表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
141/175

12/23 Thu.

「社長…」


 シュウは目を細めた。


 非常に不快な気分だったのである。


 カイトは開発室にいて、更に私服のままだったのだ。


 一昨日、わざわざこの雑然とした開発室まで出向いて、大事な契約書類と今日の予定まで伝えたのである。


 なのに、この有様だ。


 しかも、よく見れば―― 一昨日と同じ私服である。


 そして、まるで渡されたばかりかのような綺麗な契約書類が、ディスプレイの上に無造作に乗せてあるではないか。


 目を通した様子さえない。


 挙句、シュウを無視したまま、キーボードを叩き続けている。


「社長、今すぐ背広に着替えてください。約束の時間に遅れます」


 強い口調で呼びかけると、ようやく顎を上げる。


 立ち上がり方がおぼつかないのは、シュウの忠告を聞いていないということになる。


 生命維持に必要な、最低限の栄養素が足りていないのだ。


 おそらく、ずっと帰っていないのだろう。


 記憶のある限り、最近自宅でカイトを目撃した記憶さえない。


 ということは、ずっとここにいたことになる。


 睡眠も足りていないだろうし、衛生状態も改善されていないのだ。


 まったく無言で、カイトは開発室を出ていく。


 着替えに行くのだ。


 社長室の方に、背広を一揃え置いていた。


 それが久しぶりに役立つ。


 やれやれ。


 彼がいつも発散している無駄なパワーは、どこにも感じられなかった。


 覇気がないというのが、はっきりと見て取れる。


 ただ、ずっとコンピュータの前に座り続けているのだ。


 置き去りの契約書類を取ってから、シュウが開発室を出ようとした時、後方がいきなり騒がしくなった。


 何事かと振り返ると、開発室のスタッフたちが、カイトの座っていたコンピュータの前に群がっているのである。


 目を細める。


 何をしているのか分からなかったのだ。


「おい、バカ! 押すな!」


「うわ、マジかよ…全然企画にないヤツだぜ」


「ちょっと待て、これどうやって操作すんだ?」


「ばーか、おめー、『コウノ』のゲームやったことねーのかよ。こうすんだよ、こう…ほーら、来ただろうが」


「シミュレーションだぜ、シミュレーション! やっぱ『コウノ』は死んでなかったんだ!」


「こら、どけ…見えないじゃないか!」


「チーフ! ずっりー! オレにさせてくれよ!」


「バカめ。『コウノ』の難易度に、お前がついてこられるか」


「しっ、黙れ…聞こえねーだろ!」


「アホ! まだBGMなんかついてねーよ! 字ぃ見るのに、耳がいるか!」


「おおー! 戦闘MAP! 燃えるー!!!」


「何だ? 向こうは偉く進軍はえーな…人間側不利じゃねーの?」


「これだから、『コウノ』やったことねーヤツは…」


「よっしゃ! 戦闘! って、おい!!!!」


「うわ! タイムゲージありやんの…っかも、メチャクチャはえーじゃねーか! チーフ! 速くコマンド入れないと殺さ…あーあぁ、やられちまった」


「うるさい…まだシステムを把握してないんだ。ガタガタ言うな」


「あっ!」


「何だよ…これ」


「何だよって…食われてんじゃねーの?」


「食われてって…」



 シュウは、騒々しくも仕事の能率の悪い部署だ、と思いながら開発室を出て行った。


 副社長がそこにいるのにも気づきもしないで、おそらくカイトの作ったゲームでもやっているのだ。


 しかも、今日は祭日である。


 なのに、あんなにたくさん出社しているとは。


 カイトが、開発の連中に非常に尊敬されているのは知っている。


 さっきから頻繁に出てきた、『コウノ』という言葉を聞くだけで、それが伺われた。


 カイトのプログラマー名だ。


 大学時代から、カイトではなくそっちの名前で、ずっとゲームを作っていた。


 彼らのほとんどが、そのコウノとやらに撃ち抜かれて、入社した連中なのである。


 しかし、分かりませんね。


 シュウ自体、ゲームには興味がない。


 まあ、チェスや将棋などのボードゲームのようなものは分かるのだが、仮想空間を楽しむRPGや、シミュレーションにはまったく興味がなかった。


 しかし、誰かが作った仮想空間に、好んで入りたがる人間たちがいるのだ。


 それが彼らである。


