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11/30 Tue.-8

「はっはっはー…お久しぶりですなぁ」


 ようやく締め直したネクタイ。


 触りたくもないバーコード親父と、無理矢理握手をさせられながら、カイトはハードメーカーとの打ち合わせに入った。


 他社の会議室というのは、勝手が分からない分、威圧感がある。


 しかも、周囲をワケの分からない肩書きを持つ、取引先の連中に囲まれていれば、なおのことだ。


 カイトは、目を半開きにしてそれを眺めた。


 どいつも、こいつもガン首揃えやがって。


 マヌケヅラを。


 口さがなくそう思った。


 機嫌がよろしくないので、なおのことだ。


「…顔が歪んでますよ」


 一緒に入ってきたシュウが、めざとく見つけて小さな声で囁いてくる。


 席につきながらも、カイトは助言を無視した。


 言われなくても分かっているし、それくらいの表情が、いまの場合ちょうどいいのだ。


 何しろ、ここは彼らにとっては敵地。


 たとえ条約が結ばれて友好国になろうとも、そんな条約も、いつまでもつか分かりもしない。


「さて…では始めましょうか」


 その言葉を聞いた後、目の前に山と積まれた資料にうんざりしながらも、カイトは社長の顔を倉庫から出してきたのだった。


 ※


 決裂しかけたこと――2回半。


 1回はこっちが折れて、1回は向こうが折れた。


 残りの半分は、まだ決着がついていない。


 最後の半分のヤツを、向こうに折れさせようとしていた。


 要求を飲まない時は。


「じゃあ…ソフトは作らねぇ」


 会議室とは思えない口調だった。


 結局、その一言のおかげで、1時間も別室で待たされるハメになる。

 いきなり向こうが、社内会議に切り替えたのだ。


 カイトは、最後のタバコを灰皿に押しつけた。


 もう、夕方もいい時間だった。


 フン。


 これで、メーカーが「それじゃあ、なかったことに」と言い出したとしても、知ったことではない。


「しかし…」


 向かいの席に座るのは、シュウだ。


 応接室に静かに二人、というのも気色の悪いものだった。


 あの場所で即答しろ、とバーコード親父に詰め寄っておけばよかったと、後悔するほど。


 だからと言って、シュウとコミュニケーションを取っても、楽しくはないように思えたが。


「あん…?」


 ソファに行儀悪く背中を預け、脚を組み直しながら、カイトは気のない返事を投げる。


「あそこで、ライセンスの一般条文にまで口をはさむとは思いませんでしたよ…ちゃんと事前資料を読んでいたんですね」


 彼のセリフは、失礼なものだった。


「なっ…」


 ソファから、がばっと背中を起こしながら、向かいの席を睨む。


「ったりめーだろうが! オレが仕事してねーとでも思ってたのか」


 ぜってー、ナメてやがる。


 カイトは、時々彼についてそう思う時があった。


 しかし、それは勘違いである。


 シュウは、ただ素直にホメているのだ。これでも。


「いえ…ヒマさえあれば、すぐ開発室にこもられていたようでしたから」


 社長室は、空のことが多い。


 カイトを探す時は、まず開発室に電話をかけて確認するのが定石というくらいに。


 社内では、開発室の隣に秘書室を作ろうという冗談が出て、気位の高いカイトの秘書が、眉を顰めたらしい。


「ったく…おめーはおめーの仕事をしてろ! オレの動向をイチイチ…!」


 カイトは、文句の限りを尽くそうと思った。

 しかし、背広の内側から振動が伝わってくる。


 ケイタイだった。


 今日は、会議なので緊急以外はかけるな、と秘書には言っていたはずだ。


 仕事用のケイタイなので、知っている人間は、社内でもほとんどいなかった。


 チッと舌打ちしながら内ポケットから取り出すと、電話番号を確認する。


「…!」


 ビクッと、身体が先に反応した。


