12/15 Wed.-2
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さて。
メイは、今夜の鍋料理のための買い物に出ることにした。
生活費の中から、必要な額だけを持ち出す。
あの17万は、置き去りだ。
あくまで、料理の買い物がメインであって、洋服はちらっと眺めるだけなのである。
洋服は、サブのサブのサブのサブの話だ。
サブのサブのサブの――
じーっっっっ。
メイは、無意識にウィンドウを覗き込んでいた。
大通りを駅の方に歩くと、ビルだのブティックだのが立ち並んでいるのだ。
夢見る服の話なら、こんな風に見たりはしない。
しかし、今回はかなり具体性のある服の話なのだ。
その具体性が、彼女をへばりつかせていたのである。
いけない。
はっと気づいて、ウィンドウの前を立ち去る。
このままでは、鍋の買い物が終わるのが、いつになるか分かったものではない。
うっかり何か買い忘れて帰りました、ということは避けたかった。
洋服にうつつを抜かしての失敗は、あのラザニアもどきだけで十分である。
そうして、白菜にしらたきにエノキに豆腐に―― ナベに必要な材料と、明日からの食事のための材料も買い出した。
メイはにっこりする。
とにかく、白菜が重かった。
2人で丸ごとは使わないだろうが、余った分はお浸しにでも一夜漬けにでもすることも出来るし、お吸い物に使ってもいいかもしれない。
こんな重い荷物を持ったまま、ゆっくり洋服を眺める気にはならないだろう、と自分への枷にしたのだ。
それに、袋からはネギも顔を覗かせている。
この姿で、ブティックに入る度胸など、彼女にはないのだ。
これで大丈夫。
帰りだした――のだが、身体はその重みなんかに負けたりはしなかった。
ついつい、ブティックの前では歩きが遅くなるのだ。
クリスマスを意識したような服が、飾ってあるのがいけない。
メイの求めている服も、まさにそれなのだから。
ハッとして足早になるが、また気づいたらトロトロと歩いている。
それを繰り返す彼女の前に。
「あっ…」
声をあげてしまった。
ウィンドウの中に―― ついに、彼女をノックアウトする服を見つけてしまったのである。
恐れていた事態だった。
ただ綺麗な服だけだったら、彼女は速度を緩めるだけでよかったのだ。
なのに、一目惚れする相手と出会ってしまったのだ。
足を止め、メイはじーっとそれ見た。
赤い、ひらひらのついている――
「その服は、君には似合わないよ」
しかし。
後方から、一言の元に切って捨てられた。
えっと振り返ると、女の、いや、男の人が一人立っている。
一瞬間違えそうだったのは、その繊細な顔立ちのせいか。
声を聞かなければ、どちらか分からなかったかもしれない。
その彼はウィンドウの中の、彼女の思い人を見ている。
誰?
なんて考えても分かるハズもなかった。
知らない人だ。
その、知らない人に、一目惚れの相手と両思いになることはないと言われてしまったのである。
そんな。
「ふぅん…やっぱりね」
ウィンドウの後は、メイの顔を覗かれる。
「髪が黒、目は茶色…おまけに庶民くさい。そこに、あの派手な赤い服を着たら…服だけがカーニバルだ」
くっ、と。
挙げ句、最後に笑ったのだ。
カァ。
彼女は恥ずかしくなった。
初対面の相手に、どうしてここまで言われなければならないのか。
あの服とは身分違いなのだと言われた気がした。
慌てて、その場を離れようとする。
「逃げることはないよ」
しかし、しっかりと買い物袋を持っていない方の腕を掴まれる。
細腕とは思えない力だ。
え???
突然のことにパニクっている内に―― メイは、店の中に引きずり込まれたのである。
※
「あっ、あの…私…」
何とか連れ込まれるのを止めようとしたのだが、信じられない強い力に負けた。
暖房の熱が、無理矢理彼女を暖めようとする。
「先生、お帰りなさい」
入るなり、中にいるスタッフが、一斉に彼に向かって頭を下げるではないか。
えええー???
