01/09 Sun.-8
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ストーブをつけに行こうと思った。
他の暖房器具は何もなく、いま帰ってきたばかりの部屋は、とても寒いのである。
このままでは、余りの寒さに2人とも、コートさえ脱げないだろう。
あの公園でひやかされて、はっと我に返った。
気がついたら、カイトの腕に抱きしめられていて、涙でぐちゃぐちゃで。
恥ずかしさが、かっと火のように身体の中を駆け巡った。
混乱しているし泣いて興奮もしている。
こんな顔を見られたくもなかったし、ここから早く逃げ出したかったのだ。
動揺したまま、慌てて彼の手を捕まえて、家に連れてきてしまった。
何で。
何で、抱きしめてくれたんだろう。
あんなに力強い腕で。
メイは、答えの回廊の中を駆けめぐったが、こんな状況で答えなんか出せるはずもなかった。
まだ、後ろにはカイト本人がいるのである。落ち着けと言われても無理だ。
とにかく、ストーブをつけてお茶を入れなければ。
お湯を沸かして、それからそれから。
メイは、足がもつれそうになりながら、ストーブに近付こうとした。
なのに。
まさか。
抱きしめられてしまうなんて。
あとちょっとでストーブだというのに、彼女は身動き一つ出来なかった。
背中に強い圧迫感を感じる。胸にも。
気づいたら、彼の腕が自分の胸に回っていた。
腕時計が見えた。
あの、銀のアナログ時計だ。
回された手首に、それが光っていた。
カイトだ。
その腕を見れば分かる。
彼が、背中からメイを抱きしめているのだ。
何、で?
息が出来ない。
胸がぐっと詰まって、彼の力で、呼吸をすることさえ苦しいほどだった。
何で…抱きしめてくれるの?
腕時計が、時間を刻む。
一秒一秒、抱きしめられている時間を、確実に刻んでいく。
次の一秒も、やっぱりその次も、間違いなくカイトの腕の中にいた。
頭の後ろに、彼の吐息があった。
「好きだ…」
髪の隙間から―― 声が降る。
いや、降るなんて穏やかなものじゃない。
もっとせつなくて息苦しくて、つらいかと思えるほどの声が押し付けられる。
しかし、間違いなくカイトの声だった。
いま…何て?
動けなくなった。
彼は、いま何と言ったのか。
背中からメイを抱きしめて、髪の隙間に、一体どんな言葉を埋めたのか。
身体が震えた。
信じられなかった。
子供の頃から使ってきた国語を、いきなり忘れてしまった気分だ。
異国の言葉を聞いているようだった。
「好きだ、好き…だ…好きだ……きだ…」
なのに。
異国の人は、何度も何度も同じ言葉を繰り返した。
まるで、その言葉しか知らないかのように。
好きって。
その言葉は、メイも使ったことがある。
遠い昔じゃない。
ほんの少し前、あの公園で確かに使った言葉だった。
彼女は―― カイトに向かって、その呪文を唱えた。
魔法の呪文だったのか、彼に抱きしめられた。
でも。
いまカイトは、同じ呪文をメイに向かって言ったのだ。
私に。
好きだ、と。
誰も…。
お願い、誰も私を起こさないで。
呆然としたまま、彼女はそう思った。
背中の感触も、彼の腕も、いまの言葉も―― もしここで目が覚めて、「もう朝だよ、おはよう」なんてことになったら、もう二度と笑うことは出来ないかもしれない。
二度と、誰にも。
溢れてきた。
あと一秒を願えば願うほど、ぽたぽたと涙が溢れてきた。
もしも、これが夢なら―― 目覚めと同時に、死んだ方がマシだった。
目覚めないまま、殺して欲しかった。
こんな夢!
涙で濡らしてしまった彼の腕が、そっと解かれた。
その腕が、彼女を自分の方に向かせようとする。
もう!
メイは、彼の胸に飛び込んだ。
どん、と強く胸にぶつかる。
とにかくがむしゃらに腕を伸ばして、彼を抱きしめた。
もう、どうなってもよかった。
腕が痛くなるくらい強く彼を抱きしめて、その胸に涙を押しつけて、声をあげて泣きじゃくった。
「好きなの…あなたが……っ…好きな…うぅ…」
ずっと、ずっとこうして欲しかったの。
カイトが、強く背中を抱きしめる。
ぎゅっと、ぎゅっと、彼女を抱きしめてくれる。
「好きだ…っ」
振り絞られる声。
カイトの声。
メイを好きだと言う、彼の声。
ああ。
メイは、もっと腕に力を込めた。
まだ、全然分からない。
これが本当のことかどうか。
「もっと…もっと…ぎゅっ…て」
しゃくりあげながら、その隙間から、必死に声を探した。
お互いのコートに窒息してしまうくらい、もっと側に引き寄せて、抱きしめて欲しかった。
そうでないと、絶対にこの事実を受け止められない。
ぐっと、彼は腕に力を込めた。
背中と胸の圧迫感が、それを教えてくれる。
でも、まだそれだけでは足りなかった。
どんなに腕に力を込めても、これ以上彼との距離は詰められないのだ。
それでもまだ、全然カイトという存在が足りなかった。
「もっと…!」
壊れてもいいから。
悲鳴のように声をあげた。
「…だ」
額に―― 吐息の感触がした。
前髪を唇でよけるようにして、苦しげな息がつかれる。
それが、押しつけられたのが分かった。
抱きしめていた彼の指が、背中から外れる。それだけで不安になるメイの両の頬を捕まえられた。
大きな手。
でも熱い。
それが、彼女の顔を上に向かせる。
瞼に柔らかい感触が押しつけられた。
目を閉じると、瞳の中にたまっていた涙が、溢れだした。
それを、彼の唇が追いかける。
頬を掠めた。
指が、濡れた頬を確かめるように何度も何度も動く。
メイの輪郭をたどるみたいに、ぎこちなく何度も。
最初に唇に触れたのは、指。
でも、すぐ違う熱い感触に変わった。
あ。
焼けそうになる。
焼けそうなくらい、熱く柔らかい感触が押しつけられた。
息が―― 出来ない。
「ん…っ」
嗚咽がまだ残っていて、その苦しさに身体がビクンッと震えた。
でも、唇は離れなかった。
それどころか、もっと強く押しつけられる。
拒んだりしなかった。するはずがない。
抱きしめられても、足りなかった。
でも、キスでもまだ全然足りないのだ。
もっと深く、彼の存在を分かりたかった。
苦しくて開いた唇に、もっと熱い感触が押し寄せる。
だが、彼の背中に回した腕を解いたりしなかった。
それどころか、もっと強く抱きしめた。
でも、まだ分からない。
届いた気がしない。
彼に触れた気がしない。
現実だって分からせて!
頭を抱かれた。
乱暴な動きだったそれが、もっとメイの唇を近づけようとする。
荒れ狂う心臓と彼の吐息だけに、聴覚の全てを持っていかれる。
でも、それではまだ全然ダメだった。
視覚も触覚も嗅覚も、何もかも奪い尽くして欲しかった。
全部…持っていって。
本当にもう―― どうなってもよかった。