「どうかしましたか?」


 シュウが身を乗り出してくる。


 カイトは慌てて立ち上がった。

 少しでも彼から離れるために、窓辺の方まで早足で歩く。


 電話は。


 彼の自宅の番号だったのだ。


「オレだ…」


 極めて、落ち着かない声が出てしまった。


 自分でも信じられないくらいに。


 それにハッと気づいて、咳払いを一つする。


 シュウの視線が気に入らないので、そっちに背中を向けた。


 一体、何の用だ。


 カイトは、ケイタイの向こうの反応が遅いので、イライラした。


 いや、実際はそんなに遅くないのに、わずかな時間でも、彼には1分にも2分にも感じてしまうのである。


 納期寸前の仕事よりも、タチの悪い気分だった。


『ああ…ハルコです。いま、ちょっとよろしいでしょうか?』


 案の定、電話の向こうは彼女だった。


 ふぅっと、ちょっとだけ気が楽になる。


 当たり前のことだ。


 家から電話をかけてくる相手が、他にいるハズなどないのに。


 楽になりたくて、カイトは片手でネクタイを少し緩めていた。


「…とっとと言え」


 後方のシュウの視線を感じないフリをしながら、事務的な声を出す。


 秘書からだと思わせたかったのだ。


『はい…では…今日のお帰りは何時でしょうか?』


 ハルコは、そう言った。


 カイトは一瞬止まった。


 な…。


 何だと…?


 カイトは、少しずつ時を取り戻しつつあったが、いま聞いた言葉の方が信じられなかった。


 ハルコは、彼の帰宅時間を聞いているのである。



「この忙しー時に、くだんねーこと聞いてくんじゃねぇ!!!!!」



 一瞬で煮立ったカイトは、ここが他社の応接室であることを忘れて怒鳴った。


 その時、実はこの部屋にお茶を取り替えにこようとした女子社員がいたのだが、ドアの向こうのすごい剣幕を聞いて逃げ出してしまっている――勿論、彼らは知らないけれども。


 もとい。


 どんな急用かと思ったのだ。


 彼のケイタイにまで、かけてくるのだから。


 なのに、帰りの時間だと?


 バカらしいことこの上ない。


 そんな電話のために、いま自分がらしくない状態につき落とされたかと思うと、腹立たしい限りだった。


『くだらなくなんかありません…大事なことですわ』


 なのに、向こうは怒鳴られたことを、ちっとも苦にしている様子もない。


 それどころか、真剣な声を出してきたのだ。


 昔から、彼女はそうだった。


 どんなに怒鳴られようが、まったくこたえないのだ。


 それどころか、ハルコのこんな真剣な声を聞いたのは久しぶりである。


 彼は、眉を顰めた。


「帰りの時間なんて知るか…シュウに聞け」


 怒った声のまま、続ける。


 一度進んだ感情を、ある程度まで戻すことはできても、平静にまではなかなか持っていけなかった。


 ギシ。


 後方のソファがきしんだ。


 どうやら、シュウ・アンテナに会社からでないという判断でもされたのだろう。


 てめーはどっか行ってろ!


 内心で、後方の眼鏡を追い払う。


『できれば…早く帰ってらっしゃってください』


 ハルコの言葉は、要領を得ない。


 カイトはまた、怒り度数を上げようとした。


 しかし、彼女の言葉の方が先に出てくる。



『彼女……泣いてらっしゃいましたよ』



 ピシッッ。



 鏡にヒビの入る音が、背広の中から聞こえた。


 勿論、彼に鏡を持ち歩くような趣味はない。


 背広の中の、シャツの中の、もっと内側にある鏡。


 そのヒビ入りの鏡の中で。


 チョコレート色の目が自分を見ている――ぼろぼろと泣きながら。



 ビシビシッッッ。



 ヒビは大きくなり数を増やし、ついにはその茶色の目の真ん中を通った。


 涙もいくつにも引き裂かれる。



 言葉を失ったままのカイトは、自分の中に鏡があるなんてことを、生まれて初めて知った。


 ※


 バンッッッ!!!


