。
いまの彼女の行動が、一体どういう意味を持つのか――詳しく理解したくなかったのだ。
そんなことをしてしまったら、カイトは足元から壊れていきそうだったのだ。
壊れ出す前に。
彼女は帰ってきた。
ハッと、視線を上げる。
メイが、もう一度ちゃぶ台の前に座るところだった。
手には――ボールペンを持っていた。
彼は、何も書くものを渡していなかったのだ。