11/30 Tue.-5
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車の音が――聞こえた。
メイは、ぱっと飛び起きる。
昨夜は、ほとんど眠れなかった。
そのせいで、ついベッドでうとうとしてしまっていたのだ。
慌てて、机の上の時計を見る。
しかし、眠り始めて1時間ちょっとしかたっていなかった。
メイは、カイトの帰宅が余りに早いので、自分がついうっかり丸一日くらい眠ってしまったんじゃないだろうかと不安に思ってしまう。
そんなハズがあるわけもない。
彼女は、胸が早く叩くのが分かった。
ドキドキする。
また、彼のあの目とぶつかるのだ。
不安と不安と不安と、それとグレイの目の色が、メイの胸の中で混ざる。
あの灰色だけは、他のものよりも比重が重いらしく、すーっと一筋の線になって沈んでいく感じがした。
まさか、ネクタイを締めたことが気に入らずに、怒りに帰ってきたんじゃないかと、妙な不安がよぎる。
相手は、予測のつかないカイトなのだ。
何が起きてもおかしくなかった。
どうしよう。
そんなバカな話はない、と思いたかった。
たとえ、不安なんかなくても、カイトと向き合うには非常に強い心が必要なのだ。
とりあえず、ベッドから降りる。
いつまでも、寝転がっている女だとは思われたくなかった。
メイは、バタバタとバスルームに飛び込んだ。
まだ顔も洗っていなかったのだ。
しかし。
そこは――昨日の惨状のまま。
カイトが散らかしたものを、たたみかけた跡が如実に残っている。
しかも、今朝着替えに飛び込んだり風呂に行ったりした彼が、けっ飛ばしでもしたのだろうか、あちこち更に乱れている。
ああ…。
メイは、顔を洗おうと思っていたのに、思わず床に座り込んでそれを片付け始めた。
昨夜、彼に叱られたことなど、すっかり忘れてしまっていた。
こんな惨状をまたいでいくことは、彼女には出来なかったのである。
どう入っていたか分からないけれども、ひきだしを開けて、分類しながらしまい始めた。
後で、片づけ方が気に入らないと思われたらどうしよう、と考えながら。
ガチャ。
そうしている内に、部屋のドアが開いたのが分かった。
ドキン、と胸が波打つ。
彼女は脱衣所の方にいて、部屋とを仕切るドアも閉めたので、外からは見えないハズだ。
いるはずの人間がいないのだ。
多分、彼は探すだろう。
きっと、ここなどすぐ見つかる。
けれども、メイは出ていけなかった。
身体が、止まってしまったのだ。
ほんの一時間。
カイトがいなかった時間なんて、そんなもの。
なのに、改めてまた顔を合わせると思うと、胸がドキドキした。
自分がこんな格好で、まだ顔も洗っていないのが――恥ずかしい。
相手は、きちんとした背広姿なのだから。
不公平な格好の自分が、すごく恥ずかしくてしょうがなかった。
しまいそこねたタオルを一つ見つけて、メイはそれを拾った。
持ったまま、メイはとりあえず立ち上がる。
胸は、まだドキドキし続けていて。
そうして、部屋に続くドアの方を振り返った。
ドアの向こうで何かしている音が聞こえる。
ごそごそと。
けれども、メイを探しているような様子はなかった。
もっと静かな動き。
もしかして、もう一人が帰ってきたんだろうかと思った。
どうにもメイを歓迎していない、冷静そうなあの顔がよぎって、彼女は怖くなってしまった。
ドアの外にいるのが誰か分からないと、余計に出ていけなくなる。
もしかしたら、あの二人以外にも、ここに住んでいる人がいるかもしれないのだ。
立ちつくしたままのメイは、その時間がついに終わることを知った。
ガチャリ。
脱衣所のドアが開けられたのである。
ドキン!
