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12/22 Wed.

 今日から、仕事に行くことになった。


 昨日探し回って、ようやく見つけた仕事だ。


 年の瀬が迫ってきている。


 こんな時に見つかるかどうか不安だったのだが、この時期ならでは、の仕事が見つかったのである。


 パン屋のアルバイトだった。


 普段は、店内でのレジ打ちや接客に当たることになった。


 この時期ならでは、というのは―― ケーキも扱っているので、クリスマスケーキ関連で忙しかったのである。


 本当は、きちんとした就職先を見つけたかったのだが、この時期ということもあって、いますぐ雇ってくれそうなところはない。


 だから、パン屋のアルバイトを踏み台にして、年明けにでもちゃんとした就職先を探そうと思っていた。


 もうクリスマスイブが、目の前なのだ。


 ズキッ。


 その行事のことを思うと、胸が痛んだ。


 本当なら、ハルコのクリスマスパーティに行く予定だったのだ。


 その全てを、台無しにしてしまったのである。


 ハルコさん…怒ってないかな。


 あんな置き手紙一つで出て来てしまったことを思うと、更に胸が苦しい。


 だが、きっと彼女に相談したら、引き止められると思った。


 大体、相談なんか出来るはずもない。


 何をどう話せというのか。

 言えないことだらけだ。


 ようやく生活するための道具が、ちょっとずつ揃い始めた部屋で着替える。


 ジーンズ。


 一度、カイトに捨てられてしまったそれだった。


 しかし、ここでは誰もそれを咎める人間などいない。


 上にはセーターを着て。


 髪を整えて、迷った末にちょっとだけ化粧をした。


 そうでないと、顔色が悪いような気がしたのだ。


 ちゃんと、寝ているし食べている。


 でも、心の中のつかえが、まだ全然取れていないのだ。


 そのつかえを振り切って、彼女は家を出た。


 アパートの階段を降りて歩き出す。


 パン屋は駅前にあった。


 昨日じっくり歩き回ったので、この辺りの地理は分かるようになってきた。


 おかげであの日、実にくだらないところで道を間違えていたことに気づいたのだ。


 あんなことのせいで、全てを台無しにしてしまったかと思うと―― 自分を嫌いになってしまいそうだった。


 恥ずかしいことに、例の派出所の前を通らなければ、パン屋には行くことが出来ない。


 あのお巡りさんがまだいるかどうかなんて、確認も出来なかった。


 きっと向こうは覚えているだろうから。


 小走りに走り抜けた。


 怖い番犬のいる家の前を、駆け抜けるように。


 そうして、パン屋に到着した。


 ※


 立ちっぱなしの仕事というのは、実は初めてだった。


 最初に勤めた職場は事務職だったので、全然一日の感覚が違う。


 けれども、きっと慣れると思った。


 重い足で帰り始めた。


 家の近くのスーパーの明かりで足を止める。


 夕飯の材料を買って帰ろうと思った。

 小型の炊飯器をリサイクルショップで買ったので、ご飯を炊くことが出来るのだ。


 とりあえずお米を。


 思い出してしまった。


 スーパーの前で立ちつくす。


 お米を。


 カイトが。


 雨の中買いに行ってくれたことを。3袋も。


 あれを、一つも使い切ることなく出てきてしまったのだ。


 でも。


 何故、3袋も。


 きっと、1袋だとすぐに使い切ってしまって、また買いにいかなければいけないと思ったのだ。


 彼女にしてみれば、それくらいずっとあの家にいていいのだと言われたような気がしていたのである。


 その時のカイトの気持ちと、あの事件の後のカイトの気持ちは、どんな風に変わってしまったのだろう。


 5キロのお米を一つ買った。


 そうしたら、他のものは何も持てなくて、しょうがなくお米だけ抱えて帰った。


 とりあえずお米をといで炊飯器に入れて、タイマーをセットしてから、別の買い物に出る―― もう外は真っ暗だ。


 さっきお米を買ったスーパーに入る。


 トウフは、もう売り切れだった。


 コンニャクはあったけれども、コンニャクの料理を作る気にはなれずに、ニッパイコーナーを後にする。


 野菜のコーナーに行ったら、白菜があった。


 白菜。


 その前で足を止める。


 また思い出してしまった。


 どうしてスーパーにまで、こんなにカイトの記憶が落ちているのだろうか。


 あの交番にも。


 駅までの道のりにも。


 お米にも。


 あの生活を失った記憶が、どこにでも残っているのだ。


 それなら、遠く離れて暮らせばよかったのである。


 駅から電車に乗って、違う街に行けばよかったのだ。


 そうすれば、こんなにまで記憶に捕まることなどないのに。


 でも―― この街にいたかったのだ。


 彼と同じ空気を吸っていたかった。


 もう二度と会えないにしても、あの家に彼が住んでいるのだと、離れていても感じていたかったのだ。


 まだ、好きが全然消えていかない。


 それどころか、会えなくなったせいで、どんどんふくれあがってくる。


 たった数日だ。


 出て来てから一週間もたっていないのに、白菜一つ見ただけでもうダメなのだ。


 メイは、白菜から逃げてジャガイモを買った。


 長持ちするし、いろんな料理にも使える、と心の中で考えながら。


 そんなくだらないことでよかった。


 でなければ、どうしようもないことを、心が求め出すことが分かっていたからだ。


 彼に望まれなければ、あの家にいる意味はなかった。


 だから、出てきたのだ。


 買い物を終えて、スーパーを後にする。


 足早に自分の部屋に戻った。


 冷え切った部屋で、ただ炊飯器だけが動いている。

 明かりをつけて、それからちっちゃなストーブをつけた。


 夕食の準備を済ませて、やっぱりちっちゃなテーブルに乗せる。


「いただきます…」


 思えば。


 彼は、いつも夕食に間に合うように帰ってきてくれていた。


 忙しそうな仕事なのに、いつも。あの事件さえ起きなければ、ちゃんと帰ってきてくれたのだ。


 例外だったのは2回。


 週末にハルコ夫婦が来ている時に逃げ出した日と、連絡があった日だけは遅くなった。


 忙しく、なかったんだろうか。


 6時と言えば、一般会社の定時である。


 しかし、普通の会社でも定時ちょうどに帰れるのは、お役所くらいだ。


 ゲーム会社で、おまけに社長という肩書きまで持っているのに、カイトは―― いつも、いつも、いつも。



「お塩…入れすぎちゃった」



 失敗の、野菜炒め。

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