12/15 Wed.-6
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電話は―― かけたのだ。
彼女が唯一知っている、カイトの情報。
鋼南電気に、勇気を出して電話をかけたのである。
『はい、ありがとうございます。鋼南電気です』
受付の女性らしい声が出る。
しょうがない。
電話帳には、代表の電話番号しか書いていないのだ。
いきなり、カイトが出るハズもなかった。
「あっ、あの…あの…」
それなのに、思い切り焦ってしまった。
カイトが社長なのは聞いている。
しかし、本当に『社長をお願いします』で通用するのだろうかと、今になって心配になったからである。
言わなければ自滅だ。
メイは、勇気を振り絞ってそれを伝えた。
返事は。
『どちら様でしょうか?』
はっ。
どちら様ってー!!!!!
これまた焦る。
社長に電話をつなぐのだ。
氏素性の分からない相手を、あっさり通すはずがなかった。
けれど、ここで『メイといいます』などと言えなかったのだ。
そんなもので通用するハズがなかった。
「ええっと…その…家のものです」
精一杯の表現だ。
前回、家政婦発言をしてしまった時、カイトは物凄く荒れてしまった。
だから、彼女なりに一生懸命頑張って言った言葉だ。
これなら、怪しい女からの電話も、うまくコーティングしてくれるのではないかと思った。
『…少々お待ちください』
受付は怪訝そうだった。
でも、どんなに怪訝でもよかった。
とにかく、彼につないでさえもらえたら―― いまほど、カイトに怒鳴られたい時はなかったのだ。
『はい、お電話かわりました』
なのに、また女性の声が聞こえてきた。
まさか違う会社の、違う社長に電話をかけてしまったのでは、と焦る。
『私、社長秘書をしております。ただいま社長は打ち合わせ中で、電話に出ることが出来ませんが、何か急用でしょうか』
ナゾは、すぐに解けた。
けれども、彼女にとっては悪い結果だ。
カイトは忙しいようで―― 当たり前だった。
いまは就業時間中で、彼は代表取締役社長なのだ。
ヒマにしているハズがない。
急用…。
メイは、キョロキョロとした。
まだ、彼女は街中だ。
確かに急用ではあるが、カイトを仕事からひきはがしてまで電話に出させ、なおかつ、こんな間抜けなことが伝えられるだろうか。
出来るハズもない。
「あのっ、その……それじゃあ…シュウさんは」
そうだ!
鋼南電気には、もう一人知り合いがいたのだ。
彼とは親しいワケではないが、迷惑そうにはするだろうけれども、家の住所なり、ハルコの電話番号なり教えてくれないこともないだろう。
『副社長も、ただいま打ち合わせ中です』
よどみのない声が、期待を派手にブロックした。
そんなぁ。
どうしよう。
メイは途方に暮れた。
『お名前とお電話番号をお聞かせ願えますか? こちらの方から、おかけ直しさせますので』
秘書が、それでも職務に忠実に言葉を続けた。
名前と、電話番号。
その壁が、再び彼女の前に立ちふさがった。
「ま、またかけ直します!」
メイは、その言葉に追い回されるように電話を切った。
じわっ。
心細さに涙が出てきた。
うちに帰りたい。
カイトのいる、あのうちに帰りたいのだ。
なのに、どこに行っても『住所』だの『電話番号』だのが、山狩りをするかのように彼女を追い回す。
いまの状態では、逃げ惑うしかないというのに。
カイトと自分をつなぐ線が、こんなになかったのだ。
あんなに近くて、まっすぐな位置にいるように思えたのに、ちょっと立つ位置を変えただけで、もう全然届かないのである。
子供の頃も、一度迷子になったことがあった。
忙しいお父さんに連れられて遊園地に行った時だ。
滅多にない出来事にはしゃいで、あちこち走り回って―― 気がついたら一人だった。
あの時なら、ただ泣けばよかった。
泣けば、誰か助けてくれた。
預かり所みたいなところに連れて行かれて不安だったけれども、お父さんは息をきらせて迎えにきてくれたのだ。
でも、ここは遊園地じゃない。
お父さんもいない。
泣いても、誰も迎えになんか来てくれないのだ。
誰も―― 自分を知らないのである。
カイトさえも。
彼さえも、自分のことを何も知らないのだ。
知っているのは、あの家にいるメイだけ。
街にいる彼女は、こんなに不確かで。
自分が、名札さえ持っていないような気にさせられる。
メイという名前さえも、見失ってしまいそうな気がした。
足…痛い。
そのまま、電話の横に座り込む。
また電話をしなければいけない。
いまはだめだが、きっと仕事終わりの6時前くらいだったら、掴まるかもしれない。
帰るのも遅くなるけれども、夕食も遅くなるけれども、それでも、帰れる最後の希望があった。
その希望しかなかった。
※
どんどん辺りが暗くなる。
寒さも増していって、メイはジャケットの前をかき合わせた。
5時55分。
ビルの時計が、彼の就業時間の終わり近くを告げてくれる。
メイは立ち上がって電話を取った。ストッキングの足で。
もう―― 痛くて、クツをはいていられなかったのだ。
辺りが暗いせいもあって、そんな彼女の格好に気づいている人間はいない。
けれども、足の先が氷のように冷たくなった。
「あの…社長は…」
また同じ道程を踏みながら、何とか秘書のところまでたどりつく。
緊張と寒さで、声が震えてしまった。
『申し訳ありません。社長は、帰宅されたようです』
しかし、秘書は無情な内容を伝えてくる。
「シ、シュウさんは…!」
悲鳴のように、最後の綱にすがみつく。
『副社長も、ついいましがた出られました。お戻り時間は、不明となっております』
絶体絶命だった。
もう、彼女の知り合いは、誰もこの電話番号にはいないのである。
『おそらく、社長は自宅に帰られたと思いますので、携帯電話かそちらの方にかけられたらいかがですか?』
怪訝と同情が入り交じった声で語りかけられた。
「あの…番号教えてもらえますか?」
メイがおそるおそる言った時、しかし、相手の態度が硬化したのが分かった。
『申し訳ございません。プライベートのことは、お答えできません』
それもそうだった。
メイは、家のものと名乗ったのだ。
その家のものが、どうしてカイトの自宅の番号やケイタイの番号を知らないのか。
少なくとも、自宅の方くらいは知っていてしかるべきである。
メイは、電話を切るしかなかった。
どう…しよう。
カイトが家に帰ってしまったら、もう連絡のつけようがなかった。
その家の番号を、彼女は知らないのである。
どうしよう。
帰れない。
このままじゃ、カイトのところに帰れないのだ。
また公衆電話の隣に座り込みながら、メイは途方に暮れる。
きっと、カイトは心配するだろう。
家に帰り着いたら、真っ暗で誰もいなくて。
どう思うだろうか。
でも、迷子になっているとは思わないだろう。
もうメイは、社会生活上では立派な大人なのである。
その大人が、迷子になるなんて。
遊びほうけていると思われるだろうか。
助けてくれた恩も忘れて、出て行ったとか。
違うの…。
熱いかたまりが、次から次に胸の奥からこみ上げてくる。
違うの…帰りたいの。
涙が溢れそうになった時――
「どうかしたのか?」
声をかけられた。