01/10 Mon.-2
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朝、メイが目を覚ましたら、本当にすぐ側に彼の顔があった。
それを見た瞬間に、心臓が飛び出しそうになるくらい驚いたのだ。
一瞬で、眠気が吹っ飛んだ。
彼女の買ったパイプベッドは、非常に狭い。
だから、こんな風に強く密着していないと、すぐに転げ落ちてしまうだろう。
まだ、奥の方のカイトはいい。
向こう側が壁だからだ。
しかし、無防備な側にいるメイは、よくも落ちなかったものだと、あとで改めて驚いた。
それは――彼の腕が、ぎゅっと彼女を抱え込んでいたから。
眠っても、カイトは離してくれなかったのだ。
私…。
昨日のことが呼び戻される。
玉砕覚悟で告白をした。
それは覚えている。
けれども。
カァッ。
メイは、身体が熱くなるのを感じた。
まさかその夜に、彼とこんなことになるとは思ってもみなかったのである。
あの時は、とにかく一生懸命で、冷静になって考えられなかったが、朝日が彼女を我に返したのである。
カイトを起こさないように、そっと彼の腕から抜け出した。
素肌には、余りに冷たい空気が襲いかかってくるので、急いで身支度を整える。
彼が目を覚ました時に、まだ自分が裸のままだったら、どう対応していいか分からない。
カイトの目の前で、着替えをするハメにも陥りたくなかった。
こうして服を着込んでさえいれば、もう少し普通の反応が出来るのではないかと思ったのだ。
ズキンと、身体に痛みが走った。
何か一つ大きなアクションをすると、そうして身体がカイトを思い出すのだ。
メイは、また赤くなってしまった。
起きたはいいが、次に何をすればいいか分からない。
とりあえずストーブをつける。
ベッドの方に向けた。
彼が起き出してきた時に、寒くなく着替えられるようにと思ったのだ。
朝食を作ろう。
そう思い立った。
朝なのだ。
健康的な生活をしていれば、おなかがすいて当然である。
起きた時に、カイトがすぐに食べられるようにと、彼女は台所に立った。
しかし、その途中で彼が起きてしまった。
後方で大きく布団の動く音がした。慌てて振り返ると、彼が身体を起こしていた。
そして、キョロキョロしている。
そうなのだ。
彼は、この家で目覚めるのは、これが初めてなのだ。
きっと混乱しているのだろう。
「あ、おはようございます」
メイは声をかけた。
すると、まるでスローモーションのような動きで、彼女の方に顔を向ける。
まだ、驚いた顔のままだ。
ドキンと胸が鳴った。
自分が、朝日で冷静になってしまったように、彼もそうなったんじゃないかと思ったのである。
ということは、これからカイトが見せる反応が、本当の気持ちのように思えて、少し怖くなった。
カイトは。
ばさっ!
布団を蹴飛ばして、ベッドから飛び出してこようとしたのだ。
その素肌が、やかんの湯気の向こうにある。
「きゃっ!」
メイは、びっくりして身体ごと向こうを向いた。
まさか、彼が全裸で起き出してくるとは思ってもみなかったのである。
向こうも、そんな自分にやっと気づいてくれたのか、服を着ているような音がしている。
ベルトがガチャガチャと音を立て、彼女を恥ずかしがらせた。
しかし、ホッとする。
カイトの行動にこそ驚いたが、表情自体には後悔しているようなものは見えなかったからだ。
しかし、ホッとするでは済まなかった。
あっと思った時には、背中から抱きすくめられていたからだ。
身動き一つ出来ないくらい、強い素肌の腕だった。
それに、ぎゅうぎゅうに抱きしめられる。
驚き、慌てた。
こんな反応が来るとは、想像だにしていなかったのだ。
まさか、冷静になるはずの、朝日の中で抱きしめられるなんて。
「あのっ…あっ…危ないです! お鍋熱いですし…」
パニクったまま、メイは声をあげた。
目前では、みそ汁の鍋がガスにかけられているのだ。
けれども、この時はそんなことよりも――やはり、恥ずかしさと驚きが勝っていた。
いやなのではない。
ただ、こんな風に誰かに抱かれるのには、全然慣れていないのだ。
しかし、彼女の言葉は余計に腕に力を込めさせるだけだった。
みそ汁が煮立っても、彼は離してくれなかった。
※
変な朝食が始まる。
食器が、2人分揃っていないのだ。
だから、すごく妙な取り合わせの食器が並ぶ。
今日――買いに行こうかなぁ。
メイはそう思った。
これから、時々かもしれないが、カイトがここに来てくれる可能性があるのだ。
その時に、毎回こんな食器では大変である。
せめて二人分。
彼女はそんな風に考えていた。
しかし、視線はカイトに注いだままだ。
彼が、みそ汁に口をつけようとしていたのである。
一口。
少しの無言。
「うめぇ…」
あぁ。
メイは、もう何も考えられなくなった。
ずっとずっと、聞きたかったその言葉を、ようやく聞くことが出来たのである。
その言葉こそ、いま自分の目の前にカイトが存在するという、何よりの証拠でもあった。
