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12/30 Thu.-1

 自動ドアの向こうに―― ハルコがいた。


 それが、昨日の夕方の出来事。


 あの瞬間、メイはとても驚いたのだ。


 まさか、こんなに早く見つかってしまうとは思っていなかったから。


 彼女一人ではなく、ソウマも一緒だった。

 何も変わらないあの夫婦が、自分を見ていたのだ。


 ハルコが駆け寄ってくる。


 メイが、彼女の身体を心配するより先に、いろんな言葉を投げかけられた。


 突然の再会に、お互い戸惑っていた。


 しかし、メイは仕事中だ。


 たとえ事情を説明してくれと言われても、いまここで話すことは出来ない。


 いや、どこに移動したとしても、どう説明をしたらいいのかなんて分からなかった。


 ただ。


 ここ数日、胸に靄がかかっていた。


 その靄が何なのか、よく分からない。


 巡査さんに、あの居酒屋に連れて行ってもらった日から―― いや、実はもっと前から小さな石が胸にあったのだ。


 その靄を解きたい気持ちはあった。


 でなければ、きちんと眠れそうになかったのだ。


 しかし、その靄を解くには、彼女の持っているカギは少なすぎる。


 開けられるドアだけでは、靄はまだ依然深いままなのだ。


 だから。


 本当はメイも、ハルコと話したかったのかもしれない。


 こんな形で、それが叶うとは思ってもみなかったが。


 昨日は遅番で。閉店までの勤務だった。


 だから、『明日なら…仕事は夕方で終わりですから』と、食い下がるハルコを納得させたのだ。


 明日、仕事が終わったら、絶対に電話をちょうだい、と何度も念を押されてケイタイの番号を渡された。


 あんなに一生懸命訴えるハルコを見たのは初めてだった。


 心配をさせてしまったのだろう。


 だとすると、物凄く胸が痛い。


 そして、ついに仕事が終わってしまった。


 店の近くの公衆電話から、震える指でハルコのケイタイ番号を押した。


 これを押してしまうと、あの日のことを、また一から全部思い出さなければならないのだ。怖くてしょうがなかった。


 もうあんな思いをするのはイヤだ。


 けれど。


 靄が。


 胸の中に、そんなものが立ちこめているのである。


 自分のカギだけでは開かない扉を、ハルコとソウマがいくつか開けてくれるに違いなかった。


 でも、怖い。


 怖いまま―― 2回、電話番号を押し間違って受話器を戻す。


 3回目。


 ようやく、メイは全部の番号を押すことが出来た。


 ※


 ハルコの家に、初めて来た。


 よく掃除された室内と、落ちついた家具。


 ところどころにステンシルの可愛い箱や植木鉢が置いてあって、それが部屋の空気に温度を与えていた。


 いや。


 この家には、最初から温度がある。


 人が住むための家だ。


 大きな鉢植えが、たくさん室内に置いてあるのが目につく。


 蘭もあるし、観葉植物も。


 冬とは思えないほど鮮やかな花と、鮮やかな緑に包まれた居間だった。


「植物はみんな、あの人の趣味なのよ」


 私も嫌いではないのだけど。


 ハルコは、ほっとしたように笑いながら、ソファを勧める。


 本当に今日、彼女が現れるかどうか不安だったのだろう。


 遠慮がちにメイは座った。


「そう言いなさんな。緑に囲まれて暮らす人生が、オレ流でね」


 ソウマは、苦笑しながらも自分で自分のフォローを入れる。


 店まで迎えに来てくれたのは、彼だった。


 あの電話のすぐ後に、車はきたのだ。


 きっと、どこかで待機してくれていたのだろう。


 彼は、車の中では何も聞かないでくれた。


 他愛ない話をいくつか話してもらっている内に、この家についたのだ。


「お茶を入れるわね。おいしいお茶があるのよ」


 ハルコの微笑みを見るのは、どのくらいぶりだろうか。


 2週間くらいか。


 それでも、随分昔のことのように感じた。


「夜ご飯も食べて行ってね。大丈夫よ。遅くなってもちゃんと車で送るから」


 笑顔だが、メイがまた逃げるのではないのかという、心配そうな色がいくつも見えた。


 それもしょうがない。


 行き先も告げずに出て行って、未だに彼女が、どこに住んでいるかなども分かっていないだろうから。


 知っているのは、勤め先だけ。


「すみません…ご心配をおかけしたみたいで」


 お茶を持ってきてくれたハルコに頭を下げる。


 彼女には、どんなに頭を下げても足りないくらいだ。

 大事な身体なのに。


「いいのよ…こうして、また会えたんですもの。嬉しいわ、本当に」


 本当よ。


 何度もハルコはそう繰り返した。


 この世に、こんなに自分がいなくなったことで、寂しく思ってくれている人がいたのだ。