 カイトは、遠慮会釈なく会議室のドアを開け放った。


 勢い余った扉が、反対側の壁にぶちあたって物凄い音を立てるが、まったくもって聞こえていない。


「カイ……社長!」


 後ろから、シュウが大慌てで追いかけてくるが、もう遅い。


 カイトは、社内会議中のメーカーサイドの邪魔を、大いにしてしまったのである。


「ああ、お待たせして申し訳ないが、もうしばらく…」


 バーコード親父が、突然のことに目を丸くしながらも、彼の暴挙を止めようとした。


 しかし、言葉が続いている間にも、カイトはざくざくと会議室を横切って一番奥に向かっていたのだ。


 この会議の決定権を持つ、そのバーコードのところに、である。


 もう、あと一分も待てなかったのだ。


 イライラが、脳天の真下で火山活動を行っていて、自分でもそれを止められそうになかった。


 最初から。


 カイトは、歪めきった顔で、オヤジの顔を睨み付けた。


 最初からまわりくどいことをせずに、こうしていればよかったのである。


 一番てっとり早い方法なのに。


「あと10秒だけ待ってやる…答えは、イエスかノーかのどっちかだ」


 カイトは、指を突きつけるようにして言った。


 本当は、あと10秒だって待ちたくない。

 いますぐ、ほれすぐ答えを出せ言うところだった。


 ワケの分からない会議で、これ以上引き延ばされるなんてまっぴらだ。


「社長…」


 後ろでシュウが、彼をいさめようとするが、止まるハズもなかった。


「し…しかし…」


 目の前の決定権を持つ男も、カイトの強引な話に気色ばんでいる。


「9…8…7…」


 だが、カイトの耳には入らなかった。


 無情にカウントを始めるだけだ。


「ああ、あと10分だけ待ちたまえ…それで決定を!」


「…6…5…4…3…2…」


 カイトは、0.1秒もよどむことなく、カウントを下げていく。


「そんな…」


 冗談もほどほどに。


 そういう冷や汗の感触が目の前から伝わってくる。


 勿論、カイトは聞いちゃいなかった。


「…1…0」


 カイトは、ついにカウントを終えた。


 バーコードを見るが、こういう事態は初めてなのか、固まったままだ。


 背中を向けた。


「決裂だ…帰るぞ」


 イエスもノーも、自分の判断で決定を下せない管理職相手に、取引をする気にもならない。


 彼は、惜しげもなかった。


 シュウを見もせずに投げ捨てるように言う。

 そうして、カイトはネクタイを緩めながら、大股で出ていこうとした。


 もう仕事は終わりだ。


 チッ。


 なのに、舌打ちが止められない。


 頭の真下で、まだ燃えさかるマグマが溢れ続けているのだ。


 いまなら、どこにでも飛び火して、延焼させてしまいそうなくらいだった。


「ま…待ちたまえ!」


 冷たい背中に向かって、声が投げられる。


 しかし、カイトは足を止めなかった。

 ガツガツ靴底が音を立てる。


 靴音が変わった。


 会議室の床と、廊下の床の材質が違うせいだ。


「わ、分かった…そちらの要求で、契約しよう」


 ため息とともに吐き出された言葉に、ようやくカイトは足を止めた。


 しかし、すぐには振り返れなかった。


 しかめっ面のまま、緩めかけたネクタイを、元に戻すことから始めなければならないのだ。


 そうならそうと、さっさと答えやがれ!


 毒づく心をそのままに、ようやくカイトは踵を動かした。


 クソッッ。


 しかし、契約が自分の思い通りの条件になったというのに、そのイライラは、全然彼の中から巣立っていかなかった。


『彼女……泣いてらっしゃいましたよ』


 ハルコの言葉が、ガンガンと頭を打ち付ける。


 心臓が早く動き過ぎて、具合が悪くなってきたくらいだ。


 カイトは――ハンドルを握っていた。


 車のライトは、雨粒を映し出す。


 いつの間にか雨まで降り出していたのだ。

 あの長い会議のせいで。


 冬は早く暗くなるとは言え、それでももう7時を回っていた。


 きっとハルコは、あの家にはいないだろう。

 いつもの予定でいけば、そのはずだった。


 ということは。


 あの家に、メイが1人でいるのだ。


 何で、泣くんだよ!


 カイトは、分からなかった。


 もう彼女が泣く理由などないはずだ。


 借金もない。

 ランパブも行かなくていい。

 服も用意させた。


 それなのに、何故泣くのか。


 彼に分かるハズもなかった。


 何が不服だってんだ!


 パァッッ、とクラクションを派手に鳴らして、カイトは前の車を煽った。


 めいっぱい、運転マナーの悪いドライバーである。


 しかし、まだ家には帰りつけないのだ。


 あと信号を7つやりすごして、右折して、それから、それから――


「クソッ…」


 何で、泣くんだ。泣くな泣くな、泣くな!


