12/20 Mon.-3
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「ただいま…」
今日も仕事は順調、空腹感もちょうどいい―― 帰宅するまでのソウマは、人としての充実感を満喫していた。
「あなた!」
しかし、帰り着くやそんな気持ちが吹っ飛ぶ。
妻が青ざめた顔で、出迎えてきたのだ。
「おいおい…そんなに慌てて、危ないじゃないか」
その身体を抱き留める。
何か、よくない事件が起きたのだ。
まさか子供に。
一瞬、さすがのソウマもヒヤリとしたが、ハルコはそんな彼に紙を差し出した。
ぺらっとした薄い紙だが、何か書いてある。
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ハルコさんへ。
突然、何の相談もなく出て行ってしまってすみません。
もうここには、いられなくなってしまいました。
返しきれないご恩があるというのに、こんなことになってしまって、すごく心残りです。
私にとっては、この家にいた毎日が夢のようで。一生忘れられない思い出です。
毎日毎日、すごく幸せでした。
ハルコさんにも、本当に言葉で言い表せないくらいお世話になりました。ありがとうございました。
私がお借りしていた部屋の机の引き出しに、お預かりした貯金通帳などが入っていますので、よろしくお願いします。
それから、彼から預かった現金も一緒に入れておきます。
クローゼットに服が少し残っています。どうしても、入りきれなくて持っていけなかった分です。せっかく買ってきていただいたのに、申し訳ありません。
あとは…他は、もう多分ないと思います。
それでは。
本当にありがとうございました。元気な赤ちゃんを産んでくださいね。ずっと、祈ってます。
キサラギ メイ
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「こりゃあ…」
ソウマはうなった。
お別れの手紙、というヤツだった。
これを残して、彼女はあの家を出て行ってしまったのだ。
「何をやったんだ、あのバカは」
とりあえず、ハルコを宥めるように腕を回しながら居間に向かう。
そしてソファに座らせた。
すぐ隣に自分も座り、身体をもたれさせてやる。
まずは、妻を落ちつかせなければならなかった。
「何も書いてないのよ…何故、出ていくことになったのか」
ちょっとしたことくらいで、出ていくハズはないのに。
ああ、どうしましょう―― ハルコは、本当に珍しくオロオロしていた。
彼らに注いでいた期待が、余りに大きかったせいだ。
ちょっとしたことくらいで、出ていくハズがないというのなら、相当の事件が起きたのだ。
聞けば、カイトとは連絡がつかないらしい。
というか、相手が電話を取らないのだ。
何度もハルコがケイタイの方にかけたらしいが、すぐに留守番電話になってしまうという。
カイトは、留守電が嫌いだ。
吹き込むのも、その声を聞くのも好きでないのを、ソウマは知っている。
そんな彼が留守電にしているということは、最初からそこに入っているメッセージを聞く気もないということだ。
これは。
カイト自身も、相当コタエているのが想像出来た。
もしくは怒って―― いや、それはありえない。
ソウマは、自分の想像を却下した。
あのカイトが、あのメイに怒ることなど想像も出来なかったのだ。
どんなに怒鳴っても、それはいま考えた怒りというのとは違う。
メイの文面も、怒っている様子はどこにもない。
淡々と書かれていることで、余計に悲しささえ伝わってくるようだ。
「シュウなら…」
何か知ってるんじゃないか?
ソウマは自分のケイタイを取ろうとした。
「もう聞いたわ…知ってることは全部。でも、全然お話にもならないのよ」
目撃した事実だけを、彼女に並べて見せたらしい。
やれやれ。
あの家に住んでいる連中ときたら、2人とも問題児だった。
しかし、まだカイトの方がリハビリは可能だと思っていたし、彼女が現れたことによって、絶対に大きく変わるだろうと確信していた。
いや、既に大きく変わり始めていた。
あんなカイトを見るのは初めてだ、という光景を、連続でいくつも見せられてきたのである。
「カイト君は、何だかすごく荒れているみたいだし…私、心配で」
ハルコは―― 自分の恋愛の時だって、こんなにオロオロしたことはなかったかもしれない。
それどころか、温和を自称しているソウマをキレさせて、らしくないことをさせたことすらあるというのに。
少し妬けるが、いまはそんな感情に手をかけるタイミングではない。
「分かった分かった…どうせ、オレも気にはなるからな。今度、一回様子を見てこよう」
よしよしと、そっと抱き寄せる。
「私も…彼女を探すわ…きっと遠くには行っていないと思うの」
早く見つけないと。
ハルコは、まだ落ち着きを取り戻せないようだった。
「おいおいハルコ…自分の身体は大事にしてくれよ」
どうにも興奮状態が持続するのは、身体が普段とは違うせいか。
妊娠中は、いろんなものが不安定になるらしいから。
「でも…」
いても立ってもいられないの。
「よし、じゃあお茶を入れよう」
ソウマは、いきなりソファから立ち上がった。
「え?」
驚いたような妻の目に追いかけられるというのも、たまにはいいものである。
ソウマは、そのままキッチンの方に向かった。
「いつだったか、歌っていただろ? 何だったかな…『泣いてしまったら お茶にしましょう 寂しい夜も お茶にしましょう』…だったかな?」
もうウロ覚えだ。
聞いたのは随分、昔。
でも、彼女はいろんなことが起きると、必ずお茶を飲んでいる。
きっとその歌を忘れていないのだ。
「いつだったかって…中学生の時の劇の歌よ」
よく覚えていたわね。
ビックリした声だ。
台所でゴソゴソやっていたソウマは、ひょいと居間の方に顔を出した。
「覚えているさ。あの時の君は、お姫様に仕える侍女の役で、ティーポットとティーカップを持って歌っていただろう?」
こんな風に。
ソウマは手に持ったティーポットをそのままに、まるでオペラの真似事みたいに大げさに手を広げて、身体を揺らして見せた。
「もう…ソウマったら」
それに、妻はクスクスと笑う。
ソウマも笑顔を浮かべた。
オロオロした顔よりも、そっちの方が美人だった。
「まあ、あのバカのことはオレに任せて…とりあえずはお茶でもしよう」
しかし。
頭の痛い事件であることは、変わりなかった。
修復できればいいのだが。
いまのカイトの状況を、本当はかなり想像したくなかった。