この場合の先生というのは、おそらく間違いなく、ここにある洋服のデザインとかをした人であるということだ。
さっきの赤い服も。
その制作者に似合わないと言われてしまったのである。
ただのマヌカンに言われるのと、相当意味合いが違う。
「あの、私…買い物が…」
もう全部終わっているのに、メイは抵抗しようとした。
恥ずかしさは、さっきとは段違いである。
買い物袋を持ったまま、こんなスタイリッシュな店に連れ込まれたのだ。
スタッフは、先生とやらが連れてきた彼女を注目している。
お客さんだって、何事かと思って見ている。
そんなメイは、白菜にネギなのだ。
「買い物? あのまま、僕が声をかけなきゃ、30分は服の前から動きそうじゃなかったようだけどね」
その無駄な時間をなくしてあげたんだから、感謝してもらってもいいくらいだよ。
しかし、全然彼は聞いちゃいない。
奥まで引っ張っていくと、彼女を姿見の前に立たせた。
ようやく手が離される。
自分が、いた。
あの、お気に入りのヒツジワンピースに、その時一緒にハルコに買ってきてもらったジャケットを着ている自分だ。
そして―― 手には買い物のビニール袋。
やっぱり恥ずかしいどころの話ではない。
本当に逃げようとした時、後ろから肩に手が乗せられた。
真後ろに彼が立っている。
逃げようとした気配を察したかのように、面白くなさそうな顔をしている。
「予算は?」
鏡の中に、自分ともう一人がいる。
そのもう一人の口が、そう聞いてきた。
「え?」
鏡に住んでいる人間の顔を見るのには慣れていない。
メイは、顔を後ろに向けるようにしたが―― うっかり、反対側に振り返ってしまった。
鏡の世界は、右左逆なのである。
「僕はね…本気のお客か、そうでないひやかしのお客か、見分けるのは得意なんだよ…だから、予算を聞いてるんだ」
早く答えてよ。
繊細そうに見えるのに、どうもカンシャク持ちの気配がする。
カイトのように、がーっと火を吐いて怒るのではなく、もっと冷たく叩き出されそうな気配だ。
二度と口をきいてくれなそうなタイプ。
あっ、とメイはうつむいた。
どうしよう、と思ったのだ。
本当に買うかどうか、まだ全然決めていないのである。
ついつい、見入ってしまったけれども、彼の言うように本気なのかどうか。
「僕が、勝手に決めていいのかい?」
脅しのような声に、はっと顔を上げて。
「10ま…いえ、5万円くらいで…ああ、どうしよう。やっぱり、3万円までで…ええっと…」
慌てて答えながら、でも、メイはすごく困ってしまった。
相場が、分からない。
あのお金の中の、どのくらいの金額を使うのが妥当なのか。どんどん気弱になっていく。
鏡の中で、男と目が合う。
「君って…最初からそんな気がしてたけど…変だね」
言葉を飾る様子もなく、はっきりとそう言われてしまった。
※
「こっちの方がマシだね…」
一着服を取り出して、彼女に渡す。
素直に受け取りはするけれども、この服をどうしろと言うのだろうか。
トウセイと名乗ったデザイナーの名前を、メイは知らない。
ブランドとかに、余り興味がなかったせいだ。
「こちらにどうぞ…お荷物はお預かりします」
しかし、いきなりスタッフが2人近付いてきたかと思うと、一人は彼女の手から白菜を奪い、もう一人は試着室の方に連れて行こうとするではないか。
