11/30 Tue.-7
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頭が重い。
泣くと、いつもその後にこうなってしまう。
メイは、そっと顔を上げた。
さっきまで隣にいてくれたハルコも、いつの間にかいなくなり、大荷物と一緒にカイトの部屋に置き去りにされていた。
置き去りにされるばかりだ。
捨てられた動物みたいな、悲しい気持ちに襲われる。
一度、暗い方向に傾いた気持ちを元に戻すのは、すごく難しかった。
カチャ。
しかし、ハルコはそう長く、彼女を置いてけぼりにはしなかった。
ドアが開く。
彼女はトレイを持っていた。
温かい匂いがする。
メイは、重いまぶたで、ぼんやりと目で追う。
「おいしいアップルティーがあるのよ…紅茶は好き?」
にっこり。
ハルコが怒っている顔など、想像もつかない。
どんな時も、その笑顔を浮かべているような気がする。
メイは、コクリとうなずく。
もう、たくさんのことを考えられるほど、頭に活力がなかった。
カチャカチャ。
リンゴの匂いが、部屋に渦を巻き始める。
そのすぐ側にいた彼女は、ハルコの手をじっと見つめる。
「はい…」
机の上の荷物を少しよけて、彼女の目の前に置いてくれる。
「ここの二人はコーヒー党だから、紅茶はほとんど飲まないの…しょうがないから、私用に用意しているのよ」
1人でゆっくりしたい時に飲むの。
ハルコは、紅茶を勧めてくれる。
彼女は黙ったまま、それを取った。
「おいし…い」
一口飲むと、ほぉっと身体の中に熱が浸透していくのが分かる。
一気に血液にまで流れ込んで、身体を柔らかくしてくれているような。
わざとなのか彼女の好みなのか、砂糖が入れてあって甘い。
それが嬉しかった。
「そう? よかった」
向かいの席に座りながら、ハルコも自分用のカップに手をつけた。
お茶のおかげで、少しずつ落ちついてきた。
まだ、頭はぼんやりとしているけれども。
静かな時間だ。
ぬるくなった最後の一口を飲んだら、カップをソーサーに戻す。
その時に、陶器のぶつかるカチャという小さな音が生まれた。
音に呼ばれて、ハルコが彼女に目を向ける。
「着替える前に…お風呂が先のようね…せっかく私が見立ててきたのに、そんな顔では映えないわ」
彼女は立ち上がって、荷物を開け始めた。
トリートメントだの洗顔だのが現れてくる。
「あの…でも…」
どんなに落ちついてきても、この事態は彼女にとっては普通とは思えなかった。
あっさり受け取るには、重すぎる。
けれども、ハルコは有無も言わせぬ笑みを向ける。
どこか、目が笑っていなかった。
「いいのよ…彼は、あなたを泣かすようなことをしたんでしょう? その代償としては安いものだわ」
女性を泣かすなんて。
ハルコは、笑顔を浮かべてはいたのだが、どうやら怒っているようだ。
しかし、それは大きな勘違いだった。
「ち、違います! 私が勝手に泣いただけで…彼は…彼は…関係ありません」
慌てて切り出したはいいけれども、最後の言葉に行くに従って、小さくなってしまった。
彼の名前は知っているのに、メイはその名前をどう呼んだらいいかすら分からないのだ。
少し驚いたような目で見られた。
「そう? それならいいのだけれども…女性の扱いがうまいとは、お世辞にも言えないから…」
苦笑しながら、それでも彼女をバスルームに連れて行こうとする。
「とにかく、お風呂に入ってさっぱりしてらっしゃい。それから着替えて…」
ハルコの言葉に押されそうになるけれども、メイは足を止めて、彼女を見る。
「あの…お聞きしたいことが…」
たくさん。
それはもう、自分でも数え切れないくらいたくさんあるのだ。
しかし、彼女はシッと人差し指を唇にあてた。
「お風呂と着替えを済ませてきたら、何でも答えてあげるわ」
ね?
ダメ押しまでされて――メイは、また脱衣所に逆戻りだった。
いろんな荷物と一緒に。
シャツのボタンに指をかけると、昨夜、このボタンを止めた時のことを思い出す。
同じこの場所で。
彼はひっくり返した衣服の中から、必死に着替えを探してくれた。
何故?
思ったら、また視界がぼやけた。
慌ててボタンを外す。
シャツを脱ぎ捨てると、バスルームに飛び込んだ。
コックをひねって、シャワーの雨を頭からかぶる。
冷たかった。
急激な温度変化に、頭がズキズキと痛むくらい。
次第に、水はぬるくなっていき、最後は温かくなった。
けれどもメイは、そのまましばらくずぶ濡れになりつづけていた。
※
バスルームを出てくると、ハルコが一度脱衣所に来たらしく、タオルや着替えが置いてあって。
長い間タオルで髪を拭きながら、メイはぼおっとした意識を、バスルームに捨ててきたことを知った。
身体中の血液が、さっき紅茶を飲んだ時よりももっとはっきり回っているのを感じる。
何で、泣いてしまったの。
そうなると、途端に恥ずかしさが襲う。
あんな恥ずかしい騒ぎを、ハルコに見せてしまったのだ。
初めて会ったばかりの人に。
どうして、どうして、どうして?
疑問という名の衝動に襲われながら――メイは、頭を拭いていた。
別に、これ以上拭きたいワケではないのだが、考え事を始めてしまって、他のことに作業を切り替えられないのだ。
原因を探そうとした。
ハルコだ。
あの微笑みが、意識でチラつく。
彼女の登場で、自分の存在がひどく恥ずかしくなって悲しくなった。
場違いに思えた。
メイは、タオルの手を止めた。
同じ気持ちが、また襲ってきそうになったからだ。
思い出したのが、裏目に出てしまった。
どうやら、バスルームに捨ててきた気持ちが、はいずり戻ってきたようだ。
慌てて、ごしごしと目をこすった。
また、バスルームに逆戻りするハメになど、なりたくなかったのである。
今度こそ、この脱衣所にその気持ちを捨て、急いで着替えようとした。
ショーツは、ぴったりだった。
でも。
メイは、ブラを取った。
すると、2種類同じ柄のブラがあるのに気づく。見れば、サイズが違った。
サイズを知らないハルコが、大体の予想で二種買ったのだろう。
片方は、見事に当たりだった。
自分のサイズを取ってつける。
早くしなければ、さっき捨てたあの気持ちが、足を伝って登ってきそうだった。
いや、もう冷たい手で彼女のふくらはぎの辺りにいるかもしれない。
スリップ。
それから、服を取る。
ウールのワンピースだった。
白くて。タイツも一緒においてある。黒だ。
全部着込むと、まるで自分が顔の黒いヒツジになったような気持ちになった。
勿論、メイは顔が黒いワケではない。
しかし、この黒いタイツのせいで、そういうイメージを抱えたのだ。
ヒツジ。
おとぎ話では、いつもオオカミがかじりたがる生き物。
定番のシチュエーションだ。
けれども、カイトはヒツジを食べようとはしなかった。
全然、危ういことなんかなかった。
皿の上のヒツジだったにもかかわらず、歯形一つつけられていない。
――オオカミの気持ちが分からない。
メイは、うつむいた。
その瞬間、冷たい手がふくらはぎに触ったような気がした。
また、あの感じだったのだ。
急いで脱衣所から逃げ出して、強く強くドアを閉めた。
隙間から、追いかけてこられないように。