12/15 Wed.-7
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参ったな。
駅東派出所の巡査であるジョウは、保護した女性を前に頭をかいた。
寒そうだったので、ストーブの側の椅子に座らせたまではよかったけれども、彼女はいまにも泣きそうな顔で、だんまりだったのだ。
ただ、名前だけは『キサラギ メイ』と名乗った。
彼が巡回に出た時、どうも様子がおかしかったので声をかけたのだ。
駅周辺は、夜になると治安がよくない。
だから、ジョウのようないかついタイプの巡査が常駐させられているのだ。
これから、いかにも治安が悪くなりますという時間になるのに、メイという女性は、公衆電話の横に座り込んでいたのである。
靴も脱ぎ捨てた状態で。
最初は、家出かと思った。
しかし、彼女が持っていたのは―― どう見ても、今夜鍋でも作るのではないかと思える野菜などだった。
夕食の買い物に出たとしか思えない。
着ているものは、よさげな印象だ。
ジョウの見立てでは、そんな感じだった。
そして、ようやくメイは言ったのだ。
道に迷って、と。
そんなことか、とジョウは驚いた。
この世の終わりのような顔で、言うことではない。
彼らの管轄の仕事だ。
さっそく、彼女が帰れるようにしてやろう。
「じゃあ、住所を教えてもらおう」
聞いた途端、まただんまりになった。
やれやれ。
そして、彼は頭を抱えるのだった。
ワケ有りなのは分かるのだが、一体どういうワケかも推測できないのだ。
「そんな聞き方じゃあ、女の子が怯えますよ」
ほかの巡査が、からかうように言ってくる。
確かに彼は、強面だ。
顔に傷があるのも、印象を悪くしている。
しかし、これでも気を使っているのだ。
この間、老人が困っていたので家まで送ったことがあったが、『威圧的な態度で怖かった』というクレームが来て、上司に注意を受けたのである。
迫力のある外見というのも、善し悪しだった。
「うちに帰りたいんなら、住所を教えてもらえないと、地図で説明することも出来ないし、送ることも出来ない。それくらい分かるだろう」
それとも、何か帰れない理由でもあるのか?
ついつい口調は、言及するようなものになってしまう。
これでも彼にしてみれば、柔らかい表現のつもりなのだ。
うつむいたまま、メイは考え込んでいるようだった。
不安そうな目が、そしてゆっくりと上げられる。
「あの…分からないんです」
何?
「住所…分からないんです」
怪訝なジョウの視線に耐えられなかったのだろう。
また、彼女はうつむいてしまった。
「分からないって…そんな、バカな…それじゃあ、電話番号は?」
驚きながら、それでも質問を続ける。
メイはまた首を横に振った。
こ、これは。
本当にかなりのワケ有りだ。
いまのご時世、自分の家の住所も電話番号も知らないなんてことはありえない。
隠しているとしか思えなかった。
やはり、家出!?
もしくは、虐待!?
ジョウの頭の中では、後者の方が強かった。
本当は、帰りたくないのではないか。
ひどい父親か、夫か、それともヤクザなところで働かされていて、夜な夜な暴力を振るわれているのでは。
ジョウの言う暴力とは、様々なものを指したため、彼の稚拙な右脳は、幼稚園児のクレヨン画並の画力で、ひどい騒ぎを演出していた。
あーれー、お代官様、おやめくださいー、の世界である。
汗が、彼の頬を伝った。
こんな若い身空で―― 勝手な想像に、勝手に同情するジョウであった。
「とりあえず、ハラは減ってないか? 何か店屋物でも取ってやろう…なぁに、お金のことは気にしなくていいぞ」
彼女に気づかれないように汗を拭き、同情深げな声を何とか作って、彼は電話の受話器をあげた。
ハラがいっぱいになれば、もう少し落ちつくかもしれないと思ったのだ。
「あ、結構です!」
慌てたようだったが、拒否の声は強かった。
驚きに、押し掛けたプッシュフォンのボタンを止める。
「あの…うちに帰ったら、おナベだから…きっと…待って…」
ぼろぼろぼろっっっ。
自分の言っていることで、穴に落ちてしまったらしい。
彼女は、ついに泣き始めてしまった。
うわぁ。
内心で、思い切り焦った。
こういうシチュエーションが、彼は一番苦手なのである。
まだ、チンピラがナイフを持って食ってかかってきた方がマシだ。
慌てて、他の署員を捕まえようとしたら、「あ、それじゃあ巡回に行ってきます」などと、帽子をかぶって逃げ出された。
派出所内に、2人きりになってしまう。
ジョウは、困ってしまった。
いやもう、最初から困っていたのだが、その度合いがグンと跳ね上がったのだ。
気分は、『犬のお巡りさん』である。
迷子の迷子の子猫ちゃん、あなたのおうちはどこですか―― と、ワンワン言うしかないのだ。
困りながらも、メイの側に膝をついて、威圧的にならないように下から見上げる。
「帰ってナベを作りたいのなら、すまんがもうちょっと協力してくれ。住所も電話番号も知らない状態では、教えることは出来ない。せめて、何か情報をくれないと」
近くにあった銀行の粗品ティッシュを、彼女の側の机に置きながら、落ちついてくれることを願った。
メイは、まだ泣いてはいたけれども、しばらく考えてはいたけれども、ついに頷いたのだった。
※
自分の住所も電話番号も知らない女性ではあったが、保護者らしき人の職場は知っていた。
そこに何度か電話をかけたらしいが、ダメだったようだ。
だから、あんな公衆電話の側にいたのだろう。
聞けば、震える声で『鋼南電気の社長』と言った。
社長?
ピクリ。
ジョウの耳が、過剰反応する。
もしや、彼女はその社長の愛人か何かで!
あーれー。
クレヨン画の社長とやっちゃんの違いは、やっちゃんの方は顔に傷があって、社長の方が頭がバーコードで太っているところである。
そんな画像を背負ったまま、ジョウは鋼南電気にかけた。
「あー…こちら、○○駅東派出所ですが、そちらに…」
「ああ、もう帰られたんですか…それでは、自宅の住所と電話番号をお聞かせ…え? 出来ない?」
秘書か何かのようだ。
相手は、彼が警察官だと分かったら、少し狼狽したような様子を見せる。
何か刑事事件だと思ったのか。
しかし、自宅の住所と電話番号は教えられないというのだ。
おそらく、これでメイも困ったのだろう。
「どうにかして連絡がつかないですか? それじゃ、○○駅東派出所まで電話を、電話番号は…」
チン。
ジョウは受話器を置いた。
振り返ると、メイはティッシュを何枚かぬいて顔をぬぐっている。
「さあ、これで大丈夫だ。なあに、いまは携帯電話があるんだ。すぐに連絡が来る」
しかし、内心は不安だった。
どういう関係かは分からないが、保護者の勤め先社から、自宅の電話番号なども教えてもらえないような立場なのである。
このメイという女性は。
本当に電話が来るかどうか――
もしこなかったら。
ジョウは、知り合いの女性を検索し始めた。
彼女を、一晩泊めてくれそうな相手を当たっていたのだ。
そして。
電話はこなかった。
キキーーーーッッッ!
ガシャーー-ン!!
代わりに、何か事故でもあったのかと思えるような大きな音が、すぐそこで起きた。