要するに着てみろ、ということらしい。
「それ、コムサですね」
試着室に案内してくれた女性スタッフが、にこやかな声でそう言った。
まるで暗号のような言葉だ。メイは分からずに、自分の持っている服を見る。
コムサって何だろうと思っていたら、後方でトウセイが肩を震わせて笑っていた。クックック、と。
また恥ずかしくなる。
何も知らない女だと思われているのだ。この人たちの中では、『コムサ』という呪文は、当たり前のものなのだろう。
「あなたが着てらっしゃる、そのワンピースのブランドですよ」
試着室の前で、にっこり微笑まれる。
「そ、そうなんですか…」
カァ。
もっと恥ずかしくなった。
ハルコが買ってきれくれたものの中で一番気に入ってる服だが、どこが作ったものとか分かっていなかったのだ。
ブランドということは―― 高いのだろうか。
いろいろ心配にもなる。
「あっはっは…まったく面白いよ、君は」
トウセイが、もうたまらないという風に声をあげて笑った。
慌てて試着室の中に逃げ込んだ。
試着室と言っても、カーテンではなくドアの中だ。
まるで部屋のようになっている。
かなり広く、大きな鏡が壁に据え付けてあった。
ワンピースのファスナーを下ろして、持ってきた服に着替える。
薄桃色と白のワンピースに、同布のボレロがついている。
本当に、あのトウセイという人がデザインしたのかと、ちょっと不思議に思えるほど可愛いデザインだ。
着替えてみる。
うわぁ。
くるっ。
メイは鏡の前で回ってみた。
にこっと鏡に笑いかけてみる。
すぐにハッと我に返った。
この服で思い切り浮かれてしまった自分に直面したからである。
「…出来たかい?」
トウセイに外から呼ばれた。
ドキッとする。
また、何か彼にはヒドイことを言われそうな気がしたのだ。
しかし、いつまでもここに閉じこもっているワケにはいかない。
カチャっとドアを開けた。
「ふぅん…」
さっそく、品定めの目とぶつかる。
上から下から眺め回される不躾な視線に、メイは、そのドアを閉ざしてしまいたかった。
「まあ、さっき見ていたウィンドウの服よりはマシか…けど、思ったよりいまいちだね」
やっぱり。
ケチがつくことは、最初から覚悟はしていたけれども、本当に歯に衣着せない人である。
これが、さっきのにこやかなマヌカンさんなら、ウソでも『よくお似合いですよ』と言ってくれるのだろうが。
トウセイは、顎を巡らせて店内を見る。
他の服を探してくれているようだ。
そうして肩をそびやかした。
「元の服に着替えて」
振り返るや、彼の指示が飛んでくる。
お客にというよりも、店内スタッフに言うような口振りだ。
まあ、最初からお客扱いしてくれている感じはなかったけれども。
とりあえず、ドアを閉めて元の服に戻る。
どうやら、本当に今日はウィンドウショッピングで終わりそうな予感があった。
あの様子では、この店にもうメイに似合いそうな服はないのだろう。
でなければ、わざわざ元の服に着替えさせるはずがない。
ちょっとホッとしながら、彼女は再びヒツジになった。
「じゃあ、行ってくるよ」
え?
気づいたら、しっかりメイの手首は掴まれていた。
「いってらっしゃい」
店内スタッフが見送ってくれる。
どうして?
