11/30 Tue.-4
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郊外の彼の家からしばらくは、車は穏やかに流れているが、計ったように特定時間になると、まるで亀のようなのろさになる。
シュウが、会社までの道のりの全てに、タイムスケジュールを組んでいるに違いない、と思わせるくらい。
運転は、シュウがしている。
カイトも運転は出来るしキライではないのだが、会社に一緒に出勤する時は、相棒が運転することになっていた。
トラブルが少ないからだ。
カイトに運転させると、こういう渋滞になった途端、語尾が荒くなったり文句をつけたり、精神的に穏やかとは言い難い。
しかし、シュウであれば、まったく平静のままなのだ。
女子社員の間では、彼は『ロボット』と呼ばれている。
それを耳にした時、カイトは笑ってしまった。
余りにピッタリだったからだ。
確かに、その通りだ。
見ていれば、いつも決まった電柱のところでウィンカーを出す。
ブレーキを踏む。
運転の動作一つとっても、車線の変更も、なにもかも。
しかし、シュウは今日はいつもと違う予定を入れた。
ルームミラーで、後部座席のカイトを見たのだ。
そうして、言った。
「どうして…ネクタイが解けてるんです?」
声は冷静だが、さも不思議そうだ。
カイトはムッとした。
彼にとっては、イヤな予定外の出来事だったのである。
「……」
何も答えず、ふいと横を向いた。
窓越しに外を見ても、そこにはやはり車があるだけだ。
隣の車の後部座席が見え、そこにいたキティちゃんと目があった。
うつろな目だ。
すぐにカイトは目をそらした。
面白くなかった。
シュウに、ネクタイの指摘を受けたせいだ。
「あんなに綺麗に結べたのは、初めてだったと思いますが……何か気に入らないことでも?」
しかも。
ほんの数秒、階段で見られただけなのに、相棒の目にはネクタイの結び目が、センチやミリで記憶されているような気がする。
辺だの対角線だの、そういう数学的な意味で。
目に、スケールでもついているのだろうか。
「仕事とカンケーねぇだろ」
カイトは、これ以上話を続けて欲しくなかった。
だから、そう言い捨てたのである。
シュウが、何よりも大好きな仕事の方に話を切り替えたかったのだ。
「関係あります……あなたが自分でネクタイを結べるようになれば、私が『結んでください』と言う時間や、もしくは、私の手で結ぶ時間が短縮されます。その時間は短いですが、積み重ねれば…」
まるで本を朗読しているようだ。
もしも、シュウが学校の先生でもやろうものなら、生徒はきっと端から順番に、ドミノ倒しのように眠っていくだろう。
音量も口調も、平坦で穏やかで―― そうして、機械的だ。
ロボットというあだ名がつくはずである。
「へーへー……おめーの大好きな、チリも積もれば何とか、だな」
カイトは手を投げ出すようにして、彼の持論を口から飛び出させた。
しかし、決して同意したワケではない。
カイトの好きな言葉は『論より証拠』とか『一攫千金』とか、そういうものだった。
会社の金を安定した投資貯蓄に放り込んでいるのがシュウなら、逆張りで株を買うのがカイトだ。
「オレも、ネクタイを結ぶ時間より大事なことが山ほど……クソッ」
カイトは、彼の言葉を逆手に取ってやりこめようとした。
なのに、うまくいかなかった。
最後の『クソッ』という言葉が出てしまったのである。
いや。
思い出してしまったのだ、ネクタイが締まる瞬間を。
黒い髪が。
赤い顔が。
茶色の目が。
細い指が、最後にきゅっと――彼の喉元の側まで迫ってきた。
走り去る背中。
シャツの裾。
ふくらはぎ。
全部まとめて編み込んだら、それが『クソッ』なのである。
それを口にしてしまった。
カイトは、また横を見た。
同じキティちゃんが、まだいるのだ。
またうつろなあの黒い目を見てしまう。
シュウが。
カイトの中を伺い知るような目で、ミラーを見ているような気がした。
そういう視線を感じる。
被害妄想かもしれないが、それを思うとイライラしてきた。
「ネクタイを結ぶ時間より大切なこととは…今朝のあの女性ですか?」
そのイライラが、針でつつかれた。
「てめーは、黙って運転しろ!」
窓が閉まっていても、きっと外まで聞こえただろう音量で、カイトは怒鳴った。
間髪入れず、である。
シュウは、私生活にほとんど口を挟まない。
挟むとしたら、それが会社や仕事にとって障りそうな時だけである。
としたら。
彼女――メイの存在が、それに該当するとでも思っているのか。
だとしたら、とんでもないカンチガイである。
カンチガイに決まってんだろ!
