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01/09 Sun.-3

 メイが―― 働いている。


 カイトは、思わず何度も瞬きをして、その存在を確認してしまった。


 ついさっき、彼の手を離れて調理場に逃げてしまったが、間違いなく彼女はそこで鍋なんかを洗っていた。


 一生懸命、という顔で。


 仕事。


 そう言われた。


 鍋を洗うのが仕事なのか、と思いかけたが、そうではないことに気づく。


 鍋洗いが済んだら、今度は掃除を始めたのである。


 カイトがそこに立って見ていることに気づいてはいるのだろうが、メイと視線がぶつかることはなかった。


 調理場が終わったら、次はダイニングだ。


 彼の脇をすりぬけて、新たな場所を掃除にかかる。


 これでは、まるで家政婦だ。


 はっ。


 それで理解した。


 彼女の言った仕事、というのは家政婦の仕事のことなのだ。


 裏で糸を引いているのが、誰かなんて考えるまでもなかった。


 ハルコ以外にありえない。


 本来、彼女のしていた仕事を、いまメイがしているのである。


 何でだ。


 しかし、理由が分からなかった。


 家政婦として戻ってくるなんて、想像だに出来なかった。


 もう二度と、彼女には会えないと思っていたのだから。


 なのにそこにいる。


 胸がきゅっと鳴いた。


 こんな風に―― こまネズミのように働くメイの姿を見たことはなかった。


 一緒に生活している時も、きっと彼女はこんな風に働いていたのだろう。


 彼がムキになって禁止していたために、カイトのいるところでは、働いているのを極力見せないようにしていたに違いなかった。


 知らないメイがいる。


 働くためのジーンズ姿で、あっちにパタパタ、こっちにパタパタ。


 着飾った姿をしているワケじゃない。


 綺麗な服を着て、ちょこんと座っているワケではないのだ。


 なのに、生き生きとして見えた。


 こういう仕事をするのが、好きでしょうがないという顔である。


 きっと、家事をするのが好きなのだ。


 カイトにしてみれば、それを彼女がしているのは、労働をさせているような気がしてしょうがなかった。


 なのに、その姿はいまにも歌い出しそうである。


 ホウキにはホウキの歌があって、雑巾がけには雑巾がけの歌がある。

 それぞれのリズムで、ステップを踏む。


 料理を作る時も、そうだったのだろう。


 カイトの見ていないところでは、いつもこんな風だったのかもしれない。


 しかし、何故メイが家政婦として、ここに帰ってきたのかが分からなかった。


 あんなことがあったのに――


 ゾクッ。


 カイトのうなじに、冷たいものが走った。


 あの記憶を、呼び戻してしまったのである。


 箱を開けると、悪霊たちが飛び出すのは分かっていたのに、彼女を目の前にしたせいで、思い出してしまった。


 ふらっ。


 その気配から逃げるように、カイトは部屋に戻った。


 ジャンパーを脱ぎ捨てて、ベッドにひっくり返る。


 本当は、会社に行こうと思っていたのだ。


 しかし、行けるハズがない。


 彼女がこの家にいて、仕事をしているのだ。


 あのメイが。


 分かるハズがなかった。


 理由なんか、どれだけ考えても思い当たるフシすらなかった。


 だが、彼女を目の前にした途端、こんなにまで胸がかき乱される。


 意識が激しく混乱する。


 ちゃんと考えているフリをして、結局、頭の中は雪崩を起こしているのだ。


 まだ、全然ダメだった。


 ちょっとしたはずみで開いたフタを、カイトはどうにも出来ないでいるのだ。


 ベッドにうつぶせて、目を閉じて、頭を抱えて。


 息を詰めてみても―― あっという間に彼女という存在が、右脳の全フラグを立てて回るのだ。


 全て鮮明に、リプレイする。


 ジェットコースターのようにめまぐるしく変わる画像に、カイトの気持ちの方が追いつけないくらいだった。


 けれど。


 残った気持ちは、たった一粒だけ。



 ――会いた…かった。



 そう、思った瞬間。