メイは、片手に白菜、もう片手をトウセイに掴まれたまま、どこかに連れて行かれようとするのだ。
店を出る。
「あの!」
慌てて呼び止めると、肩越しでちらっとこっちを見た。
何が聞きたいのかは察知しているのだろう、斜め上を見ながら、とぼけた調子でこう言った。
「向こうのビルに2号店があるんだよ。そっちに確か…まあ、売れていなければね」
そこに、メイを連れて行こうというのである。
白菜の重みを持っている彼女の事情など、まったく我関せずだ。
普通の男なら、その荷物を持ってくれそうなものなのに。
「ホントに…今日はもう…帰らないと」
このまま引きずり回されたら、帰るのが何時になるか分からない。
まだ昼過ぎの時間とは言え、今日は結構遠出をしてきているのだ。
洋服を見たかった心に負けて、ついつい遠出になってしまったのだが。
ぴたっと、トウセイは足を止めた。
「なーんだ。本気で服を探していたワケじゃないんだ…」
途端、興味を失ったような気配がした。
「あんなに真剣な目で、僕の服を見ていたから…よっぽど大切なことのために服を選んでいるのかと思ったら」
手が離される。
うっ。
そう言われると痛い。
確かに、大切なことだ。
ハルコに招待されたクリスマスパーティ。カイトも一緒だ。
そう、カイトも一緒なのである。
綺麗な自分を見て欲しいというのもあった。
それ以前に、カイトが恥をかかないような格好をしておかなければいけない。
ワンピースはある。
確かに、クローゼットには入っている。
『行くっつってんだろ…だから…』
カイトの言葉が戻ってくる。
もしかしたら、本当はクリスマスパーティに行きたくないのかもしれない。
優しいカイトは、そうでも言わないと、彼女が洋服を買うお金を受け取らないと思ったのかもしれない。
頭の中が、グルグルと迷う。
「何を思い詰めた顔してるのさ…行くの? 行かないの?」
トウセイが、最後通告みたいに聞いた。
「う……よろしくお願いします」
――――観念した。
やっぱり女は、弱い生き物だと思った。
※
エレベーターのドアが開くと、目の前にトウセイの2号店はあった。
「あら? 先生?」
不思議そうなスタッフの声だ。
トウセイは、今日はここに来る予定ではなかったのかもしれない。
「ちょっとね…」
言うなり奥の方に踏み込み、彼は服の選別に入っていた。
メイは、入口のところに突っ立ったまま、その姿を見ている。
気に入ったのを選ばせようという気は、トウセイにはないようだ。
最初から、頭の中にイメージがあるのだろう。
そういうところが、少しカイトと似ているか。
「いらっしゃいませ…何かお探しで?」
まさか、トウセイの連れとは思わなかったのだろう。
普通のお客だと勘違いされ、マヌカンに声をかけられた。
「ああ、それには構わなくていいよ」
それ。
トウセイは、白菜女についてそういう表現をした。
「あ、あら…先生のお連れさんだったんですか」
慌ててマヌカンは、ホホホと作り笑いをすると行ってしまう。
「何だ…ラダに着せてたのか」
トウセイの目が、ウィンドウのマネキンに止まる。
そのマネキンに近付くや、ちゃっちゃか服を脱がせ始める。
白くてのっぺらぼうな身体が脱がされていく様子は、頭では分かっていても、何だか妙な気分になるメイだった。
「マネキンって、ラダって言うんですか?」
脱がせた服を持ってきたトウセイに、素朴な疑問をぶつけてみた。
すると、彼は眉を上げる。
「あのマネキンが、ラダって言うんだよ…ラディウス・エリューカってね。その隣のは、セーゼ・クランベルール」
まるで当たり前なことのように、マネキンを呼んだ。
この人。
メイは、パチクリと目を瞬かせた。
この人…マネキンに、名前をつけてるんだわ。
頭の中に、マネキンに話しかけながら、着せ替えをするトウセイの姿が浮かんで、思わず笑ってしまいそうになる。ぐっとこらえた。
芸術家には変わり者が多いというが、ご多分にももれず、彼もそのクチのようだ。
そう言えば、メイも子供の頃、お人形さんには全部名前をつけてちゃんと覚えていた。
そして、おままごとや着せ替えをして育ってきたのだ。
「ラダさんとセーゼさんって言うんですね…」
思い出してしまって、ついつい懐かしい目でマネキンを見てしまった。
彼女の持っていた人形は、あんなには大きくなかったけれども。
マネキンの名前を呼んだ後、ふっとトウセイを見ると、彼は怒っているような顔になっていた。
ああ! バカにしてないんです!
慌てて、その旨を伝えようとしたが、トウセイの方が速かった。
「初対面の人に、ラダって言われるのは気に入らないね。彼女の正式な名前『ラディウス』って呼んでくれないか?」
しかし―― 論点は、ズレていた。