12/15 Wed.-5
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「…長…社長!」
呼ばれたのにも気づかなかった。
はっとカイトが顔を上げると、いま自分がパソコンの前に座っていたのに気づく。
要するに、愛しい開発室にいるのだ。
声をかけてきたのは、他のスタッフで。
いま、自分の意識があらぬ方にいっていたのを隠すために、カイトはジロリとそっちを睨んだ。
八つ当たり以外の何者でもない。
「社長…タバコ、危ないですよ」
しかし、相手はそんな睨みよりも、そっちの方が心配だと言わんばかりだった。
何を言ってるのかと、指に挟んだままのタバコを見ると、かなりの灰の塔状態になっていて、フィルター部分すれすれまで来ていた。
あと1ミリ下までくれば、彼の人差し指と中指にヤキを入れられるほどだ。
ムッッ。
そのタバコを、乱暴に灰皿に押しつける。
乱暴過ぎて、バベルの塔は崩れた。
辺りにぱっと白い灰が散る。
どんなに隠そうとしても、今日のカイトが上の空なのがバレてしまいそうなのが腹立たしかった。
鍋が。
そう、鍋がいけないのだ。
新しいタバコに火をつけながら、カイトは親切なスタッフを追いやった。
オレは何でもない、という態度を崩さずに。
メイが、夜に2人でナベをしようなどと誘ったのだ。
考えると、今度は落ち着かなくなって、スッパスッパとタバコをふかしてしまう。
ナベと言っても、所詮は夕食だ。
いつもと何の違いもないハズなのに、どうして自分の心は穏やかにならないのだろうか。
同じナベを――
カイトの知っているナベと、彼女の知っているナベが同じだと仮定するならば、一つのナベを複数の人間でつつくのである。
しかも、今夜はあのうざったい邪魔者ヌキだ。
何を期待してんだ!
そう自分に怒鳴りろうとすると、尚更すごい勢いでタバコをふかすことになってしまった。
そんな時に、彼に電話が回ってきた。
秘書からである。
「何だ?」
まさか、開発室から引きはがす気ではないかと、イヤな予感がした――そして、本当にその予感が当たってしまった。
『ダークネスの社長がお見えですが…』
カイトは頭をかいた。
珍しいヤツが来たものである。
余り社交的に見えない相手が、向こうからやってきたのだ。
おまけに、アポもナシで。
まあ、いいか。
ダークネスの社長なら、面倒くささはほとんどない。
カイトがネクタイを結ばずにぶらさげていようが、一切気にしない男だ。
何かの提携かライセンスの話か―― まあ、ただヒマだから遊びに来たというヤツでないことは分かっていたので、彼は席を立った。
※
結局、ライセンスの話だった。
社長室を出ていく、長身長髪のスーツ2人組を見送りながら、カイトはふーっと吐息をついた。
シュウが、隣で書類を整えている。
滞在時間は、一時間程度というところか。
時計を見ると5時45分を回ったところだった。
もうすぐ、就業時間が終わりである。
最後の辺りは、実はカイトはまた落ち着かない病気にかかっていた。
まさか、6時過ぎまで彼らが居座るのではないかと思ったからだ。
もしそうなら、帰るのが遅くなってしまう。
結果的には、無駄な心配に終わった。
「アポなしたぁ珍しいぜ…」
カイトは、席から立ち上がりながら言った。
「何でもダークネスの社長が、いきなり訪問を思い立たれたらしいですよ…裏の方で、私にお詫びを頂きました」
シュウが、大事な契約前の覚え書き書類を一枚回してくる。
鋼南電気の持っているソフトの、二次的なライセンス取得に関する覚え書きだ。
販売するソフトの傾向が違うということで、お互いの利害が一致したとのである。
あと15分。
ちらと覚え書きを見た後、シュウに突っ返した。
そして、また時計を見てしまう。
やはり、あと15分。さっき見たのとまったく変わっていない。
おかしい。
彼の体内時計では、確かに時間がたっているハズなのに。
「これを正式な契約書類にする手続きをしておきます…が、それは明日になりますね。私は、これから代理店の方に顔を出しますので…お疲れさまでした」
そんなカイトの心の流れなど、シュウが知るはずもない。
そのまま一礼すると、とっとと社長室を出ていってしまった。
どうすっか。
あと15分なのに、また開発室に行くのは何だかマヌケである。
しかし、このまま社長室でブラブラしているのも変なカンジだ。
あと10分までは―― 我慢した。
が。
もう、我慢できなかった。
カイトは、上着をひっ掴んで社長室を出た。
「あ、社長!」
いきなり出てきた彼を、秘書が呼び止めようとする。
しかし、彼は聞いちゃいなかった。
そのまま、すごい歩幅で突進すると、ちょうど来ていたエレベーターに飛び乗ったのである。
開発室の階では、下りなかった。
そのまま一気に駐車場の地下まで下りる。
「あ、今日はお早いですね…」
などという守衛から車のカギをひったくると、カイトは乗り込んだ。
通勤を車にしてしまったせいで、バイクよりも余計に時間がかかるようになった。
それすら忌々しい。
どうあっても、渋滞には勝てないのだ。
既に真っ暗な夜道を、カイトは急いで車を走らせた。
しかし、信号無視はできなくて―― しょうがなく、車を停止させる。
駅前だった。
クリスマスなど、まだ少し先の話だというのに、既に浮かれ騒いでいるカンジがする。
ケーキ屋のウィンドウには、白いスプレーで雪の結晶だの、メリー何とかの英語が飛び交っている。
ケーキ。
その単語に止まって、慌ててカイトは頭をうち振った。もう、窓の外は見ないようにする。
でないと、自分がとんでもないことをしてしまいそうな気がしたのだ。
ケーキどころの話ではなかった。
そのクリスマスとやらの日には、あのソウマ夫婦のところのパーティに出ると言ってしまったのである。
絶対、どっかで断ってやる。
想像するだけで顔が歪んでしまって。
青信号になった途端、カイトはそれを振り切るためにロケットスタートした。
はやる心を抑えて、ようやく自宅に帰り着く。
車をガレージに頭から突っ込んで、彼は車から降りた。
途端に、凍ったような空気がカイトの身体を捕まえる。
暖房のよく効いた車から、降りてしまったせいである。
朝。
メイが、今日は暖かいと言ったが、夜までその言葉の効力は残っていなかったようだ。
しかし、そんなことはどうでもよかった。
あのドアを開けて、ダイニングに行けば―― 行けば?