 心臓が止まりそうな事件が起きた。


 ドアが、ノックされたのだ。


 カイトは、がばっと身体を起こした。


 ベッドの上からドアを見る。


「メイです」


 他の可能性にすがる前に、ドアの向こうからそんな声が聞こえた。


 間違いのない相手が、そこにいるのだ。


 そっと。


 ドアが開いた。


 呆然とするより他ない。


 彼女は、わざわざこの部屋に何をしにきたのか。


 そうか。


 この部屋の掃除だ。


 カイトはそう思った。


 他のところが終わって、きっとここまでたどり着いたに過ぎないのだ。


 ただそれだけ。


 なのに。


 カイトは目を疑った。


 メイの姿のせいだ。


 さっき、彼が目撃したシルエットとは違ったのである。


 もうジーンズではなかった。


 花柄のロングスカートにジャケット。

 手にはコートという出で立ちだった。


 そして、彼女は言った。


「仕事が終わりましたので、これで失礼させていただきます」


 ぺこり。


 落ち着かないような動きで、彼女は頭を下げた。


 ムカッとしたものが胸をよぎる。どんな状況であろうとも、メイに頭を下げられるのはイヤだったのだ。


 今ですら、そうだった。


 しかし、わざわざ仕事終わりの報告に来た彼女を、見つめるしかできない。


 どんな反応も返せなかった。


「あ、あの…それで…」


 報告はもう終わったのに、ドアを閉ざして出ていかなかった。


 まだそこにとどまって、カイトに何かを伝えようとする。


 慌てた声で、言葉を探しているようだ。


「あの…これから何か予定ありますか?」


 そんなことを言われた。


「もし、なければ…その、一緒にご飯食べに行きませんか?」


 そんなことも言った。


「えっと、その…用意が出来たら降りてきてください。玄関のところにいますから! 待ってます!」


 言い終わると。


 メイは、ぴゅーんとドアの向こうに消えてしまった。


 廊下を走る音と、階段を駆け下りる音が聞こえる。


 カイトは―― 置いてけぼりだった。


 しかも、いま伝えられた3つの文章の意味を掴みあぐねている。


 何だ、と?


 カイトは眉間にシワを寄せた。


 これから、何だと言ったのか、彼女は。


 彼に何をしろと。


 玄関のところで。


 メイが自分を待っている、と。


 他のたくさんの意味は分からないが、彼女は確かにそう言った。


 彼を、待っていると。


 呆然としたまま、カイトはベッドから降りた。椅子にかけたままだったコートを掴む。


 信じられなかった。


 多分、夢だと思った。


 きっと、この部屋を出て廊下を歩き、階段を降りたら、やっぱり玄関は暗いままなのだ。


 誰もいなくて、カイトは胸をちぎられるのだ。


 そうに違いなかった。


 階段を降りていく。


 踊り場を曲がる。



 彼女は―― コートに袖を通そうとしていた。


 ※


「車じゃなくて、バスで行きましょう」


 メイは、まるで遠足に行くかのように、張り切ったオーラをまとっていた。


 状況を把握出来ないままのカイトの前を、そうして歩き出すのだ。


 そのコートの背中に、引っ張られるように彼はついていく。


 5時過ぎ。


 冬は、夕方の5時を越えると、もう外灯にすがるしかない。


 それくらい暗かった。


 そう言えば、いつもハルコは5時くらいまで働いていたか。


 メイもそんな勤務をしているのだろう。


 ということは。


 いつから来ているかは知らないが、きっとこの夜道を歩くのは今日が初めてではないはずだ。


 吹きつける木枯らしに負けないように、メイは前を歩いている。


 ハルコと違って、彼女は車を持っていない。

 だから、バスで通っているのだろう。


 朝も、夜も。


 こんな人通りの少ない道を、大通りまで。


 何かあったら、どうするつもりだったのか。


 それに気づくと、イヤな気持ちがもやもやと、胸の中を立ちのぼる。


 何で!


 何で…家政婦なんかやってやがんだ!


 寒いのに、暗いのに、わざわざバスで通ってんだよ!


