12/27 Mon.
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パン屋の仕事が終わる。
慣れたというか、慣れていないというか。
メイはやっぱり重い足取りで、家路に向かった。
もう少し慣れたら、きっと楽になるのだろう。
夕暮れを見ながら、彼女は買い物をどうしようか、と思いながら歩き続けた。
「お?」
どこからか、そんな声がした。
しかし、メイはぼんやりと歩き続けた。
関係のない声だと思ったのだ。
「おい、ちょっと待て…そこの…!」
その咎めるような声が自分に向いているのに気づいて、ドキンとして彼女は硬直した。
この街で、知っている人と出会うとは、思ってもいなかったのだ。
ほんのわずかな人としか、出会っていないのだから。
しかし、相手が人違いをしているのでなければ、はっきりとメイに向けられた声だった。
硬直しながらも、目をこらす。
駆け寄ってくる大きな身体があった。
あれは。
誰だろう?
硬直はしたものの、よく知らない人のようだった。
まだ分からない。
この人、だれ…?
ビクッッッ!
二度目の硬直が、メイを襲った。
分かったのだ。
あの時の格好とは違ったので、すぐには分からなかったが―― あれは。
派出所の巡査さんだった。
顔の威圧感という特徴のおかげで、はっきりと記憶が戻ってくる。
あ、どうしよう。
今更逃げることも出来ずに、彼がすぐ側で止まるまで硬直したままだった。
「ああ、やっぱり見間違いじゃなかったな。あれからどうなったか心配していたんだ。元気そうで何よりだ」
怖そうな外見とは裏腹な笑顔を浮かべて、巡査さんが話しかけてくる。
黒のタートルネックにジャンパーをひっかけた彼は、ぱっと見には、誰も警察官だとは思わないだろう。
もっとヤバそうなところで働いている人に見える。
「ところで、あれから大丈夫だったのか? 怒られなかったか?」
あんな騒々しい真似をしたのだ。
巡査さんも気になっていたのだろう。
けれども。
それは、メイの記憶を揺さぶった。
フタをしていた、寂しくてしょうがなかった気持ちが、あふれ出す。
「お、おい! 何か悪いことを聞いたか? どうした?」
いきなり泣き出してしまったメイは、また、この犬のお巡りさんを困らせてしまった。
※
「びっくりしたわよ…」
有線放送が流れていた。
メイは、おしぼりで目を拭う。
早くこのみっともない顔を、元に戻したかった。
あの場所からさして離れていない、とある居酒屋に連れてこられたのだ。
「ジョウくんが、泣いた女を連れて来るなんて思ってもみなかったわ…隅におけないわね」
カウンターの内側で、女将が笑っている。
もう一つ、新しいおしぼりをくれた。
女将というには、まだかなり若い。
結い上げている黒髪が大人っぽく見せてはいるけれども、それは分かった。
「すみませ…ん」
鼻声でお礼を言いながら、新しいおしぼりでもう一度顔を拭いた。
あんな町中で泣いてしまうなんて。
「人聞きの悪いことを言わんでくれよ、オレだって困ってるんだから…あ、いや、別にそういう意味じゃないぞ!」
迷惑をかけられたとかじゃないぞ、と巡査さんは慌ててフォローをしてくれた。
きっと、彼も余り口が器用ではないのだろう。
その感触がカイトをまた思い出させ、うっとこみ上げるものがあった。
慌てて、おしぼりで瞼を押さえる。
「はいはい、あなたの彼女には黙っておいてあげるわよ」
女将がにこにこしている。
「あいつは、ホントに泣くから…そういうのは冗談でも勘弁してくれ」
頭を押さえながら、巡査はお酒を注文した。
この巡査さんには、誰かいい人がいるのだ。
きっと大切なのだろう。
言葉の端々から、それが読み取れた。
「何か飲むか?」
隣のメイに聞いてくれた。
ようやく落ちついてきて、彼女はまぶたからおしぼりを取った。
「あ、いえ…私は」
これ以上、気を遣ってもらうワケにもいかず、慌てて遠慮する。
「あら…食べて行きなさい。うちの料理はおいしいわよ…大丈夫! ジョウくんにツケておくから」
ね?
