12/19 Sun.-1
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あんなに、あっさり受諾されるとは思ってもみなかった。
メイは部屋に帰って、ベッドの端に座る。
気抜けしてしまった。
心のどこかで、彼が怒鳴ってでも引き止めてくれるのではないかと思っていた。
そうであって欲しかったのだ。
そんな、甘い話はなかった。
ただ、『おいとまを』―― そう言った時、カイトがひどく苦しそうな顔をしていたのが気がかりだ。
メイを見るだけで辛そうな表情をしていたのに、どうして出ていくと言っても、あんな顔をしたのだろうか。
彼女は首を左右に振った。
考えても、もう何も戻らないのだ。
明日。
正確には、もう今日のうちにここを出ていかなければならないのだから。
荷物をまとめなきゃ。
部屋を見渡す。
何も持っていくものがないことに気づく。
彼女は、本当に一つも持たずにここに来たのだ。
いや、確かに最初に着てきた下着と毛皮はあった。
しかし、どっちもずっと残しておきたいものではない。
下着は庭先で焼いた。
毛皮は残っているが、クローゼットの奥深くにしまっている。
本当は焼こうと思ったのだ。
けれども、その大きさに戸惑って、結局不透明なビニール袋に入れてしまってある。
洋服。
クローゼットの中のそれは、ハルコが選んでくれたもの。
カイトが買ってくるように指示をしたのだ。
これも置いていこうかと思った。
しかし、彼の家に女物の服があってもしょうがないことに気づく。
許可を取りに行こうかと思って、やめた。
さっきの様子のカイトの顔を、もう一度見たくはなかったのだ。
あんな彼を見ていると、自分もつらいのである。
メイは、バッグを持っていなかった。
ハルコが服を買ってきてくれた時の紙袋や、買い物の時にもらった紙袋はきちんと取ってあるので、それに服や日用品を詰める。
それでも、全部は入りきらなかった。
入りきれるはずがない。
ここでの3週間の日々が、そんな紙袋に収まるはずがないのだ。
ぼたっ。
ぼた、ぼたっ。
彼女は、慌てて目をぬぐった。
ぬぐっても、ぬぐっても溢れ出して来る。
全部詰めて持って行きたかった。
でも、全てというのなら、カイトもこの紙袋に詰めなければならない。
そうしなければ、決して全部にはならないのだ。
彼は―― 紙袋には入らない。
置いていかなければならなかった。
※
夜が明ける。
整理は済んでしまったが、彼女は一睡も出来なかった。
夜明け前に、誰かが出ていった音がする。
カイトに違いない。
また会社に行ってしまったのだろうか。
見送られてもつらいので、これでよかったのだ。
メイは、ハルコに手紙を書いていた。
出ていった後、この家のことをしてくれるのは、彼女しかいないのである。
それからお礼も書かなければならなかった。
ごめんなさい、も。
手紙と言っても、封筒も便箋もないので、服を開ける時に一緒に挟んであった薄紙を使う。
ボールペンは、この家のあちこちに落ちていた。
きっと、カイトだろう。
シュウなら、自分の持っているボールペンはすべてきちんと管理しているだろうから。
彼が一度は使ったボールペン―― 慌てて、彼女はそれを自覚しないようにした。
でなければ、せっかく止めた涙がよみがえってくるのである。
そうして、できるだけ冷静な言葉で書き連ねた。
これは、調理場に置いておけばいいだろう。
そう遠からず、ハルコがきて見つけてくれるに違いなかった。
手紙だけを持って、メイは部屋を出た。
廊下を歩き、階段を下りる。
調理場に行き、きょろきょろした後、食器棚のティーセットのところに置く。
ここならきっと、ハルコでないと見ないのではないかと思ったのだ。
そうしたら。
あ。
違うものが目にとまった。
マグカップだ。
カイトのカップである。
正確に言うと、カイトがもらったのを、知らずに彼女が使っていた、というカップだ。
一緒に、お茶を飲んだ大事なカップ。
彼の分と一緒に並んでいるそれを、彼女は一つだけそっと取り出した。
ごめんなさい。
泥棒みたいだけれども、このカップを一緒に連れて行きたかった。
ここでの日々を、幻にはしたくなかったのだ。
マグカップだけを持って、調理場を出て部屋に戻ろうとした時。
シュウが、階段のところで待っていた。
何をしているワケでもない。
明らかに彼女を待っていた様子だ。
反射的にビクッとして、カップを後ろに隠した。
咎められて、置いて行かなければならないかと思ったのだ。
「支度が済んだら、私の部屋に来てください」
しかし、彼はメイの持ち物には興味もないようだった。
支度。
メイは分かった。
きっとカイトが話したのだ。
夜か朝かは分からないけれども、そのどちらかで。
もしかしたら、電話かもしれない。
だから、もう彼は知っているのである。
何故呼ばれるかは分からなかったが、ここで彼女は思い出すことがあった。
シュウから本を借りっぱなしだったのである。
それも返さなければならないので頷くと、カップを隠すように抱いたまま部屋に戻った。
もうとっくに、支度なんかは済んでいる。
衣類に包んで割れないように、そのカップを紙袋の中にしまった。
部屋を見回した。
来た時と、何も変わっていない。
昨日までとも、さしたる違いがあるようには見えなかった。
お金と通帳なんかは、机の引き出しの中である。
ハルコへの手紙に残したので大丈夫だろう。
一応、シュウに伝えようかと思った。
本だけを抱えて、再び階下に降りる。
一度しかノックをしたことのない部屋は、彼女を緊張させたが、もうこれが最後なのだと、息をついて扉を叩いた。
「はい、どうぞ」
まるで、医者の診療時のような声で許可が出される。ゆっくりとドアを開けた。
機能美というのを、とことん追求された部屋だった。
いろんな書類や本はあるけれども、決して雑然とした様子はない。
どれもこれも、パズルのピースのように、そこが最良の場所である、というところにはめ込まれていた。
「あの、ご本を…」
とりあえず忘れない内にと、彼女はそれを差し出した。
ああ、とシュウは眼鏡を直しながら受け取った。
「それから、ここでお預かりしている通帳などは、部屋の引き出しの中に入れていますので、ハルコさんにそうお伝えください」
これも言っておかなければ。
「分かりました」
本を、几帳面に本棚の中に戻しながら彼は答えた。
他には。
メイは、言葉を探した。
伝え忘れがないようにと、頭の中を検索かけまくるが、もう他には見つかりそうにもなかった。
そうなると不安になるのだ。
この後、シュウに何を言われるのか。
自分が出て行くくらいで、彼が声をかけてくる必要はない。
ということは、何かカイトからの話があったのだろう。
それを伝えられるのが怖かったのだ。
「では、私の話に入りましょうか」
シュウに、その気持ちはわずかも通じていなかった。
彼は、淀みのない口調で切り出した。