喉から心臓が飛び出しそうになった。
硬直したまま、誰が出てくるのかを見ていた。
「あら?」
目が合った。
相手は、驚いた目でメイを見ていた。
女性だった。
薄茶の長い髪がすごく綺麗だった。
整って落ちついた大人の女性の顔。
白いシャツにロングタイト姿で、仕事の出来そうな、人にも好かれそうな、そんな匂いがする。
メイは、更に硬直した。
この家に、女性がいたのだ。
頭の中が、スロットマシーンのように一気に回り出す。自動で止まるタイプだ。
けれども、目はそんなにたくさんはない。
カイトと、もう一人の男と、メイと――目の前の女性。
「あの……あなた?」
誰?
そういう目だった。
とがめているというよりも、驚いているだけだ。
のっぽの男の、いきなり警察沙汰とは違う。
その女性は、腕にカイトが脱ぎ散らかしたままだったシャツを持っていた。
床から拾ってきたのだ。
タオルをぎゅっと握ったまま答えられないメイは、動けずにいた。
「あなた……?」
目に不審がちらつき始めた瞬間。
一つ目のスロットの目が止まった。一番左だ。
目の前の女性の絵柄で、ぴたっと止まる。
それと同時に、ピルルルル――と、鳥のさえずりのような音が聞こえた。
メイは、慌てて頭を巡らせる。
何の音か分からなかったのだ。
しかし、目の前の女性は慌てなかった。
腰からケイタイを取り上げたのだ。
誰からか目で確認した後、彼女は電話に出た。
しかし、視線はメイに注がれている。
不思議と不審の色。
メイは、いたたまれなかった。
別に悪いことなど、何もしていない。
カイトが、勝手に彼女を連れてきて置いていったのだから、そう小さくなる必要もないのだが、自分がここにいるのが、ひどく場違いに思えてきたのだ。
彼らにとって、メイは部外者なのである。
「はい…そうです。あの……ええ…ああ、そうなんですの…はい、はい、分かりました…そうでしたの」
電話でしゃべり出す彼女の唇には、こわばりはなかった。
ひどく親しい相手としゃべっているのだろう。
言葉は丁寧だったが、笑顔がこぼれていた。
メイから、彼女は目を離す。
しゃべる方に集中しているようだ。
「ええ…分かってます…ああ、そんなに怒らないで…分かってます。はい、はい…でも、そうだったんですね…ああ、すみません…分かりました」
彼女は、すごくおかしそうに目を細めた。
いまにも、吹き出してしまいそうなくらい。
メイは、むやみに動くワケにもいかず、タオルをぎゅっと握っていた。
「それで……はい、ええ、そのように……でも……そうだったんですね」
どうしても、それを繰り返さずにはいられないように、その女性は最後の言葉をまた言った。
途端。
『……っ!!!』
ぱっと耳から離された受話口から、人の声が漏れる。
あっ!
メイは、分かった。
その声は、機械を通したものではあったけれども、すぐ分かったのだ。
カイトのものだ。
怒鳴るような感じだったから、余計に分かった。
昨夜から、彼には怒鳴られてばっかりだったから。
この家に入れる女性である。
当然、カイトと関係があってもおかしくない。
二つ目のスロットが止まった。
真ん中だ。
カイトの怒った顔の絵柄で。
キュウッ。
その女性とカイトの顔の並ぶスロットを作ってしまった彼女の胸は、強く締め付けられた。痛いくらいに。
もっとぎゅっと、タオルを握りしめる。
「いえ、ちゃんと分かっています……はい…はい、それじゃ」
彼女は、カイトに怒鳴られたにも関わらず、にこやかだった。
にこやかに、あの彼の怒鳴りに対応出来る人なのだ。
きっと付き合いも長く、親しい相手。
ピッ。
ケイタイが切られ、彼女は腰の位置にそれを戻した。
メイに視線が向けられて、反射的にビクッとしてしまう。
笑顔を浮かべて、彼女は言った。
「少し出かけてきます…すぐ戻りますから」
軽い会釈つきだ。
そうして、彼女は静かに部屋を出て行ったのである。
遠くなる足音。
結局、また1人で取り残されてしまった。
本当は追いかけていって、詳しく話をしたかった。
