01/04 Tue.
□
病院を出た。
まだ、少しグラグラする。
カイトは、太陽の光に突き刺されながら顔を顰めた。
冬の日差しのくせに、眩しすぎるのだ。
グラグラするのは、別に貧血や栄養失調の名残ではない。
ずっと横になっている生活が当たり前だったせいで、身体が垂直に慣れていないのだろう。
病院での生活は、ある意味楽だった。
本当に何もしなくていいのだ。
ただ寝ていればいい。
何か持ってこられたら、飲むか食うかして、また寝る。
眠る―― のが、一番よかった。
横になっているだけの時間は長すぎるので、放っておくといろんなことを考えてしまう。
だから、ただ眠った。
入院前は、ひたすらにゲームを作っていたが。
その勢いで、今度は眠りの縁にいつもたたずんでいたのだ。
つらい夢は見なかった。
つらい夢を見たならば、眠りからも逃げ出さなければならなかっただろうが、それがなかったのでぐっすり眠ることが出来た。
しかし、ついに眠りの縁から、現実社会に戻ってくることになる。
これからは、また起きている時間と寝ている時間の、二つに生活を分けなければならないのだ。
普通の人であれば、起きている時間の比率が長い。
まず、やろうと思っていたことがあった。
会社に行くことだ。
そして、あの忌まわしいゲームのデータを全て削除してくることである。
もう、見たくもなかった。
あれが存在していれば、いつか自分があのゲームをしてしまいそうな気がしたのだ。
だから、全て削除すると入院中に心に決めていたのである。
退院したその足で、カイトはタクシーを拾おうと思った。
その時に。
「おお、元気になったじゃないか」
お迎えが―― 来た。
ソウマ・タクシーだ。
余程ヒマに違いない。
何かある度に、カイトの周囲に首を突っ込んでくる2人だ。
カイトは、じろっと2人を睨む。
そう言えば。
療養のせいか、ムカつく、という気力さえ取り戻しているような気がする。
体力の回復というものは、変な効果を持っていた。
「ああ、ちゃんと肉が戻ったな」
目の前に立つと、ソウマは彼を上から下まで眺めて満足そうだ。
人を、植物か何かと勘違いしているのだろうか。
「本当に…これならもう大丈夫ね」
顔色もいいし、健康そうだわ。
ハルコも嬉しそうに目を細める。
フン。
オレは品評会の菊じゃねぇぞ。
カイトは、その2人を置いて一人で行ってしまおうとした。
「おっと」
そんな彼の肩をソウマが掴む。
「はな…!」
振り向きザマに怒鳴ろうとした瞬間、目の前に火花が散った。
顔に、思い切り平手を張られたのだ。
「グーでなかったのは、退院祝いだからだ…まだ残っている分があるが、貸しておいてやろう」
「何しやがんだ!」
飄々と答えられても、ちっともカイトにはワケが分からない。
何故、いきなり顔面張られなければならないのか。
「まあ、そんなに怒鳴れるなら、元気ね」
にこにこしながらハルコが近づいてくる。
しかし、近付いてくるだけでは終わらなかった。
「……!!!!!」
カイトは飛び上がった。
ハルコが、脇腹の肉をつねったのである。
爪の先で思い切り。
神経の上を、ガラスでつま弾くような痛みが、全身にピンボールする。
な、な、何なんだ、こいつらはー!!!!
まだ首筋の毛が逆立っているような気と、まぎれもなく痛みを残す頬と脇をそのままに、カイトは2人を睨んだ。
笑顔ではあるけれども、絶対。
ぜってー、怒ってやがる。
理由が考えられるのは、彼が栄養失調などという病名で倒れたこと。それくらいだ。
しかし、そんなのはカイトの勝手である。
いやなら放っておけばいい。
殴られたり、つねられたりするいわれは、まったくなかった。
このまま2人の近くにいたら、そのうち撲殺されるのではないかと思ったカイトは、違う方向へ歩き始めた。
「おい、どこへ…!」
ソウマが声をかけてくるが無視する。
「帰るなら送っていくわよ」
ハルコの声も無視だ、無視。
あの2人の車に乗せられたら、どこに連れて行かれるか分かったものではなかった。
たとえ、自宅に送ってくれたとしても、その後も上がり込むに決まっているのである。
彼は、最初から会社に行くと決めていたのだ。
それを彼らに言うと、また顔とか脇の心配をしなければならないだろう。
だから、黙って行くに限る。
病院の敷地を出ると大通りだ。
カイトは、後ろから車に乗り込んで追いかけようとする2人の気配を振り切って、タクシーを拾った。
「鋼南電気」
タクシーの運転手は、その言葉で理解した。
さすがに、タクシーの後を追いかけてくるような真似はしなかったらしい。
おそらく、自宅の方に帰ったとでも判断したのだろう。
フン。
しかし、彼はビルの中に入った。
そして開発室に―― 誰かいやがる。
中は相変わらず人の気配があった。
1月4日である。
会社は1月6日から始まるので、まだ年始休暇中のハズなのに。
オタクどもめ。
自分を棚上げにしながら、カイトは無遠慮にドアを開けた。
数人の社員が出勤していた。
彼らは、突然現れた社長にギョッとした顔をする。
幽霊にでも会ったような顔だ。
年末に、ここで倒れたのである。
彼らも目撃しただろうから、驚くのもムリはない。
「しゃ、社長! あけましておめでとうございます!」
慌てて立ち上がる連中が、そんなくだらない時節の挨拶を告げる。
ああ。
そうか。
いまは、『あけましておめでとう』の時期なのだ。
年始休暇という言葉はあっても、その挨拶はスコンと抜け落ちていた。
病室からもほとんど出ない生活をしていたカイトには、無縁の言葉だったのだ。
その挨拶に、眉だけで反応する。
明けたとしても、彼にとってめでたいことなど何一つなかったのだ。
カイトは、いつものコンピュータの前に座ると電源を入れた。
今日の仕事は決まっているのだ。
削除。
全部だ。
カイトは、作成用のディレクトリーごと、本当に丸ごと、一秒のためらいもなく削除した。
消えた。
電子データの良いところは、削除すると本当にこの世のどこにも存在しなくなることである。
どんなに泣こうがわめこうが、絶対に戻って来ない。
これが紙のデータであれば、焼かない限りは、どこかに存在している可能性がある。
たとえ破ったとしても。シュレッダーだって、信用ならないような気がするのだ。
ふぅっとため息をついた。
もう、あのゲームは存在しない。
彼が、エンディングを見ることは、一生ないのだ。
しかし、カイトはそのまま家に帰らなかった。
ハルコやソウマが来ているのでは、という不安もあったし、久しぶりにプログラムを組む、ということもやりたかった。
あのゲームを作る前に、やりかけていた仕事を呼び出した。
冷静だけれども、煩雑としたプログラムの羅列が現れた。
そしてカイトは―― 異世界の言葉の中に埋もれていった。