12/23 Thu.
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「社長…」
シュウは目を細めた。
非常に不快な気分だったのである。
カイトは開発室にいて、更に私服のままだったのだ。
一昨日、わざわざこの雑然とした開発室まで出向いて、大事な契約書類と今日の予定まで伝えたのである。
なのに、この有様だ。
しかも、よく見れば―― 一昨日と同じ私服である。
そして、まるで渡されたばかりかのような綺麗な契約書類が、ディスプレイの上に無造作に乗せてあるではないか。
目を通した様子さえない。
挙句、シュウを無視したまま、キーボードを叩き続けている。
「社長、今すぐ背広に着替えてください。約束の時間に遅れます」
強い口調で呼びかけると、ようやく顎を上げる。
立ち上がり方がおぼつかないのは、シュウの忠告を聞いていないということになる。
生命維持に必要な、最低限の栄養素が足りていないのだ。
おそらく、ずっと帰っていないのだろう。
記憶のある限り、最近自宅でカイトを目撃した記憶さえない。
ということは、ずっとここにいたことになる。
睡眠も足りていないだろうし、衛生状態も改善されていないのだ。
まったく無言で、カイトは開発室を出ていく。
着替えに行くのだ。
社長室の方に、背広を一揃え置いていた。
それが久しぶりに役立つ。
やれやれ。
彼がいつも発散している無駄なパワーは、どこにも感じられなかった。
覇気がないというのが、はっきりと見て取れる。
ただ、ずっとコンピュータの前に座り続けているのだ。
置き去りの契約書類を取ってから、シュウが開発室を出ようとした時、後方がいきなり騒がしくなった。
何事かと振り返ると、開発室のスタッフたちが、カイトの座っていたコンピュータの前に群がっているのである。
目を細める。
何をしているのか分からなかったのだ。
「おい、バカ! 押すな!」
「うわ、マジかよ…全然企画にないヤツだぜ」
「ちょっと待て、これどうやって操作すんだ?」
「ばーか、おめー、『コウノ』のゲームやったことねーのかよ。こうすんだよ、こう…ほーら、来ただろうが」
「シミュレーションだぜ、シミュレーション! やっぱ『コウノ』は死んでなかったんだ!」
「こら、どけ…見えないじゃないか!」
「チーフ! ずっりー! オレにさせてくれよ!」
「バカめ。『コウノ』の難易度に、お前がついてこられるか」
「しっ、黙れ…聞こえねーだろ!」
「アホ! まだBGMなんかついてねーよ! 字ぃ見るのに、耳がいるか!」
「おおー! 戦闘MAP! 燃えるー!!!」
「何だ? 向こうは偉く進軍はえーな…人間側不利じゃねーの?」
「これだから、『コウノ』やったことねーヤツは…」
「よっしゃ! 戦闘! って、おい!!!!」
「うわ! タイムゲージありやんの…っかも、メチャクチャはえーじゃねーか! チーフ! 速くコマンド入れないと殺さ…あーあぁ、やられちまった」
「うるさい…まだシステムを把握してないんだ。ガタガタ言うな」
「あっ!」
「何だよ…これ」
「何だよって…食われてんじゃねーの?」
「食われてって…」
シュウは、騒々しくも仕事の能率の悪い部署だ、と思いながら開発室を出て行った。
副社長がそこにいるのにも気づきもしないで、おそらくカイトの作ったゲームでもやっているのだ。
しかも、今日は祭日である。
なのに、あんなにたくさん出社しているとは。
カイトが、開発の連中に非常に尊敬されているのは知っている。
さっきから頻繁に出てきた、『コウノ』という言葉を聞くだけで、それが伺われた。
カイトのプログラマー名だ。
大学時代から、カイトではなくそっちの名前で、ずっとゲームを作っていた。
彼らのほとんどが、そのコウノとやらに撃ち抜かれて、入社した連中なのである。
しかし、分かりませんね。
シュウ自体、ゲームには興味がない。
まあ、チェスや将棋などのボードゲームのようなものは分かるのだが、仮想空間を楽しむRPGや、シミュレーションにはまったく興味がなかった。
