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12/15 Wed.-13

 ベッドの上に座ったまま、服を直す。


 あんなことなど、なかったかのような自分に戻るために。


 けれども、指が震えてしまって、うまく元に戻らない。


 左手で自分の右手をぎゅっと握った。

 まだ手の神経が、完全に戻ってきていないのだ。


 その手首に、さっき起きたのは本当のことなのだと教えてくれる指の跡。


 指の先がジン、とするのは血がいきなり戻ってきたせい。


 どうして?


 その跡を見たら、ついさっきの出来事が、鮮明に巻き戻される。


 彼女の上にいた、カイトの情報全部が。


 分からないことだらけだ。


 どうして、彼はいきなりあんなことを自分にしたのだろうか。


 でも。


 抵抗したりなんかはしなかった。

 身を固くしてはいたけれども、彼を突き飛ばしたりわめいたりしなかった。


 カイトになら、もう何でもいいと思ったのだ。


 彼が、自分を壊したいというのなら、壊されたって構わないと思ったのである。


 だから、目を閉じて力を抜いたのだ。


 あんなに、つらい顔をさせたくなかった。


 理由は分からないけれども、何をされてもまるで全部悲鳴のように聞こえたのだ。


 服をひきはがされても、触れられても―― どれも、痛いばかりだった。


 カイトの手も身体も、まるで全身がハリネズミのように、メイに刺さった。


 そのくらいの痛みは、大したことではない。


 あんなつらそうなカイトの顔を見ているよりは、全然痛くなんかなかった。


 だから、全部を彼に任せたのだ。


 けれども、悲しいことが一つだけあった。


 きっと。


 これで、何かが大きく変わってしまう。


 絶対に、昨日のままではいられない。


 このまま、そんな関係になってしまったら、大きな影が差す気がしたのだ。


 メイが、ではなく、明日が壊れる気がした。


 でも。


 拒めなかった。


 力を抜いた瞬間、カイトがビクッと震えたのが分かった。


 離れる身体。信じられない表情。


 そしてもう、何も起きなかった。


 彼は出ていってしまったのだから。


 何とか服を戻して、ベッドから降りる。


 身体がよろけるのは、今日一日のいろんな驚きと緊張と、とにかくそういうものが一斉に襲いかかってきたせい。


 気を抜けば、そのまま床にへたりこんでしまいそうだった。


 震える膝を我慢して、メイは彼の部屋を出る。

 壁に手をついて、それに沿うようにした。


 あのまま、彼の部屋にはいられなかった。


 カイトが帰ってきた時に、どういう顔をして迎えていいのか、まだ全然分かっていなかったのだ。


 冷静になりたかった。


 落ちつけば、きっと一番いい答えが探せると思ったのである。


 しかし、思考は彼女が冷静になるのを待ってくれたりはしない。


 勝手にさっきのことを考え始めてしまうのだ。

 まだ、部屋にも帰り着いていないというのに。


 出ていく前のカイトの呆然とした顔が甦る。


 我に返って青ざめたような表情。


 現状を信じられないかのようだった。


 ということは、あの時のカイトの乱暴な態度は、きっと頭に血が昇って、自分が何をしているのか分かっていなかったことになる。


 冷静な判断によるものではなかったのだ。


 どういう引き金かは分からないが、彼は我に返った。


 そして、気づいたのだ。


 こんなことをするつもりではなかったのだと。


 それなら、これは―― 事故だ。


 単なる交通事故。


 カイトのバイクに、彼女がちょっと引っかけられただけなのである。


 バイクに乗っていた方はひっかけたことに気づいて、大事故ではないかと青ざめたのだ。


 全然、大したことじゃない。


 明日になれば、全部消えてなくなる。


 部屋に帰るまでの道のり、彼女はずっとそう言い聞かせた。


 せっかくここまでうまくいっていた毎日を、失いたくなかったのだ。


 そして、そんな事故で彼を嫌ったり軽蔑したり出来るハズがない。


 驚いたけれども、怖かったけれども―― でも、まだ心の中で好きの火はともっているのだ。


 あのくらいの風で消えたりしなかった。


 しっかりして。


 なのにまだ震えている自分を、そう叱咤した。


 彼女は、これからいままで通りの自分に戻らなければならないのだ。


 もう、さっきのことはなかったことなのだから。


 朝起こして。


 おはようございますを言って。


 朝ご飯を食べて。


 ネクタイを締めて。


 いってらっしゃいを言って。


 そんな風に、明日さえ乗り切れば、もう次の日からは普通の日だ。


 お互い、この事故を忘れていけばいいのである。


 ちょっとしたかすり傷を、いつまでも引きずりたくなかった。


 それよりも、もっと大事なことはいっぱいあるのだ。


 そして、ようやく部屋に戻った。


 え?


 その瞬間、別の驚きが現れた。


 部屋のドアは開けっ放しだったのだ。


 電気もつきっぱなし。そして、いろんなものが開け放されていたのである。


 バスルームへ続くドアも、クローゼットも。


 朝、彼女がちゃんと締めたハズの扉関係の全部が。


 一瞬、ドロボウが入ったのかと思いかけた。


 慌てて机に駆け寄って引き出しを開けるが、そこには預かっている洋服の代金が、そのまま入っていた。


 ということは、ドロボウではない。


 どうしてこんな…あっ!


 胸が震えた。


 分かったのだ。


 これは―― カイトが彼女を探した跡だったのだ。


 会社から帰ってきて、いなかった自分を部屋に来て探してくれたのだ。


 クローゼットまで開けて。


 いるはずだと思っていたメイがいなくて、きっと彼は驚いたに違いない。


 心配してくれた証が、全部そのドアたちに残っていた。


 ほら。


 胸が熱くなった。


 そのまま床に座り込む。


 顔を指で覆うと、涙が溢れてきたのが分かる。


 ほら、彼はこんなに優しい人なのだ。


 ランパブで大金を出してまで、どこの馬の骨か分からない女を助けて。


 でも、全然借金を返させようと言う気もなくて。


 ずっとよくしてくれた。


 そして、彼女が迷子になったのを、必死になって探してくれたのだ。


 バイクをすっ転がして、派出所に駆け込んでくれたのである。


 そんなことをしてくれる人が、身内以外で誰がいるだろうか。


 優しい人なのだ。


 あんまり怒った結果、自分でも何をしているのか分かっていなかったに違いない。


 だから、大丈夫なのだ。


 メイは、顔を拭った。


 早くこの涙を止めてしまいたかったのだ。

 いつまでも、泣いているワケにはいかなかった。


 またよろよろと立ち上がって、開いているものを全て閉めて回る。


 バスルームへ続くドアだけは、自分が入ってから閉めた。


 このひどい顔を、何とかしたかったのだ。


 今日一日のいろんなものを、全部お湯で流してしまいたかったのである。


 出てきた時には、いつも通りに戻っているハズだった。



 明日、『おはようございます』を言わなければならないのだから。

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