にこにこ。
女将の強引な微笑み。
「もう、何とでも言ってくれ…」
力関係的には、この女将の方が上らしい。
メイは、クスッと笑ってしまった。
「まあ、一杯…どうぞ」
ちっちゃな桜色のお猪口を出されて、それじゃあちょっとだけと受け取る。
女将の白い手で、日本酒が注がれた。
「はい、ジョウくんも」
にこにこ。
「そりゃあ、どうも…」
巡査も、苦笑しながらそれを受ける。
一口つけた。
甘い。熱い。胸にじーんとした。
幸せになるワケではないのだが、少しだけ身体の強ばりが取れるような気がする。
外が寒かったせいもあるのだろう。
女将は、他のお客に呼ばれて行ってしまった。
ざわざわとした店のカウンターで、2人でちびりちびりとお酒を飲む。
「あの後…何かあったのか?」
ジョウがぽつりと聞いた。
メイは、一生懸命思い出さないようにしながら、首を横に振った。
何を聞かれても、とにかく首を横に振り続けた。
「あらあら、そんなに振ったら首がもげるわよ…ジョウくんにいじめられたの?」
そうしていると女将が戻ってきて。
ようやく、彼女はその話題から逃げることが出来た。
彼が、全然納得していないのは分かっていた。
でも、もうあの時の話はしたくなかったのだ。
「大体、ジョウくんの様子を見ていると、女の子と話をしているって言うよりも尋問してるって感じよ。それじゃあ、彼女も怖がるわ」
「やれやれ…ここじゃあ、いつもこうだ。オレが悪者か」
歯に衣着せぬ言葉に、巡査もたじたじのようだった。
「それじゃあ、悪者は退散しよう」
と言って、いきなりジョウは席を立つ。
私も帰らなきゃ、と思って慌てて立ち上がろうとする。
が。
「あら、あなたはもうちょっといいじゃない。急いでいないなら、ゆっくりしていきなさい」
と言って引き止められた。
「え、あ…あの…」
出ていこうとするジョウと、女将を交互に見比べながら、メイは戸惑った。
「そうだな、ゆっくりしていけばいい…金のことは気にするな」
あの時オゴれなかった、メシ代だと思ってくれ。
「そんな!」
とんでもない、とメイが出ようとすると、いつの間にか女将がカウンターから出てきて、まあまあ、と彼女を席に戻そうとする。
「誰かいい人が待っているなら止めはしないけど、そうでないなら…ご飯でも食べて行きなさい」
何気ない言葉だったのだろう。
でも、その言葉を言われたら、身体から力がすーっと抜けてしまって―― 席に座ってしまった。
うなだれる。
そうなのだ。
誰も待っていないのだ。
「あら、悪いことを言った?」
心配そうに聞かれて、慌てて『いいえ』と首を振る。
お酒を差し出されて―― でも、今度は黙って受けた。
お酒を、自分から飲みたい気持ちになるなんて、思ってもみなかった。
一口、また飲んだ。
「好きな…人がいるんです」
ぼそっと。
それは、お酒が勝手に言わせている言葉。
自分とカイトのことを知らない人相手だからこそ、こぼせる言葉だった。
「そう…私もいるわよ、好きな人」
ちょっと暗いところと、長髪なのがタマにキズかしらね、あの男は。
言いながら、でも女将はその人を思い出しているような目になった。
「すごく…すごく、優しい人なんです。会社も忙しいだろうに、早く帰ってきてご飯を食べてくれたり、雨の中、お米を3袋も買いに行ってくれたり…」
甦る。
涙は出てこなかったけれども、頭の中をまたあの日の記憶が巡り出す。
びっくりしたり、嬉しかったり、毎日すごく特別な日ばかりだった。
「相手もあなたのことが好きなのね…そんなに優しくしてくれるなんて」
えっ?
メイは、ぱっと顔を上げた。
いま、女将の言った意味が、よく分からなかったのだ。
お酒のせいで、耳がおかしくなったのだろうか。
「あの、いま…?」
もう一度聞き直す。
「あら、だから、相手もあなたが好きなのねって言ったのよ…でないと、そこまでしてくれるハズがないでしょう?」
しかし、聞き間違いではなかった。
誤解のしようのない言葉だ。
「そ、そんなことないです…その人は、みんなに優しい人なんですから」
慌てて、お猪口に残っているお酒を飲む。
料理が出てきた。
おひたしの小皿や、串もの。揚げ物。
「そう? みんなに優しい男なら、つらいわね」
料理を目の前に並べてくれながら、女将は苦笑した。
どうフォローしたらいいのか、分からないのだろう。
そう。
カイトはみんなに優しい人だか―― あれ?