01/09 Sun.-1
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日曜日の朝。
珍しく、カイトは寝坊した。
重い身体をむくりとベッドから起こす。
正月も退院早々働き出し、朝早くから夜遅くまでの生活を繰り返していたツケが、ここでどっと出たのだ。
憎らしいことに、身体が今日は休日だと覚えていたようだ。
昨日の土曜日までは、いつも通りに動けたというのに。
退院してから、身体だけがとにかく日常生活を送ろうとしてしまう。
寝て、起きて、仕事をして、時々食事らしきものをして、また寝て。
悪い夢はみなくなった。
それは、精神的に強くなった、とか元に戻った、とかいうことではない。
傷口に爪を立てる存在に、フタが出来るようになったのだ。
カギも何もついていない箱の中に、入れておけるようになっただけ。
ふとしたはずみにも開いてしまったら、彼はいつでも、簡単に入院前のあの惨状に逆戻りすることができるだろう。
小康状態のようなものである。
幸い。
ここまで、ネクタイ仕事を避けることが出来た。
それが、小康状態の原因だ。
もし、ネクタイを締めろと言われたら――
カイトは、そのことを考えないようにした。
仕事…行くか。
まるでモルヒネを求めるように、カイトは仕事をする。
昨日、帰ってきてそのまま寝てしまったので、身体も服も変な重さがあった。
のろのろと風呂場に向かい、そのイヤな重みを洗い流す。
低温のシャワーの湯が、ぬるくカイトの肌を叩いた。
そのまま、ぼんやりとしている。
風呂場は綺麗だ。
いや、彼が荒らした部屋も綺麗になっていた。
正月明けて、ハルコがまたやってきているのだ。
あのお節介な家政婦と会うのがイヤで、仕事を遅くまでしてきている―― というのも確かにあった。
放っておいて欲しいのに、彼女もその夫も、何かと自分に絡んでくるのである。
幸い、退院の日以来、会っていないものの、いつまた急襲されるか分からない。
土、日はハルコは休みだが、『遊びに来る』などという看板を振りかざさないとも限らなかった。
もしくはソウマが、その看板でサンドウィッチマンになりかねなかったのだ。
会社は、彼の防空壕だった。
きゅっとシャワーのコックを締め、そのまま脱衣所に出ると、床を水浸しにした。
乱暴に、がしがしとタオルで拭いて着替える。
シャツにジーンズに。
そこらの若い男と、何ら変わらない格好になる。
いや、まだそこらの若い男の方が、余程ファッショナブルだ。
それから、ジャンパーとサイフを掴むと部屋を出た。
階段に差し掛かる。
ジーンズの尻ポケットにサイフをねじ込みながら、冷ややかな廊下に耐えきれず厚手のジャンパーに片腕を通す。
段を一つ降りていく度に、カイトは少しずつ完成していった。
最後の一段の時に、反対側の腕もジャンパーの袖に通し終わる。
玄関に向かってまっすぐ歩く時には、曲がった襟元に手を突っ込んでいた。
玄関にカギがある。
そこまで来て、ああ、そうかと思った。
そういえば、車があったのだ。
シュウは日曜日だが、もう会社に行ってしまっただろう。
昨日、出勤するとか言っていたようだった。
だから、彼はバイクで会社に行かなければならないと思っていた。
だが、よく考えたら、昨日自分の車に乗って帰ってきていたのだ。
こんな厚手のジャンパーは、必要なかったのである。
少し迷ったが、面倒くさいのでこのまま出かけることにした。
車の中で脱げばいいだけだ。
チャリ。
カイトは、よく冷え切ったカギを掴んだ。
瞬間。
ガシャーン、ガラガラ。
何か金属のものが、変則的に転がった音がした。
カイトは動きを止める。
この家にいるのは、自分一人のハズだったのだ。
もしかしたら、シュウがまだ出かけていないのかもしれない―― 一瞬、そう思いかけたが、違うということが分かった。
音の方向だ。
シュウのいるはずのない方向から、音が聞こえたのである。
猫か、泥棒か。
それとも、単なる偶然による物理的な落下か。
カイトは、カギを置いて音の方に歩いた。
無意識に足早になる。
小さな金属の音は、続いていた。
物理的な音の続きではない。
何かの力によって、それが動かされている音だ。
だから法則がなくて、変則的な音が生まれるのである。
泥棒。
などという単語を、頭によぎらせる寸前。
カイトは、その部屋のドアをバタンを開けた。
ひゅっ。
唇の隙間から息を吸い込んだ。
それを、自分がしてしまったことに、カイトは気づかなかった。
何かが床に―― いたのだ。
転がっていたのは、金物の鍋。
別の場所に転がっていたフタを、拾い上げかけた指が止まっている。
調理場で。
自分を見ていた。
相手を見ていた。
カイトは。
絶対に、自分が死んでしまったのだと思った。
ついにその日が来たのだと。
でなければ。
そこにいるハズがなかった。
鍋のフタを拾っている死神は、驚いた茶色の目でカイトを見上げていた。
※
メ…イ。
死神は、そんな名前を持っていた。
こぼれ落ちそうなくらい大きな茶色の目で、自分を見上げている。
人形のように動きは止まったままで、本当にその存在が生きているかどうか分からない。
いや、それはカイトだって一緒だ。
身動きも取れず、目を見開いて―― 相手を見るしか出来ない。
疑問すら、頭をよぎらなかった。
ただ、呆然とするより他ない。
先に電気が流れたのは、相手の方だった。
はっと我に返ったように、彼女は立ち上がった。
しかし、そのはずみで手に持っていた鍋のフタを取り落とす。
ガシャーン、ガラガラ。
その音は、カイトを我に返らせてくれた。
もう一度瞬きする。
本物だった。
いま、カイトの目の前にいるのは、本物のメイだったのである。
オレは死んだのか?
それともこれは夢か?
分かってもなお、信じられない光景である。
どうして、いま目の前に彼女がいて、こんなところで鍋のフタを落としているのか、何一つ答えを探せないでいたのだ。
しかし、いきなり全身に血が巡り始める。
メイだ。
メイだった。
そこに、彼女がいるのだ。
「あ、あの…」
唇が開く。
間違いない。
彼女の声だ。
いつか、カイトが捨てたジーンズ姿だ。
何もかも、間違いない。
ぱっと―― カイトの脳にまで、その血液が巡った。
「ちょっと来い!」
その腕をひっつかむ。
そして引っ張った。
触れられる存在だ。温度もある。
カイトの大きな手では、指の余る手首だ。
隣のダイニングにまで、とにかく引っ張る。
彼女がそこに実在するのは分かった。
しかし、次に出てくるのは、『何故?』だ。
何故彼女が、ここにいるのか。
ダイニングまで連れてきて手を離す。
とにかく、この一番大きな『何故?』のナゾを解いて欲しかった。
向き直って、その質問を言いかける。
それより先に。
「すみません、私、仕事中なので…!」
ペコリ。
メイは、頭をぱっと下げると、調理場の方に駆け戻ってしまったのだ。
仕事だと?
カイトは、ワケが分からずに―― その場に立ちつくしてしまった。