一人の食卓を知って、それがいかに寂しいものであるかを知った。
ずっと、彼の『うめぇ』という言葉を探し続けていた。
ようやく、そこにたどり着けたのである。
じわっと。
目の前がちょっと霞んだ。
それが続かないように、ぐっとこらえる。
朝ご飯の席で、いきなり泣いてしまったら変だと思われてしまう。
しかし、カイトの視線がふっと向けられた。
メイが、食事に手をつけていなかったからだろう。
慌てて顔を下にさげて、同じようにおみそ汁に手を伸ばす。
こんな幸せな気持ちを、ずっと忘れないようにしようと思った。
昨日かえったばかりの大事なヒナに、ちゃんとその思いを食べさせようと思ったのだ。
そうすれば、きっとヒナは幸せに育つ。
いつかきれいな鳥になるだろう。
きれいな鳥になった時は、カイトともっと幸せな道を歩いていけるのではないかと思った。
いまはまだ、具体的なことは何も考えられなかった。
本当に、始まったばかりなのだから。
だから――とりあえず、まず一番身近な未来から埋めていこうと思った。
顔をあげる。
涙腺はおさまってくれようだった。
「今日は、ゆっくりして行けます? もしそうなら、夕ご飯、腕を振るいますね」
食器を買って、夕食の買い物をして。
今日、彼の仕事がなければいいのだけれども。
メイは、そう願った。
しかし。
いきなり、カイトの表情が固く強張ったのだ。
え?
何か、自分が悪いことを言ってしまったのかと思った。
けれども、カイトの口はしゃべるためには開かず、物凄い勢いで朝食をたいらげだす。
呆然と見ている間に食べ終わり、茶碗の上に箸をバンと置くと立ち上がったのだ。
そのまま、ボタンがすっ飛んでしまっているシャツをばっと着込み、コートをひっつかむと――怒ったような気配のまま、彼はアパートを飛び出して行ってしまった。
え?
え? え? え???
何で?
メイは箸を持ったまま、取り残されてしまった。
※
な、何で?
朝食の席に一人取り残されてしまったメイは、呆然と彼の出ていったドアを眺めた。
どう見ても、彼の表情の変化は、怒ったようにしか見えなかった。
どの発言に問題があったのだろうか。
いや、発言というほど、さしてしゃべっていない。
可能性があるのは、『今日は、ゆっくりして行けます? もしそうなら、夕ご飯、腕を振るいますね』――その言葉だけだった。
メイは、朝食を食べかけではあったが、驚きと心配で、それ以上先を食べ続けることが出来なかった。
さっき自分が言った言葉を、もう一度じっくり考える。
彼女は、今日一日一緒にいられるかどうか、予定を確認したのだ。
ゆっくりしていけるというのなら、夕食を用意しようと思って。
それを聞いてカイトが飛び出したということは。
可能性1>今日は、仕事で大事な予定が入っていて、それを忘れていたので、慌てて飛び出して行った。
可能性2>彼女が、この後もカイトを拘束しようと思っていることに気づいて、ムカついて飛び出していった。
メイの頭で考えられる可能性は、この2つだった。
2…。
彼女は汗をかく。
2番目だったらどうしよう、と。
まだ1番目ならば、しょうがないことだ。
彼が、休日でも仕事に出かけたりするのは、知っているつもりだった。
時計を見ると9時くらい。
普通の出社時間と言えば、確かにそうだった。
2番目と考えるのは怖かったので、メイは1番目の理由に決めた。
しかし、それにしては、あの怒ったようなオーラが気にかかるのである。
何で…出てっちゃったんだろう。
また一人、部屋に取り残されてしまった。
いや、この家ではずっと彼女は一人だった。
昨日から今日の出来事が、普通ではないだけ。
しかし、一度彼と一緒にいることを覚えてしまうと、これがもう厄介なことに、途端に一人ではいられなくなる。
カイトの体温を、身体が覚えてしまったのだ。
きっと、何か急ぎの用事があったんだわ。
メイは無理にそう思って、朝食を終えた。
後かたづけに入る。
しかし、ため息をついている自分がいて。
はっとそれに気づく度に、彼女はふるふると頭を左右に振った。
冷たい水で仕事を終えて、それから部屋の掃除を始める。
ああ。
シーツ、洗わなきゃ。
ベッドの方に戻る。勿体ないのでストーブを消して。
そして、ベッドに触れた。
まだ、そこは彼の体温を覚えているような気がする。
いや、覚えているのはメイだ。
彼女の記憶に、しっかりと全てが残っていた。
でも。
いま、彼はいない。
メイは、それを考えないようにして、シーツを持って浴室に向かった。
洗濯機なんかは、買っていない。
だから、お風呂場で手洗いだった。
洗濯を始める。
朝のうちに洗って干しておかないと、今夜使えないからだ。
予備を買おうかと思ったのだが、無駄遣いのような気がして、後に引き延ばしていた。
ザブザブ。
カイトは、本当に気持ちをしゃべらない人だった。
行動の方が、遥かに先に突っ走っていく。
そんな彼が、昨夜、メイに好きだと言ったことは、よく考えれば、物凄いことだったのだろう。
●
それで、気持ちはお互い通じた――ハズだった。
じゃあ?
