12/15 Wed.-1
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卵焼き。
カイトは、食卓に上がってるそれを見て、箸の先でひっくり返した。
不思議な気持ちだったのだ。
本当に、毎日毎日珍しいものを食べられる。
卵焼きなんか、存在自体は全然珍しくない。
しかし、いざ食べる機会があるかというと、いまとなっては滅多にないものだった。
仕出しの弁当に入っているとか、その程度である。
ほうれん草のおひたしは、濃い緑を見せつけていて、これぞ緑黄色野菜という感じだった。
食べた途端に、ポパイになれそうだ。
卵焼き。
しかし、彼の意識はポパイの素ではなく、卵焼きに注がれていたのだ。
カイトは、イヤな予感がしていた。
いい思い出のある料理ではなかったのだ。
彼の母親の作る卵焼きときたら、それはもう死ぬほど甘かったのだ。
ご飯のおかずに、こんな甘いものを食べるのかと信じられないくらいに。
だから、家で出る卵焼きは大嫌いだったのである。
そして―― 今回、これを作った相手はメイだった。
彼女も女性で、甘いものには目がないようだ。
それは、前回のケーキ事件で分かっている。
甘い可能性は高かった。
カイトは、彼女にバレないように卵焼きを睨み付けた後、一滴汗を流してから、口の中に放り込んだ。
反射的に身体が身構える。
が。
甘くはなかった。
というか、卵焼きと言うよりも、ダシ巻きだった。
カイトは、具体的にその名前を知ってはいなかったけれども、普通の卵焼きとは味が違うというのは分かった。
ほっと息をついた。
もし甘かったら、それでも彼は汗を流しながら全部食べなければならないのである。
バンジージャンプばりの緊張の一瞬だった。
「今日はお天気ですし…ちょっとあったかいですね」
カイトの様子に気づいていない彼女は、箸を持ったまま身体をよじるようにして後ろの窓を見た。
車で通勤することになった彼には、もう天気など関係ない。
興味もなかった。
しかし、たかが天気がちょっとよくて、温度がちょっと高いだけでも、彼女は嬉しそうなのである。
寒い時は暖房をかけっぱなしにし、暑い時は冷房三昧にする。
雨の日は、会社以外はうざくて外に出ない。
というような、非常に現代人らしい生活をしているカイトには、天気に対する風情のある表現はできないのだ。
「ああ…」
どうでもいいことのハズなのに、カイトはぽろっと返事をしてしまった。
メイがぱっと彼を見て―― にこっと笑う。
ドキッとした。
「今日の帰りは、いつも通りです?」
話の糸口を見つけたのだろうか。
天気の話題をステップにして、彼女は言葉を続けたのだ。
今日?
カイトは首を微かに傾けた。
わざわざ聞いてくるということは、何かあるのだろうか。
「いつも通りだ…」
そのハズだった。
気になってはいるけれども、出来るだけ表に出さないようにする。
彼女は、それにますますにこっと笑った。
「それじゃあ、今日はお鍋にしていいですか?」
にこにこにこ。
今夜の献立が気になっていたに過ぎなかったようだ。
カイトは、肩すかしをくらった。
もっと別に何かあるのかと―― どこかが期待していたのである。
だが、彼はこれに返事をしなければならなかった。
そして、また言葉に悩むのである。
『おお、鍋か。それはおいしそうだ! 楽しみだな』
心の中のシミュレーター・ソウマが、声つきで最悪の答えを導き出してくれた。
普通は、これがいい答えなのだろうが、カイトにとっては最悪の内容である。
自分の心に逆らわないようにしつつ、それに似て違う言葉を言わなければならない。
カイトは、箸を止めて考えこんでいた。
すぐに止まっている自分に気づいて、朝食の続きを始める。
妙な態度で、誤解させたくなかったのだ。
「……分かった」
ながーく、ながーく考えたけれども、出てきたのはそれだけだった。
「はい! 白菜に、椎茸にしらたきに…お肉はトリでいいですよね?」
カイトの返事は歯切れが悪いというのに、対するメイは満点の笑みと返事だ。
もう心は、夜の鍋にジャンプしている。
鍋。
それは、一つの鍋の料理を、2人で箸でつつくという言葉と同義語である。
まさか!
いままで色んなコトがあったせいで、カイトはかなり疑り深くなった。
2人で鍋というのも、何だか妙だったのだ。
こういう時には、大体裏で糸を引いているのがいて、いざ鍋のフタを開けてみたら、ソウマ夫婦がにっこり浸かっているのではないかと思ったのである。
ばっとメイを見る。
彼女は、食事を続けながら鍋のことを考えているようで。
「おい…」
卵焼きを口に入れる時とは別の汗をかきながら、カイトは呼びかけた。
えっと顔を上げる表情の中には、まったく他意は含まれていない。
「夜に、誰か…来るのか?」
誰か―― という表現をしたのは、具体名を出すのが恐ろしかったからである。
彼女がまた満点の笑顔と返事で、不幸な結果が出してくるのではないかと、かなり心配していた。
「え? いえ…違いますけど」
きょとん。
メイは、大きな目を一度大きく開いて、その後2度まばたきをした。
ほーっ。
カイトは安心した。
いまの一瞬の緊張感だけでも、既に肩が凝っている。
「あっ! もしかして、2人で鍋って…やっぱり寂しいです? 寂しいんなら…」
だが。
ヤブヘビになりそうな気配があった。
メイは、彼の質問を違う方面から受け止めたのである。
待て、待てー!!!
まさか、ここでハルコたちを呼びましょう、なんて言われたらたまったものではない。
それこそ、鍋のフタを開けたら夫婦がにっこり温泉気分というところだ。
「呼ぶな!」
反射的に大きな声になってしまった。
とにかく、最悪の事態だけは避けたかったのである。
それに、穏やかな表現では、恐ろしいことに彼女が誤解して、ハルコたちを呼びかねなかった。
「そう…ですか?」
カイトの心をうまく掴みかねているような表情で、しかし、さっきの大声が功を奏したのか何とか納得してくれたようである。
今度こそ、カイトはほっと出来た。
そんな経過を踏んで、妙に長く感じられた朝食の時間が終わる。
今夜は彼女と鍋なのだ。
それが、妙に彼を騒がせた。
落ち着かないと、うっかり事故ってしまいそうな感触である。
カイトは眉を顰めて、その感覚をやり過ごそうとした。
けれども。
ネクタイを締めてもらう時は、うまくやり過ごせなかった。
「…?」
ネクタイを締め終わって視線を上げたメイが、首を小さく傾げる。
それではっと我に返った。
きっと、かなり変な顔をしていたに違いない。
顔をそらすように、カイトは背中を向ける。
「いってらっしゃい…」
笑顔に見送られて外に出たが―― やっぱり外は、いつも通り寒いような気がした。