 誰の空間でもいい、と言うワケではないらしい。


 カイトの作る仮想空間が、どれだけ彼らにとってパラダイスなのか―― シュウには、一生かかっても理解不能だった。


 そんなことよりも、今日の契約を締結させる方が最優先である。


 社長室に向かう。


 秘書は今日は休みだ。


 無人の秘書席の前に来たところで、カイトは社長室から出てきた。どんな着替え方をしたら、こんなに早く着替えられるのか。


 無造作な動きで上着に袖を通しながら、彼はシュウの横を行き過ぎようとする。


 しかし、チェックの目は厳しかった。


「社長…ネクタイをお忘れです」


 冷静な声に、一瞬カイトは足を止めたが、再び勝手に歩みを進める。


 聞こえているのだが、その内容を聞き入れる気にはならないらしい。


 シュウは、彼と逆方向に歩いた。社長室だ。


 取引先の会社に行くというのに、社長がネクタイなしで現れるのはよろしくない。


 それは、昔のいろんな事件で、彼もよく知っているはずだった。


 なのに、そんな態度である。


 社長室に入るとすぐ目につく床に、ネクタイは力無く落ちていた。


 脱ぎ散らかしたものも、そこらにすっ転がっている。


 着替えが早いはずだ。


 おそらく、ハンガーから背広を抜いた時点では、ネクタイも一緒に取ったのだろうが、結ぶ気が起きずにそんなところに落としたのだろう。


 それを拾ってから、彼は踵を返す。

 早足で彼を追った。


 幸いなことに、エレベーターが上がってくるまで時間がかかっていたようだ。


 カイトは、そのドアの前にいた。


 ちょうどドアが開き、2人乗り込むことになる。


「社長、ネクタイを」


 差し出すが、彼はあらぬ方を向いたままだ。

 まったくもって無視を決め込む様子である。


 いままでのカイトなら、イヤなものの前で絶対にこんな無視などしない。


 癇癪を起こしてでも怒鳴ってイヤを貫き通すのだ。


 しかし、いまの彼は怒鳴る気力もわき上がらないようである。


 ふぅと、シュウはため息をついた。


 こんな状態になった原因を、探るまでもなかった。


 あのイレギュラーの女性がいなくなって、いや、いなくなる少し前からこんな風になってしまったのだ。


 彼女がいなくなることで、カイトの生活は元に戻るはずだった。


 理論でいけばそうだ。


 不確定要素を除いたのだから。


 なのに、カイトは変わらないままだ。


 それどころか、どんどん症状が進行している。


 何故、女性一人いなくなっただけで。


 やはり彼には理解できない。


 しかし、このネクタイだけは、締めてもらわなければならないのだ。


 シュウは実力行使に出た。


 腕を伸ばして、彼の首に縄を―― ではなく、ネクタイをかけようとしたのである。


 バシッッ!


 あの態度からは信じられないくらい強い力が、いきなりシュウを襲った。


 その勢いに、思わずよろめいてエレベーターの壁に手をついた。


 ドラキュラが十字架を恐れるように、ネクタイを恐怖しているようにさえ思えた。


 ネクタイが怖いハズなどない。


 ネクタイは、ただの無機物だ。


 首に結ばれるために存在するのであって、他の役割は何もなかった。


 ただ、結びさえすればおさまりがつくというのに。


 エレベーターが止まる。


 地下駐車場についたのだ。


 ドアが開く。


 カイトは一人出ていった。


 シュウは、いまの衝撃で少し乱れた髪をなでつけながら、ネクタイを持ったまま後を追う。


 ネクタイが一体何だと言うのです。


 この先の契約が思いやられて、シュウは眉間に薄い影を浮かべた。


 幸いだったのは―― 契約先がダークネスというところで。


 今回の契約の力関係は、こちらの方が強いというところだった。


 向こうの社長も風変わりで有名だ。

 ネクタイがなくても、おそらく契約は締結できるだろう。


 それは、彼にも分かっていた。


 しかし、こんなことを続けていて、正常な業務に差し障りが出るのは目に見えている。


 普通なら干渉しないところだが、対応策が必要なようだ。


 シュウは、かつてない難題と向き合うハメになったのだった。


 鋼南電気の副社長は、心の病などと闘ったことはないのである。


 難題で当たり前だった。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