12/19 Sun.-2
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やっと、元の生活に戻る。
シュウはそう判断した。
カイトが、あの女性が出ていくと告げたのだ。
就寝中に携帯電話が鳴った。
シュウは、ぱちっと目を開ける。
暗い天井が見えたが、そのままむくりと起きあがる。
こんな朝早くに。
枕元の電気をつけ、眼鏡をかけてから時計を確認する。
まだ、明け方の4時だった。
電話は枕元に置いている。
携帯の液晶表示を見ると、「自宅」の文字が見える。
この家の電話番号だった。
ということは、カイトが二階から電話をかけてきているのだ。
一応、カイトの部屋にも自宅の電話は引いてある。
普段は、ネット目的以外では、ほとんど使用されないはずの電話だった。
シュウは、通話ボタンを押した。
「おはようございます」
起き抜けの一言目であったが、言葉が詰まることはなかった。
いつも通りの自分の声である。
『今日は…家にいろ』
しかし、相手の電話の声は、とてもいつも通りのものではなかった。
本当に、この電話の相手がカイトであるか、もう一度記憶と照合しなおしたくらいである。
「構いませんが…どのような用件でしょうか」
シュウは、耳のアンテナを張り巡らしながら答えを待った。
『……あいつが、出ていく』
長い長い、それはもう電波が途切れたのではないかと思うくらい長い沈黙の後、カイトはそう言った。
押し殺したような声だ。
あいつ?
あいつという名前の知り合いは、シュウにはいなかった。
カイトは、よくこういう風に他人を名前以外の呼称で呼ぶ。
答えはすぐに出た。
イレギュラーのことである。
カイトをイレギュラーさせ続けた、あの女性がこの家を出ていくというのだ。
どういった経緯があったかは知らないが、そういうことらしい。
「それと、私がこの家にいることにど、のようなつながりがあるのでしょうか?」
そこは分かったが、まだ不透明な部分を、シュウは聞き出さなければならなかった。
いつもの会話から比べたら、用件を把握しおえるまで5倍は時間がかかっただろう。
それくらい、カイトは黙り込む時間が長かった。
「分かりました…では、そのように」
電話を切った後、そして思ったのだ。
これで元に戻る、と。
※
「これを、カイトから預かってます」
シュウは、書類を入れる袋を差し出した。
中身が何かは、ちゃんと知っている。
「え…」
メイという女性は、その袋を受け取って開けると、戸惑った目で彼を見た。驚いているようだ。
中身は── 300万。
カイトが当座持っていた現金だ。
それを、朝、仕事に出る前にシュウに預けたのである。
ちなみにシュウ自身は、現金をあまり持ち歩かない。
ほとんどがカード決済だ。
「とりあえずそれだけあれば、しばらくの生活には困らないでしょう。もしも、不足のことがあれば、私の方まで連絡をしてもらえれば用立てします」
携帯番号のついている名刺を彼女に渡そうとした。
これも、カイトに指示されたことだった。
でなければ、仕事に差し障りのある電話を、シュウが受けたいはずがなかった。
しかし、メイはその名刺を受け取ろうとしなかった。
「これ、受け取れません!」
その上、現金まで突っ返そうとするのである。
勢いよく胸に押し返されて、彼は咳き込んでしまいそうになった。
とりあえず、落ちないように手と胸でそれを押さえる。
シュウは、ため息をついた。
後から電話をかけてこないのは構わないが、これは受け取ってもらわなければならなかったのだ。
それだけはきつく、カイトから厳命を受けているのである。
受け取った後、彼女が現金を捨てようが、どう使おうがそれは指示されたことではなかった。
メイは、必死な顔でもう一度差し出されるのを拒んでいる。
どうにも、絶対受け取らないというオーラが感じられた。
しょうがない。
シュウは、副社長の顔になった。
これを交渉だと仮定して、彼女に現金を受け取らせようと思ったのだ。
その方が、彼としてもやりやすかった。
「現金なしで、これからどうやって暮らすつもりですか? 行く当てはあるんですか?」
まずは、一番の外堀。
彼女が受け取るのを邪魔しているのは、物理的環境ではなく、精神的環境なのだ。