 たった一人でも、すごく胸にしみるものだった。


 毎日、誰もいない家に帰るのがつらくて、実は、昨日も居酒屋に行ってしまった。


 あの女将と話したかったのだ。


 話せば話すほど、彼女は楽しい人であることが分かった。


 若いけれども、いろんな苦労をしてきたようで。


 好きという人とも、前に事情があって一度別れたらしいのだ。


『別れていても、私はずっとあの男が好きだったわ』


 そう言った彼女の笑顔が、メイの胸に石を一つ積んだのだ。


 靄がまた濃くたちこめた。


 離れていても―― まだ、こんなに好き。


 その気持ちが石だったのだ。


 そして、女将に曖昧に内容をごまかしながら、今日のことを相談したのだ。


 彼女は、『行ってくればいいじゃない』と、それだけ言った。


 軽い口調ではあったが、メイの背中を押してくれたのは間違いなかった。


 だから、電話を途中でやめずに済んだのだ。


 ついに、ここに来てしまった。


「オレは、ちょっと出かけてくるよ」


 ソウマは、そのままソファには座らなかった。


 ハルコの頬に軽くキスをすると、上着を持って出ていってしまう。


 気を利かせてくれたのだろう。


 男である彼には、話しにくいところがあってはいけないから、と。


 本当に、優しい人たち。


 湯気の上がるティーカップがおかれた。

 白磁に、紫の花が描かれている綺麗なカップだ。


「いただきます…」


 ふぅっと湯気を吹いて、一口つけた。


 これはお茶だ。


 だが、居酒屋で飲んだ日本酒と似ている。


 あったかくて、じんとした。


 そして分かったのだ。


 お酒だから、お茶だからではなかったのだ、と。


 誰かがそこにいてくれて、自分のために用意してくれたものだから―― こんなに胸がジンとするのだと。


 目の裏側がじわっと熱くなる。


 まだ。


 何一つ、話していないというのに。


 何一つ、事情を聞かれていないというのに。


 涙が溢れてきてしまった。


「ごめんな…」



 最後まで、それは言えなかった。


 ※


 また、泣いてしまった。


 ようやく落ちついた頃、冷め切ったお茶のお代わりが注がれる。


 ハルコは、いつも彼女にお茶をいれてくれた。


 一番最初の時も。


 あの時も、メイは泣いて。


 優しいお茶の味を、今でも覚えている。


「昔ね…私、お姫様になりたかったの」


 お茶のおかわりにようやく手をつけた彼女に、ハルコがそんなことを言った。


「お姫様と言っても、劇よ…学校でよくある文化祭とかの劇。配役を決める時、本当は私、すごく主役のお姫様の役をやってみたかったの。綺麗なドレスが着られたのよ」


 膝の上で指を組んで。


 思い出すように、ハルコは話を続ける。


 言葉の最後のところは、ちょっと微笑んで。


 自分でも、動機が不純だと思ったのだろう。


「それで、私ともう一人の女の子が候補になって…じゃあ多数決でってことになったの。あんなにドキドキしたのは、きっとそんなにはないわ」


 昔は、これでも内気な方だったのよ。


 自分ではそう言っているが―― 何となくメイにも想像が出来た。


 彼女は、そんなに騒がしい人ではなかっただろうと。


 勉強が出来て、優しくて、すごく人に憧れられる存在ではあっただろうけども。


「どっちがいいか、手を挙げてください…今思えば、ちょっと残酷な多数決だったわね。せめて、投票にすればよかったのに」


 結局、1票差で負けてしまったの。


 残念だったわ、と、ハルコはいまでも鮮明に思い出せるようなため息を漏らした。


「でも、一番ショックだったのはね…ソウマが、私に手を挙げてくれなかったことなの」


 小学校の頃お隣に越してきて、ずっと仲良くしてきた人だったのに、手を挙げてくれなかったのよ。


 逆に取れば、彼が手を挙げさえしていれば、今頃こんな風に、『お姫様になりたかったの』と言うことはなかったのだろう。


「何故ですか?」


 いま、2人は結婚しているのだ。

 それを考えれば、昔から仲が良かったに違いないのに。


「後で聞いてみたわ…いえ、普通に聞いても曖昧に笑って逃げて答えてくれなかったのだけれども、私が泣いてしまったら、やっと言ってくれたの」


『君に手を挙げたのは…男が多かったんだ』


 ぱちくり。


 メイは、瞬きをした。


 ソウマの白状したという言葉の意味が、うまく身体に浸透しなかったのである。


 けれど。

 何となく。

 分かった。


 ソウマは―― 彼女が男に人気があることが、イヤだったのだ。


「私はね、それまで結構ソウマって大人びていると思っていたのよ。隣に越してきたその日から、ずっとそう思っていたの…でも、その時やっと、男って本当にみんな子供なんだって分かったわ」


