12/15 Wed.-4
●
ほ、ホントによかったのかな。
店を出て、ビルを出たメイは、ちょっと心配になりながら歩いていた。
最後に着せてもらった洋服を、ほぼ買うと確定してしまう署名をしてきたのである。
とは言っても、住所も電話番号も記入していない。
よくこんな怪しげな話を、了承してくれたものだ。
ひとえに、あのトウセイという人が、風変わりだったからだろう。
取り置きの期間は1週間ということで、それ以上取りにこなければ、また店頭で販売するらしい。
だから、逃げちらかしてもそんなに罪悪感を覚えずにすむかもしれない。
しかし。
はぁ。
メイは、白菜を持つ手を反対側に変えながらため息をついた。
あの最後の服を思い出したのである。
黄緑のワンピースだ。
しかし、ただの黄緑ではない。
上に白いシフォン素材の布がかかって二重になっているので、もっと白っぽい霞みがかった黄緑の印象があった。
ちょっと襟元が広くあいているのだが、ウェストのところにある細いリボンと同じものが襟にもついているので、チョーカーのように首に渡して結ぶことが出来る。
ふわりとした半袖の部分だけがシフォンの一重。
裾の長さはくるぶしくらいまでだが、裾にはたくさんスリットが切ってあって、それぞれを好きなように細いリボンで結べるようになっていて。
鏡を見た自分が、何だかすごくかわいくなったように思える。
トウセイの店には、キャミドレスなどもあったが、彼は決してそんな服は勧めようとはしなかった。
その辺のウィンドウを覗き込むと、自分の顔が見える。
確かに、キャミドレスを着るよりも、あの服の方が似合っているように思えた。
すごくドキドキウキウキした。
またも、弱い女の部分が走り回ってしまったのだ。
値段は。
ハチマンエン也。
「僕の服にしてみれば、格安だね」
あっさり言い切る彼に向かって、値引き交渉などという恐ろしいことは出来そうになかった。
ここは、八百屋ではないのだ。
八万円のワンピース。
そんな服、買ったことがなかった。
本当にいいのだろうかと、また考え込んでしまう。
ビルの角を曲がり、見覚えのある看板の方に歩きながら、メイはまたため息をついた。
でも、あの服はとても可愛いかったのだ。
とりあえず、服のことは帰ってハルコに相談してみようと思った。
きっと彼女の方が詳しいだろう。
何しろ、この服を見立ててくれた人だったのだから。
コムサが、どうとか。
8万円はしないだろうけど、きっとこの服も高いんだろうなぁ。
いいのかな。
そんなことを思いながら、彼女はどんどん歩いて行った。
が。
しかし。
メイはピタリと足を止めた。
あれ?
気になることがあったのだ。
そうして、よく思い出してみる。
見慣れない町並みだった。
ちょうど彼女は、交差点の赤信号で止まっていたけれども、向かう方向に知っている建物はない。
あれれ?
キョロキョロとする。
すると、見覚えのある銀行の看板が遠くに見えた。
ああ、あっちね。
ほっとして、彼女はその看板の方向に歩き出す。何しろ、入ったことのないビルにいたのだ。
だから、きっと出口の方角を間違ったのだろう。
それに考え事をして歩いていたので、勘違いしていたのだ。
メイは、白菜のビニールをガシャガシャ言わせて歩く。
足が痛くなってきたのは、よく歩いたせいだろう。
遠出のせいもあるし、トウセイというイレギュラーが起きたせいでもある。
帰ったら、少し足を休ませようと思った。
なのに。
「え…」
メイは立ち止まる。
確かに、見覚えのある銀行であった。この辺りでは、よく見る銀行である。
そう。
よく見る銀行なのだ。
そして、ここは同じ銀行の彼女の知らない支店だったのである。
と、とりあえず一回、さっきのとこまで戻って。
キョロキョロしながら歩いた。
もしかしたら、途中の筋に知っている道が見えるかもしれないと思ったのだ。
すると、道の奥の方にコンビニが見えた。
ああ、よかった。
そのコンビニの向かい側を歩いてきたのだ。
メイはそっちに曲がった。
コンビニ前に、到着して気づいた。
そう―― コンビニなど、狭い範囲の地区であっても、同じものが山ほどあるのだと。
彼女は、また間違ってしまったのである。
ここ…どこ?
交差点の目の前。
信号が青になると、多くの人が行き交う。
みんな、この付近をちゃんと知っているらしい足取りで、どんどん目的地に向かって歩いていく。
メイは。
立ちつくしてしまった。
彼女は、自分がどこに行けばいいのか、分からなくなってしまったのだった。
※
どうしよう。
ビルの壁沿いの、ちょっと高くなっている段に腰を下ろして、メイは途方に暮れた。
さっきから、同じところばかりをグルグル回っているような気がしたのだ。
もう、足が痛くてしょうがなかった。
トウセイのいたファッションビルの名前も覚えていない。
一号店の方に取り置きしておいてくれると言ったので、覚える必要がなかったのだ。
そっちは、カイトの家から歩いてきたら、すぐ分かるところにあったので。
お店の名前…何だったかなぁ。
英語だかフランス語だか、とにかく横文字の筆記体で書いてある店だったのは覚えている。
けれども、それを彼女の頭は読解することを拒否したのだ。
一度。
派出所に入ろうかと思ったのだ。道を聞こうと思って。
でも。
結局、できなかった。
トウセイの店でも言ったではないか。
帰るべき家の、住所も電話番号すらも自分は知らないのだと。
ハルコの家の電話番号も分からない。
誰にも連絡できない状態だった。
住所が分からなければ、タクシーにも乗れないのである。
思えば、自分は何と頼りない存在だったのか。
日が暮れ始める。
ビルにある大きな時計を見ると、もうすぐ5時だ。
まだカイトは仕事中だろう。
仕事!
メイは立ち上がった。
思い出したのだ。
カイトの働いている会社名は知っているのである。
鋼南電気。
これさえ知っていれば、電話帳で電話番号を調べることが出来るではないか。
そうすれば、きっと彼は呆れるだろうけれども、彼女はあの家に帰ることが出来るのである。
洋服にうつつを抜かした失敗で、確かにまた自己嫌悪の嵐だった。
でも、いまはそれよりも不安が先に立っている。
とにかく、自己嫌悪に落ちるにしても、あの家まで帰り着かなければならないのだ。
公衆電話。
メイはキョロキョロした。
そこで電話帳さえあれば―― 彼女は帰れるのだ。
痛い足をそのままに、メイはしっかりと買い物袋をさげたまま、目標に向かって歩き出したのだった。