 そう怒鳴りたかった。


 彼女にこっちを向かせて、自分を見つめさせて、答えをむしり取りたかった。


 けれど―― その権利は、彼にはなかった。


 メイに対する権利は、もう何一つ持っていないのだ。


 だから。


 分からないまま、ついていくしかなかった。


 大通りに出ると、夕方の渋滞が始まりかけていた。


 日曜日でも、その渋滞は変わらない。


 仕事に行った連中か、そうでない連中かの比率が変わるだけである。


 どこに行くか分からないバスが、何台も通り過ぎていく。


 バス停には、他の人間もいた。


 2人、黙ってそこに立った。


 メイは、さかんに時計を気にするような、落ち着かない動きだ。


 カイトの方だけは見ない。


 きょろきょろと、バスがそこまで来ているか確認するばかりだ。


 駅に向かうバスが止まった時、ようやくちらっとカイトの方を見た。


 多分、このバスに乗ると言いたいのだろうが、彼女はすぐに視線をそらす。


 メイに続いて乗り込むと、一番後ろの横長い席が空いていた。


 彼女はその席に向かい、奥の窓の方に腰かける。


 カイトは、側に座ることは出来なかった。


 一人分空けて、真ん中に座る。


 うるさい女子高生が、前でペチャクチャペチャクチャしゃべっていた。


 くだらない内容だ。


 メールがどうの、男がどうの。


 カイトは顔を顰めたまま、その声を聞かないようにした。


 それよりも、神経を全部窓辺のメイに向ける。


 彼を、どこに連れて行こうとしているのか。


 こんな排ガス臭いバスの中に連れ込んで、足元だけが熱くなるイヤな暖房に焼かれながら―― どこまで揺られればいいのか。


 うるせぇ。


 メイに意識を向けたいのに、女子高生の高い笑い声がカンに障って邪魔をした。


 イライラする。


 ちらり。


 盗み見ると、彼女は外を見ていた。


 窓ガラスに、その表情が少しだけ反射している。


 唇を少し開いて、また閉じて。


 深呼吸のようなため息をついたのまでは分かった。


 人が乗る。


 降りる。


 どんどん外は暗くなって、ゾウの周囲にハイエナが群がって倒そうとするかのように、バスは渋滞の乗用車に取り囲まれた。


 床の下の大きなエンジンが、雄叫びをあげている。


 次は終点の、駅前バスターミナルだと告げられた。


 降りる以外になかった。


 ※


「ここ、すごくおいしいんですよ」


 のれんの前で、そう言われた。


 居酒屋だ。


 カイトは、目をこらした。


 やっぱり居酒屋だった。


 メイを見ると、がらっと扉を開けて入っていくところだった。


 彼の驚きに、気づいてもいないようだ。


 どうして、彼女がこんな店を知っているのか不思議だった。


 確かに、夕食を一緒に―― そんな風に言われたのだが、まさか居酒屋に連れてこられるとは思わなかったのだ。


「はい、いらっしゃ…あら!」


 中から、明るい女性の声が聞こえる。


 カイトも、ずさんに頭を下げてのれんをくぐった。


「こんばんわ、空いてますか?」


 入ってすぐのところで止まっている彼女の後ろ姿を見る。慣れた感じだ。


 ここにも、カイトの知らないメイが溢れていた。


 掃除をしているのを見た時と、同じような感触だ。


「いま、店を明けたばかりだから、見ての通りよ… 一人? って…ああ」


 女将らしい若い女が、後ろに立っているカイトを見た。


 眉を上げて、一瞬好奇の色を見せた後、にこっと笑う。


 カイトは目をそらした。


「カウンターがいいかしら? どうぞ、こっちの席が静かよ、きっと」


 白い手が2人を案内する。カウンターの向こうの端の席だ。


 メイが奥に入った。


 そして、彼女はコートを脱ぐ。


 その姿をじっと見ていた。


「ほら、あなたもそんな野暮なコートは脱いで脱いで」


 うっかりすると、バシバシ叩かれてしまいそうな勢いで女将が言う。


 その声に我に返って、彼も粗雑な動きでコートを脱いだ。


「お酒は、日本酒でいいですか? ここの日本酒、ホントにホントにおいしいんですよ」


 そんなにたくさんは飲めないんですけど。


 いきなり彼女は、そんな風に話しかけてきた。


 店に入るまでとは、全然違う雰囲気だ。


 それまでは、とにかく目的地に着くことだけを考えているような動きだったのに。


 いざ着いてみれば、何気ない感じに話しかけてくる。


「料理もおいしいの知ってますから、任せてもらっていいです?」


 そう言いながらも、彼女は強引にどんどんと女将にメニューを言う。


 何が注文されているのか、カイトにはさっぱり分からなかった。


 ただ。


 メイはひどく元気そうに、女将と雑談を交えながら話している。


 その横顔を見ていた。


 幸せそうに見えた。


 きっと、彼と離れて暮らしていた間も、つらいことなどなかったのだろう。


 いまの楽しそうな表情と、この店との関わりなどで、カイトはそう推測した。


 カイトの、知らない顔をするメイ。


 きっと、彼女の元々の性格はこうだったのだ。


 借金やカイトのような怖い男さえいなければ、物怖じしない明るい性格だったのかもしれない。


 離れていた時間というのは―― こんなにも人を変えるのだ。


 カイトが墜落していく中、彼女は楽しい人生に戻っていたのである。


 やはり。


 あのカゴの扉を開けてよかったのだ。


 ズクン。


 切り傷のような熱を、身体のあちこちに感じる。


 自由に飛び回って、さえずっているではないか。


 彼女の持つ気配に、パワーを感じる。


 隣に座っているだけで、それが伝わってくる。


 きっと。


 あのまま自分の側に置いていたら、こんな力は彼女には生まれなかっただろう。


 それどころか、きっと奪うばかりだったに違いない。


 そして、奪えなかった力が、いま隣で輝いている。


 彼女の方を、見ていられなかった。


「あ、ほら、おちょこ持ってください」


 急ぐようなメイの指が、持ってこられた猪口を彼に押しつける。

 反射的に受け取ると、女将が2人に酌をしてくれた。


 よかった。


 もしも、メイが酌をしようものなら―― きっと、まだ耐えられなかっただろう。


「ええっと…あっと…乾杯」


 カチン。


 猪口が、彼の持っている方にぶつけられた。


 一体。


 何に乾杯しろというのだろうか。

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