 頭の中で、メイが泣き続ける。


 カイトの胸は、針山のように一本ずつ針に刺されていくのだ。


 彼女の涙を想像する度に。


 昨夜から、カイトはどう考えても変だ。


 その事実は、自分でも分かり過ぎていて、分かったせいでイライラもした。

 彼女のことが、分からなくてもイライラした。


 ネクタイをしめてくれたメイも、シャツ一枚のメイも、痛々しい下着姿のメイも、水割りを作れなかったメイも――記憶が、一気に逆流していく。


 金で買った女。


 その女に、金をあかせて何かするのは下衆のすること。


 だから、カイトは触れられないのだ。


 けれども、メイという存在は、ツボミのようなものだった。


 見たこともないツボミで、どんな花になるかも想像もつかない。


 だから、触れたかった。


 けれど、触れてはいけない。


 だが、触れたかっ――


 キキーーッッッッッッッ!!!!


 家の門に衝突する寸前に、車を急停止する。

 濡れた路面に、スリップしそうになった。


 イライラとリモコンを探して門を開けて。


 駐車場ではなく、カイトは玄関の前まで車を横付けした。


 バタン。


 気が焦るまま、彼は車を飛び降りる。


 全部荷物は置き去りだ。


 身体一つで雨の中、玄関先に駆け込むとドアをガンッと開けた。


 ドコだ。


 入るなり顎を巡らす。


 考えるまでもない。


 メイには、二階の部屋にいるように言っていたのだ。


 カイトは玄関を開けっ放しのまま、階段の方へと向かい、そのまま2段飛ばしで駆け上がる――その途中。


 二階から誰かが近づいてくる音がして。

 カイトは彫像のように、階段の途中で固まった。


 パタパタ。


 スリッパの音がするのだ。


 ドクンドクンドクン。


 背中から心臓が突き破りそうな音が聞こえる。


 誰あろう、自分の心臓の音だ。


 彼女が――来るのだ。


 それを思うと、自分でも信じられないほど、身体の中の血液が暴走した。


 息を飲む。


 階段のてっぺんに現れたのは。


「おかえりなさい…」


 にっこり。


 カイトは、はーっと気抜けした。


 ハルコだったのである。


 まだいるとは思ってもみなかったので、完全に対象から外れていたのだ。


 何だ、おめーか――カイトは、すげなくそう反応しようとした。


 が。


 ハルコの後ろから、ひょこっともう一つの影が出てくる。


 引っ張られるようにして、前に出されているのだ。


 ――!!


 心臓が、止まるかと思った。


 カイトは目を見開いて、自分の脳裏にその映像を焼き付けてしまう。


 黒い、脚。


 いや、ストッキングの脚だ。


 白い暖かそうなスカートの裾。


 くびれたウェスト、胸のふくらみ、細い肩、首、綺麗な顎の線、赤い唇、白い頬、黒い髪――茶色の、目。


 誰だ…こいつ。


 カイトは、呆然とそれを思った。


 また、彼の知らない女が現れたのだ。


 ケバイ化粧だった。

 すっぴんになったのも見た。


 しかし、いまいる女はまた違うのだ。


 薄い化粧と、艶やかな唇。

 綺麗にウェーブのついた、やわらかそうな髪。


 彼に見られているということで、伏し目がちに頬を染めている。


 何もかもが。


 何もかもが、大問題だった。



 カイトは――完全にタマシイが抜けてしまった。


 ※


「私が見立てたのよ…可愛くできたかしら?」


 ハッ!