女性相手なら、この格好を気にせずにすむだろうから。
いや、絶対気になるのは間違いないが、男性相手よりはマシである。
しかし、メイは動けなかった。
そのままうつむく。
最後のスロットの目は――回りっぱなしで止まらなかった。
※
1時間とちょっと。
今度は、まったくもって何もせずにボンヤリとしていた。
そうするより、メイには他にすることがなかったのだ。
勝手に、人の家をあちこちウロつくワケにもいかない。
とりあえず、顔を洗ってさっぱりはしたものの、心はまだ全然晴れやかではなかった。
ぼーっとしながら、いろんなコトを考えてみる。
何度もリプレイしてみた。
昨日の夜からずっと。
何回思い出してみても、頭に残っている以上の情報は出てこない。
結局、バターにすぎないのだ。
ふぅ。
何度目ともしれないため息をついた時、車の音が聞こえた。
はっと顔を上げる。
カイトが帰ってきたのか、それとも彼女か。
でも、多分後者だろう。
朝、彼は背広を着て出て行ったのである。
普通の仕事であるというなら、きっと夕方までは勤務のハズだから。
でも。
あの女の人は、誰なのかな。
大人の女性。
確かにメイもハタチを越えていて、でもペーペーのOLだったのだ。
まだ、全然社会にもまれていなくて、世の中のことなんか分かってもいない。
ちょっとかじっただけだ。
けれど、あの人は――そういうものを全て噛み分けているような笑顔を浮かべるのだ。
静かだけれども、存在感のある人。
考えてみれば。
なんてこの家に住んでいるのが、ふさわしい人なんだろう。
メイは、そう思ってしまった。
キュウッ。
また胸が、動物の赤ん坊のような鳴き声を上げた。
彼女は、ふいと首を横にそらした。
だからといって、感じなくなるワケでもないというのに。
「お待たせ」
今度は、車がついてからこのドアが開くまで、さっきよりも早い時間だった。
きっと、まっすぐ向かってきたのだろう。
ぱっと顔を上げると、メイの予想通り、あの女性だった。
手には大きな荷物を山ほど抱えている。
「あの…」
聞こう。
彼女は、ついに決心した。
この女性に、全ての謎を解いてもらおう。
全部は解けなくても、ちゃんとメイは分からなければならないのだ。
だから、茶色の目に力を込めた。
「ああ、ごめんなさい…ちょっとこれを下ろすの手伝ってもらえないかしら」
なのに、彼女の方が先手を取った。
抱えている荷物を言っているらしい。
慌ててメイは走り寄って、その荷物を受け取る。
「ありがとう…でも、まだあるの…ちょっと待っていらしてね」
優雅な微笑みだった。
同性のメイでさえ見とれてしまうくらいの。
そうして、彼女はまた部屋を出て行ってしまったのである。
「あっ…」
我に返って呼び止めようとしたけれども、大荷物を抱えたままでは、メイの方が身動きが出来ない。
そのまま律儀に待っていると、しばらくしてまた彼女が階段を上がってきた。
「ふぅ…中身は重くなくても、かさばるものだから」
そうして、もう一組の荷物を持ってくると、ソファの前の机に下ろした。
長いため息をつく唇。
赤くて、綺麗な。
メイは、ふっとうつむいてしまった。
やっぱり、この姿は恥ずかしかった。
たとえ同性相手でも。
「あら、ごめんなさい…その荷物、重かったでしょう?」
ぼーっと抱えていた自分に気づいて、机の空いている部分に慌てて荷物を置いた。
「バタバタしてしまって…自己紹介もまだだったわね」
荷物もそのままで、彼女は近づいてきて。
静かに綺麗な手を差し出した。握手らしい。
あ。
彼女には、握手の慣習があるのか。
一方、それに慣れていないメイは、ちょっとだけ戸惑った。
でも、何を込めて握手したらいいのか分からないのだ。
戸惑ったままだと失礼なので、見よう見まねで手を差し出す。
「私は、ハルコ…よろしくね」
名乗る声さえ優雅で。
白鳥の前に連れてこられた気分になった。
自分の姿は、水鏡で映さなくても分かる。
「メイです…よろしくお願いします」
声が無意識に小さくなった。
