01/09 Sun.-7
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その手を、強く握り返す。
ぐっと。
熱い彼女の手を、強く強く握った。
彼女は何と言ったか。
聞こえてはいたのだ。
言われた言葉が何なのか。
しかし、それは信じられない内容だった。
そんな可能性があるなんて、一番最初に撃ち殺してしまっていた。
それなのに。
ずっと―― 何度も、彼女はそう言った。
ずっととは、いつのことからなのか。
3日か。
10日か。
それとも。
まさか。
カイトは、奥歯を噛みしめた。
一度強く目を閉じると、涙のカタマリが落ちたのが分かった。
まさか。
ずっととは、一緒に暮らしていた時間も含まれるのか。
信じられなくて、カイトは頭を打ち振ろうとした。
そんな都合のいい話が、あるはずがなかった。
だが。
この手を、離せない。
一度しっかり握ってしまったら、もう絶対に離したくない自分がいた。
今のカイトは、欲しいものをデパートで握りしめて離さない子供と一緒だ。
ここで離してしまったら、もうそれとは一生出会えないような気がする。
イヤだ。
どんな理屈かとか、自分が彼女に何をしたかとか、この時のカイトは吹っ飛んでしまっていた。
とにかく、この手を離すのがイヤだったのだ。
強く握っている手が、震えているような気がする。
アンテナを彼女に向けると、メイが泣いているのが分かった。
震えているのではなくて、しゃくりあげた瞬間の感触だったようだ。
泣くな。
胸にヒビが入る。
いや、もう既に半分抉られていた胸だ。
残った分もひびだらけだ。
固く岩のように硬化していた胸に、彼女の涙のしずくがぽたぱたと落ちて色を変えていく。
夏のコンクリートが、夕立をそんな風に受け止めるみたいに。
泣くな。
身体が、カァッとする。
その色を変えた心から、溶岩が溢れだしてくるのだ。
もう死んだと思っていた、彼女へのたくさんの衝動がわきあがってくる。
どれ一つとして、死んでなどいなかった。
宮殿のガーゴイルのように、石になっていただけだったのだ。
石化の魔法が、解ける。
解けた途端。
彼が、ずっとこれまで押さえつけていた衝動が溢れる。
手じゃ。
手なんかじゃ、全然足りないのだ。
ふりほどいた。
気づいたら―― 抱きしめていた。
ずっと。
それこそ、本当にずっとこうしたかった。
何度この衝動をこらえただろう。
彼女が家にいる間、あらゆる場面で抱きしめたい気持ちが溢れていた。
だが、それはしてはいけないことだった。
だからカイトは、ずっとその気持ちを押さえつけてきたのだ。
そんなことをすれば、きっと拒まれる。
拒まれなければ、それは借金のせいで抵抗できないのだと。
しかし、どうしてだ。
彼女は、自分からまた戻ってきた。
カゴから出したというのに、鳥は帰ってきたのだ。
猫にしてみれば、信じられない現状である。
猫の頭の上にとまった。
そして、歌った。
抱きしめた。
いまの歌が、どういう意味なのか、ちゃんと考えなければならなかったのだろう。
しかし、考え終わるまで耐えられなかった。
石化の魔法は解けて、そして、そこにメイがいたのだ。
強く、強く抱きしめる。
腕いっぱいに彼女を抱きしめる。
だが、自分が彼女を抱きしめるのに一生懸命で、内側にいる彼女の感触に神経を向けることが出来なかった。
これでは離れた瞬間に、この事実を忘れてしまう。
しかし、やっぱり自分が抱きしめるので精一杯だった。
彼女が胸の中で何かを繰り返したが、カイトには聞こえなかった。
とにかく、ぎゅっと抱きしめていたかった。
それしか出来なかったのだ。
「ヒューッ! お熱いね!」
偶然、公園を通りかかっただろう野次馬に冷やかされるまで、ずっとずっと抱きしめていた。
メイが、その声に驚いたように彼から逃げる動きをした。
抱きしめているのを、彼女に拒まれた瞬間―― カイトの腕は緩んだ。
ずっと離したくなかったのに、同時に、彼女がイヤなことは、何一つ出来ない身体だったのだ。
あっ。
突然の喪失感。
もう腕が、彼女を抱きしめていた感触を失ってしまったのだ。
狂おしく、感情が逆巻く。
「あ、あのっ…うち、近くですから…」
慌てたような手の動きで、彼女は何度も目の辺りをこすったかと思うと、カイトを見上げることもせず、彼の手を取って引っ張った。
体温が、戻ってくる。
手という狭い範囲だけだが、彼に戻ってきた。
顔を冷たい風がなぞって。
カイトは、空いている方の手のひらで強く拭った。
メイは、あの場にはもういられないと言うように、足早に歩いていく。
手を握ったまま。
彼は、引っ張られるばかりだった。
その背中を見る。
「あの…うち、ここの2階なんです」
落ち着かない声と動きで、手が離された。
建物を見上げる。
お世辞にも、綺麗とは呼べないアパートだった。
カギを開け、ドアが開かれる。
「あ、その…殺風景ですけど、どうぞ」
恥ずかしそうに、メイは部屋の電気をつけて中に入った。
カイトも後を続く。後ろのドアを閉めながら。
靴を脱いで上がって、そこでようやく顔を上げた。
部屋の中を、初めてしっかりと見たのだ。
驚いた。
ロクなものがなかったのである。
ガランとした室内に、3段ボックスやパイプベッドや―― そんな、貧相な家具がちょっとあるだけで、あとは何もなかった。
メイには、ちゃんと金を持たせたハズだった。そうシュウは報告していた。
だから、もっといい場所に住んだり、いい家具を入れたりすることは可能だったはずである。
なのに、どうしてこんな古いアパートで、侘びしい暮らしをしているのか。
出ていけて、幸せだったんじゃないのか。
違う。
彼女は、メイは―― そんなことを考えるような女じゃなかった。
人の渡したお金の上であぐらをかいて、浪費するような女じゃなかったのだ。
誰が見ていようが見ていまいが、何一つ彼女は変わらないのである。
胸が荒れ狂った。
たまらなく、愛おしい気持ちがこみあげる。
メイはコートのまま、彼に背中を向けていて。
「あ、寒いでしょ…ストーブつけま…!」
耐えきれなかった。
愛しくてしょうがなくなる。好きでしょうがなかった。
だから、その背中を強く抱きしめた。
驚いたように硬直する、メイの身体。
「あ、あの…っ」
焦っている身体を、もっと強く抱く。
そして。
「好きだ…」
絞り出した。
これまで言えなかった言葉を、彼は呻くように絞り出したのだ。
メイは、動きを止めた。
ビクリと身体を震わせた後、まるで人形のように固まってしまった。
髪の感触に顔を埋める。
メイの匂いと体温が、頬に伝わってきた。
その髪にもっと顔を押しつけた。
「好きだ、好き…だ…好きだ……きだ…」
ずっと、ずっと好きだった。
最初からメイだけは、自分の中で特別な位置にいた。
理由も分からずに、あの店に置いておくのがイヤで、大金払って連れ出して。
その時から、彼女はカイトの中にある、あの椅子に座っていたのだ。
「好き…だ」
カイトは、その椅子の前に立った。
そして、彼女に初めてそう言ったのである。
現実では、背中からメイを抱きしめて、髪にそれを伝えるしか出来ない。
もうどうなってもよかった。
この気持ちが溢れて止まらない。
いま伝えておかなければ、明日死ぬような気がしたのだ。
ぽたっ―― そんな小さな音がした。