 ハルコの声が、ひどく満足そうに聞こえた。


 次の瞬間、抜け殻のようだった意識に、タマシイが駆け戻ってくる。


 見れば、メイの肩に軽く手を乗せて―― 彼女をもっとよく見せようとしているのか、カイトの前から逃がさないのようにしているのか分からなかった。


「あ…あの…」


 視線にさらされているのが、ひどく落ち着かないようだ。


 メイは、肩越しに救いを求めるような目になった。


「あら…ごめんなさい」


 ハルコは、その救いの目を勘違いしたのだろうか。


 彼女の肩からすっと手を離して、1人で階段を下り始めた。


 どこへ行く気か。


「おい…」


 このままでは、カイトの横をすり抜けて、もっと下に行ってしまいそうである。


 慌てて、彼は声をかけた。


「それじゃあ、そろそろ私は帰るわね…今日は随分遅くなってしまったから、夫がおなかをすかせてると思うわ」


 うふふ。


 カイトの目の前までくると、意味深にハルコは微笑んだ。


 まるで、邪魔者は帰ります。

 そういう笑顔だった。


「「えっ?」」


 カイトとメイの声が、同時にあがった。


 彼にしてみれば、いきなり放り出されるのだ。


 いや、ハルコがいつも帰るのは当たり前のことなのだが、まさかこんなタイミングで、2人きりで残されると思ってもみなかったのである。


 確かに、昨日の夜はずっと2人っきりだった。


 しかし、目の前にいる彼女は―― 昨日の女とは、また違うのだ。


 きちんと衣服を着込んでいるメイと一緒にいることすら、こんなにいたたまれない感じになるなんて計算外である。


 そんな気持ちに、まだ整理をつけられていないカイトを置き去りにしていく気なのである。


 とんでもないことだった。


 ま、待てー!!!


 カイトは、慌てて視線でハルコを追った。


 彼女は数歩更に進んで、カイトより低いところに行ってしまったのだ。


「あ、待って!」


 それを言葉で言ったのは、メイの方だった。


 彼女もさっき、「えっ?」を言った人間だったのである。


 どういう意味を含めたかは、彼の知るところではなかったが。


 足を止めたハルコは、途中にいる家主と、一番上にいるメイに視線を上げた。


「待って…行かないで…くださ…」


 不安そうな声が、ハルコにすがる。


 ムッ。


 カイトは面白くなかった。


 メイが、彼女のことを頼っているように聞こえたからだ。


 声が、彼の頭を素通りする。


「また明日来るから大丈夫よ…」


 にっこり。


 すがられた言葉にも、惑わされる様子は全然なかった。


 明日じゃ、おせーんだよ!!


 何ということを言うのか、この女は。


 カイトは、目ん玉をひんむいた。


 いまはもう夜なのだ。夜である。夜だ。とにかく、夜だった。


 その夜とやらに、メイと2人きりなのは―― ぜってー、ヤバイ!


 ついさっき、自分の中を硬直させた稲妻みたいなものを、カイトは何より恐れていた。


 こんなに自分が、アテにならないものだとは思ってもみなかった。


 明日の朝、ハルコが来る頃には。


 また自分の感覚が、とてつもない状態に変化しているんじゃないかと思うと、ゾッとする。


 何で、たかが女1人と夜を越すだけのことで、ここまで怖がらなければならないのか―― 信じられなさすぎる。


「食事の支度はしているわ…どうぞ、お二人で」


 次の言葉は、カイトに向けられたものだった。


 この事態を前にして、ご飯の話など悠長にできるはずがないのに。


 ん?