内心でそう怒鳴ってみても、全然苛立ちは収まらなかった。
八つ当たりに、脚を持ち上げてシュウの座っている運転席をけっ飛ばした。
裏側に彼の足形がつく。
「ああ……何をするんです」
それは、シュウにとっても予定外のことだったのだろう。
車がちょうど止まっていた時だったせいで、彼は振り返って、カイトを――ではなく、蹴られた座席を確認したのだ。
フン、知るか。
カイトは、またぷいと横を見た。
キティちゃんは、いなかった。
隣の車が変わっている。
前を見ると、渋滞の列が進もうとしていたのだ。
「おら、早く行け」
ワガママ社長は、ハンドルから手を離している彼に言った。
はっと前を向きなおり、シュウはオートマのギアをドライブに入れる。
相変わらずのろのろと車は進んだ。
気持ちの方は、まったく収まっていない。騒いだままだ。
朝っぱらから、車の中でシュウとやりあってしまうくらい。
いつもならもっと、何でもテキトーに強引に受け流せるハズだった。
たとえ、ネクタイをぶら下げていても。
あの女のことを、誰にも何も言われたくなかったのだ。
大体、シュウに見られてしまったのすら腹立たしい。
「あの女性を、一人で置いてきてよろしかったんですか?」
なのに!
シュウは、また口に出したのである。
ガンッッと、座席を蹴った。
車が進んでいるので、もうシュウは足形を確認したりしなかった。
蹴られることを、諦めたのかもしれない。
「あの家には、一応、貴重品などもありますし……」
ガンガンッッ!
「大体、どこから連れてこられたのですか」
ガンガンガンッッッッ!!
「視界が揺れますのでやめてください」
「るせーっつってんだよ!」
黙って運転できねーのか!
カイトは怒鳴った。
これだけ近い距離なのだから、そんなに怒鳴らなくても聞こえます――物理の問題でもないのに、そういう目がミラーに映る。
「黙るのは構いませんが、しかし……あのままですと問題がありませんか?」
また、車は止まった。
「問題なんかねぇ」
カイトは答える。
本当のところなんか、彼が知っているハズもなかった。
自分でも分からないことだらけなのだから。
だが、これ以上シュウに口を挟ませたくなかった。
ただそれだけ。
シュウは、腕時計を見た。
「もうすぐ……彼女が来ますよ」
そうして、言ったのだ。
瞬間。
カイトは――時を止めた。
「彼女が予定通りあの家に来た時、あなたの部屋に見知らぬ女性がいることになるんですね」
勿論、私は構いませんが。
イヤなくらい、冷静な言葉が続く。
車が進み出す。
「で……」
カイトは、うまく声を出せなかった。
喉でひっかかったのだ。
「で…電話しろ!」
今度は、声が出た。
「……ご自分でなさったらどうです? 私は運転中ですし、ましてや、何も説明は受けていませんので、指示の出しようがありませんから」
携帯をお持ちでしょう?
憎たらしいシュウときたら、彼に座席をけっ飛ばされたのをネに持っているのだろうか。
いや、そういう男ではない。
どんな時でも冷静沈着なロボットである、相手は。
だから、冷静な判断でそういう答えを返しただけだ。
なのに、いまのカイトには、どう聞いてもけっ飛ばした復讐をされているような気がしてしょうがなかった。
うー!
ぶら下げているネクタイを取って、後ろから締め上げてやりたい衝動にかられた。
しかし――すんでのところで、カイトは衝動をこらえて、犯罪者にならずに済んだ。
怒りをこらえて、でも携帯も取り出せないまま窓の外を見ると。
また、キティちゃんのうつろな目があった。