01/10 Mon.-1
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暑い。
カイトは、寝返りを打った。
しかし、妙な感触に襲われる。
ほとんど、本能的な反応しか返さない頭が、暑い事実にエラーのフラグをあげたのだ。
それが、ちかちかと点滅する。まるで、道路工事のランプのように。
暑い。
シュンッ。
何かが、ちいさな音を立てた。
いや、いままでずっと音が出ていたのかもしれないが、ようやくカイトの鼓膜が開いたのだ。聴覚が目覚める。
シュンシュン。
音は、確かにそんなことを言っていた。
次の瞬間。
「…!」
カイトは、がばっと飛び起きた。
一瞬にして、目が覚めたのだ。
意識の中で、一本の電線がようやくつながったとでも言うべきか。
とにかく、イエロー・ランプは、レッド・ランプに変わったのである。
思い出したのだ。
昨日のことを。
しかし、それは完全ではない。
断片的で抜け落ちていて――そして、真実かどうかも分からない記憶が、頭の中で暴れている。
具体的なことは何も考えられないというのに、怖い感じだけが彼を掴んでいたのだ。
シュンシュンと、音を立てていたのは、やかん。
その下にあるのは、火の入っている小さなストーブ。
それが、彼が寝ていたベッドの方に向けて、ちょこんと置いてあった。
暑かった理由は、これだったのだ。
だが、ストーブなんてどうでもよかった。
慌てて、ベッドの中を見る。
なのに――そこには、彼一人しかいなかった。
昨夜。
確かに。
とにかく、カイトは落ちついて考えようとした。
「あ、おはようございます」
しかし。
その声が、彼を引き戻した。
あ。
一瞬、時が止まる。
カイトは、ゆっくりと顔をそっちの方向に向けた。
ストーブの上の、やかんの湯気の、もっと向こう側。
振り返っている身体。
窓から入る朝日に、銀色に透けている黒い髪。
そこには――嬉しそうに、でも、ちょっとだけ恥ずかしそうに、にこっと笑っているメイがいたのである。
夢じゃあ。
カイトは、自分の頬をつねってみたかった。
彼女がそこにいるということは、この見慣れない部屋に自分が寝ているということは。
それは、昨夜起きたことが全て夢じゃないと、宣言しているのと同じことだった。
夢じゃあ、なかった。
昨日、再会したのも。
一緒に居酒屋に行ったのも。
公園で、手をぎゅっと握られたのも。
この部屋で。
とにかく、全部。
夢じゃなかったのだ。
しかし、まだカイトはそれを実感できなかった。
彼女までとの距離が、もどかしかった。
慌てて彼は、ベッドから飛び降りてメイの元に向かおうとしたのである。
「きゃあ!!!」
それは――彼女の悲鳴で遮られた。
ぱっと逸らされる目。
いやもう、それは身体ごとだった。
彼女は身体ごと、向こうを向いてしまったのである。
あ?
何故、そんな反応を返されるのか分からずに、半瞬、止まった。
しかし、分かった。
「…!」
カイトは――全裸だったのだ。
慌てふためいて、服を着る。
しかし、全部着ているほど余裕はなかった。
ガルガル言いながら、とにかくジーンズまでをはいた。
もどかしくてしょうがないのだ。
そして。
「きゃっ!」
メイは悲鳴を上げた。
台所に立つ彼女を、背中から抱きしめたからである。
こらえきれるハズがなかった。
こうしていないと本当に現実か、まだ分からない気がしたのだ。
けれども、現実だと分かってくると、もっとぎゅっとしたくなる。
この抱いた感触と温度と匂いを、とにかく、何でもいいから離したくなくなったのだ。
「あのっ…あっ…危ないです! お鍋熱いですし…」
しかし、彼の腕にまったく慣れない裏返りかけた声で、メイは抵抗した。
身体で抵抗しないのは、危ないからだけだろうか。
ムッッ。
カイトは、拒まれたようでイラッとした。
だから、もっとぎゅうっと抱きしめる。
「ああっ! おみそ汁、煮立っちゃいます…」
声が懇願に変わる。
けれども、手放せなかった。
ようやく、メイを抱きしめることが出来るというのに、みそ汁ごときに邪魔をされてたまるもんかと――本当にそう思っていた。
※
「ごめんなさい…」
彼女が謝ったのが、煮立ったみそ汁のせいだというなら、お門違いだ。
それは間違いなく、カイトのせいなのだから。
目の前の、小さなちゃぶ台に乗せられた朝食を見る。
ごはん、おみそ汁、のり、きんぴらごぼう。
それが朝ご飯だ。
まあ、質素と言えばそうなのだが、それよりも目を引くことがあった。
カイトは、ご飯の茶碗を眺める。
小さな、花柄の茶碗。
そして、メイの茶碗を見る――いや、それは茶碗ではなかった、ただの深皿だったのだ。
他の食器も、かき集めたとしか思えないような不揃いのものばかり。
きっと、ここに2人分の食器はなかったのだろう。
この花柄の茶碗も、いつもは彼女が使っているものに違いない。
だが、それを恥じる必要なんか全然なかった。
中身の食事は、食器なんかで変わるはずもない。
それどころか、まるで彼女とわずかしかないものを分け合っているのだという、共有感があった。
幸せな感触である。
カイトは無言で、みそ汁の入っているお椀を持ち上げた。
そのまま、ずっとすする。
熱い。
喉に、胸に、胃袋に、それがぱっと広がって染み渡ったのが分かった。
ああ。
この味だ。
どんなに離れていても、カイトの身体はそれを忘れていなかった。
一時期、毎朝彼女のみそ汁を飲んでいたのだ。
その知っている味が、伝わってきたのである。
こんな味を作れる相手は、他にはきっといない。
間違いなく、メイが自分のところに戻ってきてくれたのだと、また一つ実感の土を踏んだのだ。
「うめぇ…」
カイトはそう言った。
彼女を失って以来――ようやく、本当にご飯を食べた気がした。