 黙ってアマノジャクなことをして、女を独占したがる生き物なんだって。


「私は結局、侍女の役だったの。出番もたくさんあって、侍女の服は地味だったけど、綺麗だったわ。舞台の上で歌を歌いながら、お姫様にお茶を入れたの。お姫様は、かなわない恋をして泣いていたから」


 それから、何かあると必ずお茶を入れるようになったの。


 きっと、いつか重い気持ちを吹き飛ばしてくれる、そんな魔法のお茶に出会えると信じていたわ。


 彼女は、いつも出てくるお茶の秘密を話してくれたのだ。


 侍女の役をやっていなければ、こんなにハルコがお茶をいれることはなかったのだろう。


 ソウマに感謝していいのか分からなかった。


 ゴホン。


 そんな咳払いが、向こうの方から聞こえる。


「もう入ってもいいのかな…」


 入りづらそうなソウマがいた。


 メイが泣いてしまったせいで、彼が出て行ってから、かなり時間が経過していたのだ。


「あら、おかえりなさい」


 ハルコは、にっこり笑った。


「お茶でもいかが?」


 彼女が聞くと、ソウマは眉を上げるようにして、「お願いするよ」と言った。


 話が全然進んでいないことを知ったソウマが、もう一度出て行こうとするのを押し止める。


 止めたのは―― メイだった。


「いいんです…いてください」


 魔法のお茶かどうかは分からない。


 けれども、あたたかいお茶が指先にまで届いて、彼女の心を穏やかにさせてくれた。


 ゆっくりなら。


 彼らに事情が話せそうな気がしたのだ。


 どこから話すべきか。

 それは躊躇したけれども。


 メイは一度、唇を強く引き結んだ後。



「初めて、彼と出会ったのは…」



 そこから、話し始めた。


 出会いを話す。


 連れて来られた経過を話す。


 彼を好きになってしまったことも。


 一つ一つ、ぽつぽつと―― ずっと、たんすの奥に閉まっていた単語を拾いながら、2人に説明していく。


 そして、別れを。


 メイが迷子になってしまって、カイトが迎えにきてくれたこと。


 怒ったままベッドに倒されはしたけれども、それ以上は何もされなかったこと。


 それから、彼がすっかり変わってしまったこと。


 彼女を避け、顔も見るのも辛そうだったこと。


 これ以上、側にいるとカイトが苦しむだけなのが分かって、別れを告げたこと。


 すぐに承諾されたこと。


 最後までよくしてもらって、結局一人暮らしを始めたこと。


 いまのパン屋のアルバイトを見つけたこと。


 クリスマスにケーキを売ったことまで話した。


 そして、2人を見た。


 2人は―― 呆然としていた。


「あきれ…ました?」


 一番最初のところから、話をしてしまったのだ。


 自分がどこに勤めていたかまで。


 それが、2人を呆れさせたと思った。


「あき…れた…」


 そう言ったのは、ソウマだった。


 やっぱり。


 メイの心は、ずんと沈んだ。

 普通の感覚の人なら、そうだろう。


 やはり、ああいう職場で働いていたというこ――


「あきれたぞ! 俺は!」


 いきなりソウマが立ち上がったので、メイはビクッとしてしまった。


「あなた…」


 ハルコが、慌ててそんな彼を止めようとする。


「2、3発…いや、5、6発は殴らないと気がすまん! あのバカを!」


 こんなに激昂しているソウマを見るのは初めてだ。

 本当に、誰かを殴りそうな勢いである。


「気持ちは分かるわ…分かるけど、とりあえずいまはダメよ。だから、座ってちょうだい」


 ハルコがいさめると、まだ怒りさめやらぬまま、どすんとソファに腰を下ろした。


 ふーっと、蒸気のようにため息を吹き出す。


 一体。


 何が、どうしたというのだろう。


 いまの2人の会話を、まったく理解できなかった。


 ソウマが誰かに怒っている。


 しかし、それは自分に向けられているものではないのだ。


 何か説明の仕方が悪かったのだろうか。


「あの…」


 ようやく割って入れる空気を見つけて、彼女は言葉を挟んだ。


「ああ、そうね…私も少し混乱しているみたい…すぐに説明出来ると思うわ…でも、ちょっと待って」



 少しではなく―― かなり混乱しているようだった。

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