あぁ?
カイトは、自分の家を見て違和感を覚えた。
さっき、車を入れる時は気づかなかったが、いま見たら、その違和感ははっきり分かった。
玄関に―― 電気がついていないのである。
いつもなら、明るく電気がともされているハズだ。
うっかり忘れているのか、それとも電球が切れたのだろうか。
カイトは首をひねりながら、ドアに向かった。
ガチ。
冷たい金属のドアノブを回すが、カギがかかったまま。
何…だ?
ますます妙である。
いままで、カギがかかったままだったことなんかなかった。
少なくとも、メイが来てからは、一度も。
慌てて、車のカギを探る。
一緒に家のカギもつけているのだ。
面倒くさがりの彼は、出来る限りのカギをリモコンで操作できるようにしていた。
カシャッ。
ボタンを押した直後、金属的な音を立てて、ロックが解除されたのが分かる。
もどかしい手つきで、彼はドアを開けた。
心臓が慌てだす。
イヤな予感がした。
イヤな予感だ。
ドクンドクンと、勝手に鼓動が早くなって、血が暴れ出す。
こんなことは、一度もなかったのだ。
バタン!!!
ドアを蹴破る勢いで開けた。
冷え切って―― 真っ暗だった。
※
いねぇ!!!!
ダイニングも真っ暗、台所も真っ暗。
どこもかしこも外気と同じ温度で、人がいた気配がない。
いろんなものにガンガンぶつかりながら、カイトは家中走り回って、片っ端から彼女の姿を探した。
メイの部屋の前に立った時は、さすがに一瞬ためらったけれども、もしかしたら、この部屋の中で彼女は倒れているかもしれないのだ。
カイトは、バタン、とドアを開けた。
でも―― いなかった。
風呂場も、トイレもクローゼットの中さえも、全部開け放したというのに、メイの姿はどこにもなかった。
ただ、ベッドの上にキチンとたたまれているパジャマが、彼女がちゃんとこの家に存在していたのだという証明を残しているに過ぎなかった。
ぐらっと、した。
よろけて、壁に手をつく。
頭の中で、ずっとどこか恐れていた。
その冷たい手が、彼に触る。
けれども、まだどこか信じていなかった。
そんなハズはねぇ、と―― 言葉という盾で、忍びよるそのたくさんの冷たい手を払いのけようとしたのだ。
そんなハズはねぇ!
カイトは、頭をうち振る。
彼女は、ナベをすると言ったではないか。
今夜早く帰ってくるか、カイトに確認をしたではないか。
洋服だって全部、このクローゼットの中に入っている。
きっと、きっと、買い忘れか何かあって、ちょっとでかけているのだ。きっと、そうなのだ。
けれども、それはウソだと分かっていた。
こんな暗くなって、ちょっと出かけるくらいなら、外の電気くらいつけていく。
台所では、夕食の用意をした気配もない。
ただ、どこから探し出したのか、土鍋だけが調理場の台の上に乗せられていただけだ。
いや。
その鍋が置いてあったからこそ、カイトは一抹の希望にすがることが出来たのである。
もしかしたら、と。
カイトは、ポケットに突っ込んでいたケイタイを取る。
絡まりそうになる指で、アドレス帳を呼び出した。
ハルコが連れ出している可能性があったのだ。
ありえる話だ。
強引に、どこなりと連れ回されていることだって考えられ――
『いえ…今日は、会ってないわ』
カイトは。
凍り付いた。
グレイの目をいっぱいに見開き、ケイタイを持ったまま、彼は一瞬何もかも分からなくなった。
ん…だと?
