12/19 Sun.-3
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どういうことって。
メイは、彼の問いに戸惑った。
うまく発言の主旨が、シュウには伝わらなかったようである。
長い言葉だったし、落ち着かない口調だったので、聞き取れなかったのかもしれない。
この男は、彼女がどこから来たか知っていた。
一瞬、カイトがしゃべったのかと思って青ざめたが、そうではなかった。彼自身が、調査したのだ。
ひた隠しにしてきたその事実を知られていたというのは、胸が冷たくなった。
けれど、その代償としてさっきの伝言をお願いすることが出来たのだ。
カイトの恩返し。
昔、借金で誰かに助けられて、その恩返しとしてメイを助けたのだと。
そう彼は自分に言った。
だから、彼女はてっきり自分以外にも、何人もそういう風に助けてきたのだろうと思っていたのだ。
もしかしたら、これまで助けたのは、メイ一人だったのだろうか。
彼女が、一番最初の救出者だったのか。
そう思ったメイは、言葉を選びながら、おそるおそるその辺りをシュウに説明したのだ。
すると、ますます彼の表情が怪訝に曇る。
「私の知る限り、カイトが大きな借金をしたことはありませんし、あなたのように誰かをこの家に連れてきたこともありません」
はっきり。
自分の記憶には疑いがないのか。
シュウは、まったく反論の余地もない正確な言葉と発音で、「ない」というのである。
えええええ?
メイは戸惑った。
話が違うのだ。
もしかしたら、彼には隠していたのかもしれない。
親切に思われるのは、どうにも苦手そうな人なので、黙っていたのか。
いろんな疑惑が渦巻いて、メイは動けないでいた。
ソロバンで何度も弾くのだけれども、すぐに打ち間違えて、ご破算でもう一度という状態だ。
「私は…」
そんな彼女に、シュウは態度を変化させる様子もない。
ただ、淡々と言葉を続ける。
「私は、カイトがあなたを連れてきた時、正直言って驚きました。さっき言ったように、これまで彼がこのようなことをしたのは一度もなかったからです」
眼鏡の中の目が、彼女をじっと見る。
メイの中から、何かを探そうとするかのような目である。
「あなたの経歴が分かった時、あんな大金をかけるほどの価値があるとは、失礼ですが私には思えませんでした。彼は、時々不可解なことをやるので、今度のもそうだと思っていました」
言われる言葉の一つ一つを、メイは聞き取るので精一杯だった。
シュウは、別に早口という訳でも、発音が悪いという訳でもない。
ただ、理屈めいた内容のために、分かるようで分からないのだ。
「しかし、どうも何か違ったようです。私には理解できませんが」
困ったものです、とシュウは息を吐く。
彼の言っていることの方が、うまく理解できない。
メイは、ぱたぱたと瞬きをした。
「営業権という言葉をご存知ですか?」
そして、また突拍子もない言葉を出して来たのである。
そんな言葉、聞いたことがないとまでは言わないが、知っている言葉でもなかった。
営業する権利か何かだろうか、と彼女は首を傾げる。
「あなたにお貸しした、この『マーケティング六法』という本の最初の辺りについていた言葉ですが」
やれやれ、という風にまた息を吐いた。
メイは、そう言われても覚えていない。
というより、そこまで読み進められなかったのだ。
「営業権と言うのは商業用語で、店に対する付加価値のようなものです。たとえば、道の両側に、同じ規模で同じものを扱っている店があったとしましょう。もしも、その店を合併吸収する時の金額は、普通ならば右の店も左の店も同じはずです」
シュウは、こういう内容に関しては多弁だった。
メイは、一生懸命頭の中に画像を思い浮かべて、シュウのいう環境を作り上げようとした。
浮かんだのは、お弁当屋さん。
ぽかぽか堂とほくほく亭というお店が両側にある。
「しかし、どういう訳か、片方の店が非常に営業成績がよく、もう片方の店と格差があったとします」
頭の中では、ぽかぽか堂に行列が出来ていた。
ほくほく亭は、主人が寂しそうな顔をして立っている。
「その営業成績のよい方の店を合併吸収する時は、たとえ基本資産が同じだとしても、もう一方の店よりも高い金額が必要になります。目に見えない付加価値があるからです…それを、営業権というのです」
でも。
ぽかぽか堂は、どこかの大きなチェーン店に合併されてしまった。
店も新しくなって、お客も相変わらず来るのだけれども、内装も雰囲気も何もかも、ぽかぽか堂のものではなくなってしまった。
ほくほく亭は相変わらず昔のまま、ほそぼそとお弁当屋を続けている。
お客はそんなに多くないけれども、昔のままの味と雰囲気で。
メイは、はっと我に返った。
頭の中のお弁当屋に夢中で、シュウの言う言葉の意味を理解できなかったのだ。
だから?
もう一度首を傾げると、シュウの眉間にうっすらとシワが寄った。
どうやら彼は、余りに察しの悪いメイに、不快な気分になったようだ。
「私には見えませんが、カイトにはあなたに営業権を支払うだけの付加価値を見つけたのでしょう。しかし、どうやら合併は失敗のようでしたが」
シュウの言葉は、最後までよく分からなかった。
ただ。
他の誰にも見えない価値というものを、カイトが自分に感じてくれたのだろう、というような意味を言っているように聞こえる。
そんなことは。
頭の中のお弁当屋は吹き飛んでいく。
確かにカイトは優しかったけれども、それは元々の性格なのだろう。
あのウソについては、まだ意味が分からないが、もしかしたら彼女の借金について、気を使わせないように言っただけなのかもしれない。
結局、とても優しい人なのだ。
だから、きっと放っておけなかったのだろう。
あの日、初めて店に出た危なっかしい態度の彼女を、保護しようと思ってくれたに過ぎないのだ。
シュウの言葉は、よく分からないし難しかったが、それでも、カイトが優しい人であることを裏付ける発言をしてくれた。
決して理解し合える相手ではないが、彼はカイトのことをよく理解している人なのだ。
「お世話になりました」
話が終わって、ぺこりとメイは頭を下げた。
胸に抱いているお金が音を立てる。
本当は、これは受け取ってはいけないように思えていた。
だが、カイトが自分を助けてくれたことを、フイにはしたくなかったのだ。
もしも、無一文で外に出た場合、ああいう仕事でもなければ、彼女を雇ってくれそうなところは見つからないだろう。
せっかくカイトに助けてもらったこの身体を、ちゃんと自分で守って行こうと決めたのだ。
「私は、別に何もお世話などしていません…そして、あなたがいなくなることで、全て元通りになることを望んでいます」
シュウは、最後までシュウだった。