 さっきの言葉が、ひっかかった。


 眉が寄る。


 ハルコは、いま食事の支度をしたと言ったのだ。


 そんなことは滅多にない。


 何故ならば、カイトやシュウはいつも夜が遅く。

 結婚しているハルコは、そんなに遅くまでこの家にいられないのである。


 だから、夕食の支度は彼女の仕事の中に含まれていなかった。


 仕事。


 そう―― ハルコは、この家の通いの家政婦なのである。


 勤め始めて半年くらいだ。


 けれども、そんな短い期間以上の付加価値が、彼女にはついていた。


 元々彼女は、カイトの秘書だったのである。


 ハルコは、とても有能だった。


 仕事も出来るし、人間として丸かったおかげで、社長の癇癪もうまくやり過ごせたのである。


 彼女が結婚退社した後は、しばらくカイトはいろんなことに慣れずに困った。


 新しい秘書は、勝手が全然違ったかのだ。


 そんな時、いままで勤めていた彼の家の家政婦が辞めることになり、また困るハメになった。


 ほとんど誰もいない家を、安心して預ける家政婦を探すのは大変だったからだ。


 ここは男所帯。


 しかも、掃除や洗濯をするヒマがあれば仕事をするような2人である。


 着替えがなくなったり、ベッド以外の部分にホコリがつもるハメになるのは目に見えていた。


 パートでよければ。


 それが、ハルコの返事だった。


 シュウが彼女に依頼したのである。


 人選は、確かだった。


 秘書としての腕も知っているし、ずっと付き合いもある。


 だから、これまでほとんど家政婦としてのハルコの顔を見ることはなかったけれども、不満は何もなかった。


 いつも綺麗な部屋や着替えを、まるでこびとが夜中靴を作ってくれたかのように甘受することが出来たのだ。


 勿論、給料は払っているが。


 そんな、家のことを知り尽くしているハルコが。


 いま、食事の用意をした、と言ったのである。


 メイがいるせいかもしれない。カイトの穿ちすぎなのかもしれない。


 しかし、彼にしてみれば、ハルコがいまの事態を予想していたような気がしてしょうがなかったのだ。


 あの電話で、彼が飛んで帰ってくると。


 ムッカー。


 今度の不機嫌は、一気に頭のてっぺんまで跳ね上がる。


 どうにも、うまくあしらわれているような気がしてしょうがなかった。


「メシなんか食うか!」


 衝動のまま、カイトは怒鳴っていた。


「あら…」


 ハルコは、殊更に困ったような顔になる。


 2人の顔を見比べながら。


「けれど、彼女はまだ食事をしていないのよ…お昼も、ほとんど召し上がらなかったのに」


 ちゃんと食べさせてあげてね。


 いちいち、何かを奥歯に挟めたような言い方をする女である。


 それを感じる度に、イライラしていくカイトのことを、本当はちゃんと知っているのではないかと思うくらい。


 秘書時代からでも、いつもこういう言い方をしていたのだ。


 これでは。


 そうしないと、カイトが物凄くひどい人間のように思える。


「あ…あの…ホントにおなかすいてませんから」


 とどめは。


 階段の一番上のメイだった。


 2人の間の空気に気づいてか、慌てて口を挟んでくる。


 ムカムカー!!!


 地団駄を踏みたかった。


 メシくらい、ちゃんと食え!


 それとも、カイトの家ではご飯も食べたくないのか。


 他に思うところでもあるのか。


 勝手な想像が、一気に頭の中を巡り始める。


 おかげで、また彼は勝手に怒るのだ。


「来い!」


 思わず、メイに向かってそう怒鳴っていた。


 びくっと驚く身体。


 後ろで、ハルコがどんどん階段を下りていく足音が聞こえたが、もう彼はそんなものには構っていられなかった。


 視線を、メイに注いで動かさなかった。


「来いっつってんだろ!」


 カイトがもう一回言っても、固まったまま動かないものだから。


 彼は、凄い勢いで階段を走り登った。


 そうして、彼女の腕をつか。


 つか。


 つか―― む寸前で一瞬ためらう。


 昨日から、『触れる』という行為には、大きくひっかかっている彼なのだ。

 容易には、そのタガは外れない。


 クソッ、しょうがねーだろ!


 恐ろしく早口で、カイトは自分を納得させようとした。


 来いと言ってるのに、メイは動かないのである。

 このまま、寒い階段にいつまでもいるワケにもいかなかった。


 グググッッ。


 カイトは、指先を彼女の側で止めたまま、無駄に力だけを込めた。


 まだ、手首を握れもしないくせに。


 メイは、すぐ側の彼を見ることも出来ないらしく、うつむいている。


 チクショウッ! そういうんじゃないからな!


 カイトは。


 自分と彼女に大声で、そう言い訳した―― 心の中で。


 変な意味で触るんじゃない、仕方なくだ。


 そう言いたかったのだが、心の中ですらうまく言葉が操れなかった。


 しかし、その言葉のおかげで、ようやく自分の心にあるセーフティが、一つ外れたのだ。


 気合いを込めて、メイの手首をぐいと掴むと、小さく「あっ」という声が漏れた。


 ズキンッ。


 それがカイトの胸を刺したが、感じないフリをしながらぐいと引っ張ったのである。


 これは、そんなんじゃねーんだからな!


 やっぱり、心の中で大声で言い訳をしながら、彼女を引っ張って階段を下り始めた。


 後ろを振り返らないようにしながら、ずんずんと進む。


 一番下までたどりついた。


 すると―― 玄関のところで、ハルコが2人を見ているではないか。

 あの微笑みを浮かべて。


 カァッ。


 一気に、恥ずかしさが全身を巡る。


 何でそこにいんだよ!


 そう悪態をついたところで、ハルコの視線からいまの事態を消すことはできない。


「今度…相談したいことがあるの」


 彼女は、どうやらそれを言い忘れていたらしい。


 しかし。


 いまのカイトには、何も聞こえなかった。


 彼女を無視して、早く視界から逃げたい気持ちで一生懸命だったのだ。


 ハルコに反応も返さず、メイの手を、前よりももっと強く引っ張って逃げちらかしたのだった。

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