01/09 Sun.-6
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指が、触れた。
一番最初は、偶然だった。
あんまり近くを歩き過ぎたため、お互いの動かしている手の先が、軽くぶつかってしまったのだ。
あっ。
でも、メイにとっては、偶然では終わらなかった。
本当は、まだ迷っていたのだ。
もう、このままでいいのかもしれない―― と。
けれども、指が触れ合った瞬間。
ドクンと胸が騒いだ。
もう少しの勇気があれば、彼女はカイトに触れられるような気がした。
あと半歩だけ、彼の方に近づけばいいのだ。
そうすれば、きっとこの手を。
近づくまでだったら出来た。
予想通り、歩くはずみで指が何度も当たった。
いいのかどうか分からなかった。
でも。
指先で、一番最初に軽く引っかけた。
それはすぐ、歩く動きで解けてしまう。
もう一度引っかけた。
今度は二本の指で。
心臓が、すごい速さになってくる。
振り払われたら、どうしよう。
怖さと不安が、彼女の首ねっこを押さえる。
しかし、引っかかった指が、払われることはなかった。
メイは、そっと彼と手を重ねる。
軽く握った。
心臓が止まりそうだった。
カイトは無言だ。
手は振り払われないけど、ずっと無言だった。
何の反応もない。
大体、連れ出してからのカイトは、最初からそうだった。
こんな行動を取る自分を、どう思っているのか、彼女には分からない。
しかし、一度手を握ってしまうと身体の中で、わっと大きな音が生まれた。
自分の内側全体が、音楽ホールにでもなったかのように、わんわんと音を反響している。
いま、自分がどこにいて、何をしているのかさえ分からなくなるほど、強い衝動に揺さぶられるのだ。
言わな…くちゃ。
そうしなければ、ならなかった。
もう。
後のことは、考えられなかった。
いま、この手にある温度にすがるより他、彼女には何の道もないように思えたのだ。
わんっ、と身体の中がハウリングする。
足が震えた。
「今日は…今日のこれは、実は…デートだったんですよ」
唇だけは震えないように我慢しながら、彼女は言葉を紡いだ。
何を言おうかと考えていたが、その中のどれでもなかった。
勝手に口が、そんなことを言ったのだ。
一度、そこで強く唇を結ぶ。
まだ―― 言葉は全然足りなかった。
唇を開いて、冷たい空気を肺に入れる。
「ずっと…こうやって、一緒に歩いてみたかったんです。一緒にご飯を食べて…えっと、お金もホントは割り勘にして…普通みたいにデートしてみたかったんです」
普通みたいに。
それが、いままで出来なかったことだ。
溝のようなものが、いつも2人の間には存在した。
彼は気にするなと言ってくれていたのに、メイの目から消えたりはしなかったのだ。
その溝を、いま彼女は踏み越えられたような気がした。
自分で生活を始めた。
ちゃんと仕事も始めた。
初めて、彼と対等になれたような気がしたのだ。
いまだったら、胸を張ってカイトと向かい合えるような気がした。
でも、張れるはずの胸が、いまは痛い。苦しい。
まだ伝え終わっていないのだ。内側に、溢れんばかりの言葉が、いっぱいいっぱい残っている。
これを全て吐き出してしまわないと、メイは彼を見ることが出来ないような気がした。
「ずっと、こうしたかったんです…ずっと、ずっと…ずっと」
胸が、きゅーっとした。
身体がわなないて、必死で止めようとしたら、カイトの手を強く握りしめていた。
でも、それでも止まらない。
一度心をあふれ出させたら、目頭がかぁっとなって、喉が詰まって――でも、まだ全然伝え終わっていないのだ。
「ずっと、ずっと…ずっと、好きで」
この。
手の向こうにいるのがカイトだ。間違いなく彼なのだ。
会いたくて、会いたくてしょうがなかった相手だ。
ぎゅっと手を握ってしまう。彼の存在を、もっとはっきりと分かりたかった。
喉の奥に、熱い塊がある。それが、迫り上がってきた。
ぐっとこらえる。
強く、彼の手を握って我慢する。
「あなたのことが、ずっと、ずっと好きで…好きで…きで…で…」
でも。
ダメだった。
言葉の途中で、涙がぼろぼろと溢れだしてしまった。
身体中が熱くなって、こんなに好きだと伝えているのに、胸が苦しいばかりなのだ。
全部吐き出してしまえば、きっともっと楽になると思ったのに。
だが、余計に苦しくなっていくばかりだった。
ひっく、としゃくりあげる。
もう。
この手を離したくなかった。
離したくないと思ったら、余計に涙が溢れてくる。
このまま、彼を連れ去ってしまいたかった。
自分の側にいて欲しかった。
私の側に…いて。
お願い、ずっとここにいて。
手をふりほどかないで。
ずっと、好きでいさせて。
身体中から、カイトを好きな気持ちが溢れ返る。
まだ、伝えていない言葉がたくさん転がり出てくるのに、彼女の唇は、もう動かなかった。
だから、こんなに苦しいのだ。
まだ、全然言葉が足りなかったのだ。
もう。
涙が溢れて―― 身体も、崩れ落ちてしまいそうだった。
このまま、地面に座り込んで泣き伏してしまいたかった。
ぎゅっ。
手に、自分以外の力がかかった。
メイは、目を見開いた。
ぎゅうっ。
その手が、さっきよりも強くなる。
彼が―― 握り返してくれている。
信じられなかった。錯覚かと思った。
けれども、その力はどんどん強くなる。
もう、メイが握っている手の強さなんかとっくに越えて、握りつぶされてしまうんじゃないかと思うくらい痛くなった。
あ。
「あ…」
メイは、それを声にした。涙で掠れた声になる。
これは、夢なのだろうか。
それとも、横を向いたらカイトはいなくて―― 違う何かがいるのではないかと思った。
唇を震わせたまま、信じられないまま、メイは彼の方を向こうとした。
ぱっと。
手が離された。
ああ。
触れ合っていた部分がなくなる。
途端、冷たい空気が彼女の手を包んで、さっきまでが錯覚であったかのように思わせる。
ああ、やっぱ…。
やっぱり。
そう、メイの心がその言葉の形を作ろうとした時。
「…!」
身体に強い衝撃が来た。
気づいたら誰かが―― すぐ側にいた。
目の前に、身体があるのだ。
いや、激しく接触している。
自分の背中にかかる力が、もっともっとその身体の方に密着させようとしている。
何?
これは…何?
メイは、分からなかった。
手は、冷たい。
もう、誰も握ってくれない手は、空中を泳いだまま。
なのに、胸がこんなに暖かい。
誰かが、彼女を包んでいるのだ。
熱く、激しく、抱き竦めているのだ。
…トだ。
顔は、見えない。
…イトだ。
カイトが。
彼が、いま自分を強く抱きしめているのだ。
カイトは、彼女を抱きしめる腕に更に力を加えた。
あ…。
あ…あ…。
メイは、自分の両腕がどこにあるのか、一瞬分からなかった。
神経をたどって見つけるやいなや、彼女はカイトの背中にすがりついた。
もっと!
もっと、もっと、もっと!
もっと、側に来て!
もう、意味とか理由とかどうでもよかった。
彼が抱きしめてくれた。
彼を抱きしめられる。
その事実だけあれば、他に何もいらなかった。
「好き…き…」
何度繰り返しても―― 涙でぐちゃぐちゃの声しか出なかった。