メイがいない。
この家のどこにも見当たらない。
外は真っ暗で、家にはカギもかかっていた。
挙げ句、ハルコも行方を知らないと言う。
わなっと、唇が震えた。
この現実が信じられなかった。
『おかえりなさい…』
あの笑顔が。
こんなに簡単に、スイッチをひねって電気を消すかのように簡単に―― 消えてなくなってしまったのだ。
消えて。
『カイト君? 聞いている?』
彼の心が分かったのだろうか。
まるで正気づかせるように、強い声がケイタイから投げつけられた。
ハルコの声とは思えない動揺がある。
あの、いつも『うふふ』と笑っている彼女とは思えなかった。
『もしかしたら…買い物か何かに出かけた時に、何かトラブルに…』
ハルコは、その声のまま―― 示してはいけない選択肢の一つを、彼に見せてしまった。
ガシャーン!!!!!
カイトは、ケイタイを床に叩きつけた。
弾け飛ぶプラスティックや金属の破片。
「クソッ!!!!」
家を飛び出した。
トラブルだと?
世界で一番恐ろしい単語が駆けめぐる。
事故、事件、誘拐。
頭の中の血が、軒並み二酸化炭素漬けにされていく。
バイクに飛び乗る。
小回りのきかない車で、この夕方の渋滞をちんたら探すワケにもいかない。
カイトは上着も着ずに、背広のままで街中を走り回った。
途中、ヘルメットも投げ捨てる。
こんなものをかぶっていたら、メイを見落としかねなかった。
どこだ!
どこだ、どこだ、どこだ!!
いてくれ―― と、カイトは悲鳴のように思った。
あの家を出ていったのではなく、ケガもしているワケでもなく、誰かに連れ去られたのでもなく、ただ、どこかにいて欲しかった。
いや、欲しいなんて生やさしいものじゃない。
彼女は、いなければならないのだ。
カイトは、それだけをメイに望んだのだから。
他には何もしなくていい。
好きなものなら、欲しいものなら何だってくれてやりたかった。
どんな手を使ってでもいいから、彼女に側にいさせたかった。
それが、一番欲しかった。
カイトは、彼女が一番欲しかったのだ。
何だって、自分が望むものは手に入れてきた。そう思っていた。
でも、その中に『人』はいなかったのだ。
確かに、シュウやソウマやハルコは、いい相棒たちだ。
彼にとっては、必要な人間たちだった。
けれども―― それと、この欲しいは違う。
色も音も匂いも、世界そのものが、何もかも違ったのだ。
欲しかった。
側においておくことが、その欲しいを満足させるものだと、カイトはずっと思っていた。
それでいいのだと。
最近の平穏な生活が。彼女との当たり前になりかけた生活が、そんな気持ちにさせかけていたのだ。
しかし、いざふたを開けてみれば、自分が彼女の何も捕まえていなかった事実を叩きつけられる。
何も知らない、まったくの他人なのだと。
だから、たかが女一人さえも見つけられないのだ。
胃がズキズキする。
こめかみも、眉間も、喉も―― 痛くないところなど、どこもなかった。
でも胸が。
胸が。
裂ける。
バリバリと音をたてて、自分から彼女がひきはがされる。
カイトの胸の中にある彼女の椅子。
その椅子のある部屋。
気持ち。思い。好きだ。好きだ。好きだ。好きだ。
たった、一人の女が、欲しかった。
あんな女は、他に誰もいない。
この世のどこを探しても、たった一人なのだ。
なのに!
いねぇ!
街中を、もう何周回っただろうか。
彼女は車という足を持っていないので、一人でちょっと出かけたくらいなら、そんなに遠くに行けるハズもなかった。
自発的に遠くに離れようと思うか、誰かに連れ去られていない限りは。
どちらだって、カイトは考えたくなかった。
もしかしたら、もう家に帰っているのかもしれない。
彼とすれ違いで、何のことはなく帰り着いているのかも。
カイトはバイクをすっ飛ばして、家に戻った。
けれども、彼が飛び出した時のまま、玄関は開けっ放しで、ケイタイの破片は転がったままだった。
帰って、ないのだ。
い…ねぇ。
張りつめていた糸が、ブツンと切れる。
操り人形のように、そのままカイトは玄関口に座り込んだ。
信じたくなかった。
何もかも、いま起きているコトの一部始終どれも全部ひっくるめて―― 信じたくなかった。
寒い風と冷え切った身体が、いまを現実だと突きつけてくれるというのに、カイトは、まだどこかで『おはようございます、起きて下さい』と、彼女に言われるのを待っているのだ。
頭を抱える。
こんな時に、コンピュータの知識の詰まっている頭など、何の役にも立たない。
ただのガラクタ置き場だ。
このままでは、胸の半分がひきちぎられて持っていかれる。
カイトは、自分の髪を強く掴んで―― その痛みから逃れようとした。
メイ…!
――プ…ルルル…プ…ル…
いまにも途切れそうな音が鳴った。
静寂しきった空間に、消えてしまいそうなかよわい鳴き声。
カイトは、ゆっくりと顔を上げた。髪から手を離す。
プ…ルルルル…ルルル…
泣いていたのは、彼が叩きつけたケイタイだった。
瀕死の重傷のまま、助けを求めている。
助けを。
カイトは―― それを掴んでいた。