しかし、誰かが作った仮想空間に、好んで入りたがる人間たちがいるのだ。
それが彼らである。
誰の空間でもいい、と言うワケではないらしい。
カイトの作る仮想空間が、どれだけ彼らにとってパラダイスなのか―― シュウには、一生かかっても理解不能だった。
そんなことよりも、今日の契約を締結させる方が最優先である。
社長室に向かう。
秘書は今日は休みだ。
無人の秘書席の前に来たところで、カイトは社長室から出てきた。どんな着替え方をしたら、こんなに早く着替えられるのか。
無造作な動きで上着に袖を通しながら、彼はシュウの横を行き過ぎようとする。
しかし、チェックの目は厳しかった。
「社長…ネクタイをお忘れです」
冷静な声に、一瞬カイトは足を止めたが、再び勝手に歩みを進める。
聞こえているのだが、その内容を聞き入れる気にはならないらしい。
シュウは、彼と逆方向に歩いた。社長室だ。
取引先の会社に行くというのに、社長がネクタイなしで現れるのはよろしくない。
それは、昔のいろんな事件で、彼もよく知っているはずだった。
なのに、そんな態度である。
社長室に入るとすぐ目につく床に、ネクタイは力無く落ちていた。
脱ぎ散らかしたものも、そこらにすっ転がっている。
着替えが早いはずだ。
おそらく、ハンガーから背広を抜いた時点では、ネクタイも一緒に取ったのだろうが、結ぶ気が起きずにそんなところに落としたのだろう。
それを拾ってから、彼は踵を返す。
早足で彼を追った。
幸いなことに、エレベーターが上がってくるまで時間がかかっていたようだ。
カイトは、そのドアの前にいた。
ちょうどドアが開き、2人乗り込むことになる。
「社長、ネクタイを」
差し出すが、彼はあらぬ方を向いたままだ。
まったくもって無視を決め込む様子である。
いままでのカイトなら、イヤなものの前で絶対にこんな無視などしない。
癇癪を起こしてでも怒鳴ってイヤを貫き通すのだ。
しかし、いまの彼は怒鳴る気力もわき上がらないようである。
ふぅと、シュウはため息をついた。
こんな状態になった原因を、探るまでもなかった。
あのイレギュラーの女性がいなくなって、いや、いなくなる少し前からこんな風になってしまったのだ。
彼女がいなくなることで、カイトの生活は元に戻るはずだった。
理論でいけばそうだ。
不確定要素を除いたのだから。
なのに、カイトは変わらないままだ。
それどころか、どんどん症状が進行している。
何故、女性一人いなくなっただけで。
やはり彼には理解できない。
しかし、このネクタイだけは、締めてもらわなければならないのだ。
シュウは実力行使に出た。
腕を伸ばして、彼の首に縄を―― ではなく、ネクタイをかけようとしたのである。
バシッッ!
あの態度からは信じられないくらい強い力が、いきなりシュウを襲った。
その勢いに、思わずよろめいてエレベーターの壁に手をついた。
ドラキュラが十字架を恐れるように、ネクタイを恐怖しているようにさえ思えた。
ネクタイが怖いハズなどない。
ネクタイは、ただの無機物だ。
首に結ばれるために存在するのであって、他の役割は何もなかった。
ただ、結びさえすればおさまりがつくというのに。
エレベーターが止まる。
地下駐車場についたのだ。
ドアが開く。
カイトは一人出ていった。
シュウは、いまの衝撃で少し乱れた髪をなでつけながら、ネクタイを持ったまま後を追う。
ネクタイが一体何だと言うのです。
この先の契約が思いやられて、シュウは眉間に薄い影を浮かべた。
幸いだったのは―― 契約先がダークネスというところで。
今回の契約の力関係は、こちらの方が強いというところだった。
向こうの社長も風変わりで有名だ。
ネクタイがなくても、おそらく契約は締結できるだろう。
それは、彼にも分かっていた。
しかし、こんなことを続けていて、正常な業務に差し障りが出るのは目に見えている。
普通なら干渉しないところだが、対応策が必要なようだ。
シュウは、かつてない難題と向き合うハメになったのだった。
鋼南電気の副社長は、心の病などと闘ったことはないのである。
難題で当たり前だった。