何をよろしくするのか、分かっているハズもない。
「メイ…可愛い名前ね」
さらりと、こういう社交辞令を言われることも滅多にない。
メイは、そんなこと、と思ったけれども、黙って頬を染めた。
嬉しいと言うよりも、圧倒的に恥ずかしいが先に立つ。
「あの…っ」
手を離しながら、今度こそ聞こうと彼女はハルコに向かって、ぱっと顔を上げた。
相手の方が背が高いのだ。
「ああ…そうだったわ…いつまでも、そんな格好じゃ失礼ね」
なのに。
ハルコの方が、いつも先手に口を開くのだ。
メイは、また言葉を奪われてしまった。
「こちらが下着類ね、こっちがブラウス類。それと、スカートやワンピースを何種類か選んできたの…サイズを聞いていくのをうっかり忘れてしまって…大丈夫そうなのを選んできたんだつもりよ」
最近、ぼんやりしているみたいなの、私。
意味の分からない言葉が、流れるように語られ出す。
本人が言うような、ぼんやりした口調ではなかった。
メイは、内容を把握できず、瞬きをするだけだ。
「それから、こちらの方は日常必要なものね。バスルームに、何にもなくて困ったでしょう?」
ハルコの笑顔の優しさとは裏腹に、メイは胸が詰まった。
この人は。
カイトの部屋のバスルームに、無許可で入れる人なのだ、と。
バスルームの中のものを、全部知っている人なのだと思ったら、ぶわっと熱い塊が、胸の内側からわき上がってきた。
何で。
「いただけません…そんな」
鼻がツンと痛むような感触に襲われる。
慌ててうつむいた。
何で。
苦しかった。
自分が、脱衣所の後かたづけをしようとして叱られたことが、ばっとフラッシュバックした。
ハルコがきっと片付けているのだ。
カイトのものを全て。
だから、叱られたのだ、と。
全部彼女がやっているものに、メイは勝手に手を出してしまったのだ。
全身がピリピリした。
泣きそうになる時、いつもそういう感触になる。
ぐっとこらえる。
泣く理由が見つからなかったからだ。
カイトは若いけれども、もう1人の態度やこの家を見れば、いい仕事をして高給を取っているのが分かる。
そんな彼に、ふさわしい人がいてもおかしくないかった。
最初から分かっていることではないか。
場違いという痛みが、一気に千の針になる。
「あら、どうして…?」
そんな格好のままじゃ困るでしょう?
包みに手をかけて、ハルコはその包装を解こうとする。
箱詰めの――どう見ても、高い服のような気がした。
自分が泣く理由もなければ、その服をもらう理由もないのだ。
それが、痛いくらいにつらかった。
彼女の存在も。
ワケもなく泣きたくなるなんて、初めてのことだ。
いつもちゃんとワケがあったのに。
パサパサと、紙が解かれていく。
けれども、その音は逆に、メイをがんじがらめにしただけだった。
「う…」
声を漏らしてしまった。
自分でも信じられない。
「…どうかしたの?」
だから。
ハルコにもバレてしまったのだ。
せっかく、うつむいて我慢していたのに。
「何でも…ないで…す」
唇を手で覆って、首を左右に振る。
そう言ったら、余計に涙があふれ出してくる。
「何でもないって…何でもなければ、人は泣かないものよ」
近づいてくる感触があった。
メイは、動けなかった。
「わかんな…分からな…いんです」
ぎゅうっと目をつぶったら、ぽたっと自分の頬から、水滴が離れてしまったのが分かる。
「とりあえず、座って…ね?」
そっと手が回される。
なだめるような、優しい手に背中をなでられて、まるで魔法のように側のソファに座らされた。
そうして、頭を抱えてくれる。
「何があったか知らないけれども…泣く時に、そんなにそっと泣いてはダメよ…大きな声で泣かないと誰にも聞こえないわ」
優しい声。
母親の記憶は、ほとんどなかったけれども、きっとこんな感じ。
きっとこんな――
でも、メイは胸の中で首を左右に振り続けた。
泣きたいワケじゃないんです。
泣く理由も、何もないんです。
そう言いたかったけれども、唇は鉛のように重く、そのまま彼女に抱かれているだけだった。