それを破れば、これを受け取らざる得ないはずだった。
ビクッ、とメイの身体が震える。
うまく効いているようだ。
「住むところを探すのにもお金が必要です。食事をするのにも必要です。生きていくだけでも、このお金はあなたにとって必要なはずです。でなければ、あなたはこの家を出た瞬間から、途方にくれるに違いありません」
手の中の書類袋が、がさっと音を立てた。きっと、中の現金がずれたのだろう。
メイは、反論しなかった。
ただ、黙っている。
視線は、彼の方を向いてはいなかったが、話の内容を聞いているのは明らかだった。
しかし、まだ拒もうとする気配がある。
シュウは、切り札を出すことにした。
ここが、交渉事の一番のパワー・ポイントだ。
もう一押しで切り崩せる。
「また、ここに来る前にいた職場にでも、戻られるおつもりですか?」
それが。
シュウの切り札。
彼女が、凍り付いたのが分かった。
驚きと苦痛が入り交じる。
そんな顔で、ぱっと顔をあげてシュウを見るのだ。
触れられたくなかった話題のようだった。
「別に、カイトがあなたの過去をしゃべったワケではありません。私が自身の判断で調べました」
まったく氏素性の分からない人間を、黙って家の中を自由にさせていたワケではないのだ。
メイがどこの生まれで、どのような経緯をたどったってここまで来たのかさえ、既に調べ上げていた。
あれだけの騒ぎを、不道徳な店で起こしていたのだ。
事件そのものが、まだそんなに過去の話ではない。
興信所を使えば、簡単に調べられた。
それを知った時、もう少しカイトには落ち着きと、自分の立場というものを理解してもらいたいと思った。
彼は、取締役社長なのだ。
しかもゲーム会社の、である。
ゲーム会社というのは、子供をターゲットにしている商売のため、対外的なイメージが非常に大事だった。
いや、大人をターゲットにしているところも勿論あるのだが、世間的なイメージの問題だ。
その会社の社長が、女性を不道徳な店から大金で買い上げて来た、などというスキャンダルが広まろうものなら、営業に障るのである。
だからと言って、彼女に出て行けなどということは、シュウは言わなかった。
結果的には大きな事件にもならなかったし、もし無理に追い出そうとしようものなら、余計にカイトの仕事に差し障りが出そうだったのだ。
しばらく、静観することにしていた。
結論は―― 彼女が出ていくという、シュウの考えていたものの一つと同じ道にたどりついた。
どういう道程を踏んだか、彼が予想する必要はなかった。
「あなたが健全な日常生活を、今日から始めるためには、これは必要不可欠なのです」
彼女の手に、もう一度お金を握らせる。
今度は強く、ではなかったがそれを受け取る。交渉は成功したようだった。
ついにで、名刺も渡せた。
これで、シュウが指示された仕事は終わりだった。
ガサッ。
きゅっと彼女の指に力がこもって、袋が耳障りな音を立てる。
シュウは、一瞬その指の方を見てしまった。
「あの方に…お礼をお願いします。最後まで、ありがとうございました、と」
声が震えていた。
「分かりました」
それくらいは、ものの十秒もかからない仕事である。
カイトと出会う回数を考えたら、無理なことでも何でもなかった。
「それから!」
強い声に思わず身体が押されそうになる。
「それから…私は、その、こんなことになってしまいましたけれども、もしまた誰かつらい人がいたら、同じように助けてあげてください、と。私のせいで、その優しい気持ちまで捨ててしまわないでくださいと…そう、伝えてもらえますか?」
もつれる舌を駆使して、彼女は必死にシュウに何かを言おうとした。
いや、聞こえてはいるのだ。
ちゃんと言葉としての認識もしているのだ。
しかし。
まったく心当たりのないことだった。
「一体、何のことでしょう。あなたと同じようにとは、どういうことですか?」
答えを見いだすことが出来なかった。
彼女は、シュウの知らないカイトの過去の情報を持っているのだろうか。
私生活的な情報には興味がない。
しかし、それが仕事に障るようなものなら知っておくべきだ。
彼女を買って来たのは、会社にとってはマイナスの事項だった。
それと同じこととは何なのか。
シュウは、もう少しこのイレギュラー素材と、会話を続けなければならなかった。