メイは、洗いかけのシーツを持ったまま、ぼんやりとしてしまった。
これから、恥ずかしい言葉ではあるが『恋人』として、スタートするのではないのだろうか。普通は。
もしかしたら、それは自分一人の思い過ごしなのだろうか?
可能性の2番目の芽が、むくむくと地面から生えてくる。
そうなのだ。
カイトに、『普通』なんて言葉を、当てはめてはいけなかった。
いままで、彼がどんなすっ飛んだことをしてきたか、考えれば分かるではないか。
ということは。
『好き』という気持ちと、『恋人』や『これから』という言葉は、つながっていないのかもしれない。
好きは好きだが、それとこれとは別――のような考え方だったら。
ああ、でも。
メイは、ゆっくりとシーツを洗うのを再開した。
冷たさに、指の先がジンジンとするが、そのまま仕事を続ける。
どうなってもいいのだと、昨日自分は覚悟したはずだった。
だから、気持ちが通じただけでいいのだ。
大体、通じる予定ではなかった。
きっと玉砕して、今頃泣きはらした目で、起きてきている予定だったのだ。
それからしたら、雲泥の差である。
そうよね。
気持ちが通じたんだもの。
それだけで――
バターン!!!!!!
メイの思考は、最後まで行けなかった。
物凄い音が、後方で炸裂したからである。
な、何????
メイは、シーツの端っこを持ったままビクッとした。
ヤクザの出入りのような勢いだったのだ。
どうやら、誰かがドアを物凄く乱暴に開けて、押し入って来たようだ。
カギはかけていなかった。
もしかしたら、彼が帰ってくるかもしれない。
そんな、一抹の希望があったせいだ。
硬直していた彼女の耳に、不躾な足音が響き回る。
すごい勢いだ。
「おい!」
そう――声が聞こえるまで、本当にメイは動けなかった。
あ!
ぱっとシーツを手から離す。
そして立ち上がった。
たたっと、浴室から飛び出そうとした時、向こうからドアが開いた。
カイトだ。
彼が、帰って来たのである。
あ。
メイは、自分が言葉を忘れてしまったような気持ちになった。
この気持ちを、どうやってカイトに伝えたらいいか分からないのだ。
でも、本当に嬉しかった。
可能性の2番目が消えただけでも、本当に嬉しかったのだ。
そして。
彼が、すごく必死な顔をしてくれていたのも。
また――探そうとしてくれたのだ。部屋にいなかった自分を。
よく見れば、服装が変わっていた。
あの、ボタンを吹っ飛ばしたシャツではなかったのだ。
きっと、一度家に帰ったのだろう。
「あ…その…洗濯してて…あの」
メイは、うまく言葉が出てこないながらに、必死に自分がしていた作業を説明しようとした。
そんなこと、必要ないというのに。
カイトは、彼女の言葉なんて、やっぱり聞いてくれなかった。
いきなり、むんずと手首を掴むや、そのまま部屋の方まで連れ戻されたのだ。
そして、いきなり食事の時に座っていたちゃぶ台の前に座らされる。
何事かと思って、驚いたまま彼を見ていると。
「書け!!!」
バン!!!
ちゃぶ台の上に、何かを叩きつけられた。
え?
え?
こ。
こ…。
婚姻届ー!!!!!?????