12/13 Mon.
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「おはよう…元気にしてたかしら?」
朝、カイトを送り出した後、ハルコが笑顔で現れた。
いつにも増してご機嫌ということは、体調もいいのだろうか。
「あ、はい…ハルコさんも元気そうですね」
言うと、しかし、彼女の顔が少し曇った。
「そうでもないのよ…はぁ、どうしましょう」
ダイニングの椅子に座るハルコのために、お茶の準備に入る。
メイは動きながら、耳と意識を彼女の方に向けた。
「どうかしたんですか?」
いつも笑顔のハルコにしてみれば、ちょっと不思議な現象だ。
「それがね……太っちゃったのよ」
非常に言いにくそうに、彼女はそれを小さな声で呟いた。
メイは瞬きする。
そうして、まじまじと彼女の身体を見た。
前と変わっていないような気がする。
「そんなことないですよ…」
正直な言葉だったのに、ハルコは首を横に振る。
「それがね…体重計はウソは言わないものなの…ああ、明日の検診で、きっと怒られちゃうわね」
憂鬱そうなハルコ。
怒られることもそうだろうが、甘いモノを禁止されるのもコタエているのだろう。
そう言えば、この間からケーキを持ってくる量が異常に多かった。
本当に甘いものが欲しいらしい。
「大変ですねぇ…」
何でも食べるのがいいのかと思ったら、そうでもないようで。
まだ、メイには全然縁のない世界なので、分からないことだらけだ。
「ところで…今日、もしかしてカイト君、出社してないの?」
不意に声をひそめて、ハルコが聞いてくる。
「え? ちゃんと出られましたよ」
何故、そんなことを言い出すのだろうか。
不思議に思って、メイは答えの語尾を少し上げた。
「あら、そう…いえ、バイクが置いてあったものだから」
てっきり。
ハルコの言葉に、なるほどと納得する。
「車検から車が戻ってきたんですって…だから、今日から車で出社されるみたいです」
朝食の時、わずかに交わした会話の一つだ。
これで、メイは安心である。
少なくとも、寒いとか雨とか雪とか、そういうものの心配が減るのだから。
「そう言えば、私が土曜日に来た時にあったわね…忘れていたわ」
最近のカイト君と言えば、バイクというイメージがあったから。
クスクスとハルコは笑う。
思い出し笑いらしい。
「昔ね、私がまだ秘書をしていた時は、ずっとカイト君はバイクで通ってきていたのよ」
お茶が始まると、そんな話に花が咲く。
「その調子で客先にまで行くものだから、バイク便と間違えられちゃって…もう大激怒」
こらえきれないように肩を震わせる。
メイは、カップを持ったまま想像してしまった。
目を三角にして怒鳴りちらしているカイトが想像できて、笑うというよりも困った顔になってしまう。
「おかげで、その日に予定していた打ち合わせはパァ。カイト君は怒って帰ってきちゃって…それからかしらね。いままで、どんなに言っても背広なんか絶対に着なかったのに、対外的なものだけはしぶしぶでも着るようになったのは」
クスクスクス。
あのカイトが我慢して背広を着ているのが、とても楽しいらしい。
メイの知らない彼を、山ほど知っている人だ。
すごく羨ましかった。
けど。
「でも、そうイヤそうにしてるようには…」
毎日のことを思い出す。
カイトはいつも仏頂面なので、背広の時だけ取り立てて余計に機嫌が悪いようには見えなかった。
私服の時も、背広の時も大差ないように見える。
「だって、背広は滅多に着ていかないでしょ?」
よその会社関係との仕事だけですもの。
え?
まばたきをする。
いま、ハルコの言った言葉と、現実がうまく絡んでいなかったのだ。
「あの…毎日、着て行かれてますけど」
おそるおそる。
メイは、用心深い口調でそう言った。
「え?」
今度、それを言うのはハルコの番だった。
カップをソーサーに戻しかけた指が止まる。
「だから…その、毎日背広は着て会社に行かれてますけど…平日はいつも」
表現がおかしかったのかと思って、メイはもう一度、しかも丁寧に言った。
「うそ…でしょ?」
カチャン。
カップを下ろして、ハルコは不思議そうな眉で見つめてくる。
そんなこと言われても。
嘘でないのは、メイが証明できるのだ。
毎日ネクタイを締めているのだから間違いなかった。
「おかしいわ…私の時には、本当に必要最小限にしか着なかったくらいなのに」
会社に、緊急時用の背広を一揃え用意しているのだと、ハルコは教えてくれた。
もしも、当日いきなりの仕事が入った時のために。
「スケジュールにない背広仕事をいれようものなら…それはもう、怒られたものよ」
そのくらい、あの格好は大嫌いだと言うのである。
何度思い返してみても、メイにはそうは思えなかった。
「ネクタイは、ホントに苦手そうですね…」
唯一、ハルコの言っていることが裏付けられそうな事実を口にする。
「そうでしょう? もう、ネクタイなんかギリギリにならないと絶対にしなかったわ…締めると、それはもう不機嫌になってね」
はぁ。
懐かしいが、楽しいばかりじゃない思い出なのだろう。
ハルコのため息がこぼれる。
あれ?
また、食い違った。
ネクタイを、毎朝彼女は締めている。
帰ってきた時は、ほんとにぶら下げてる状態になっているが、それは仕事が終わったからだろうと思っていた。
ネクタイを締めるだけで不機嫌になる―― そういう光景は見たこともなかった
そんな…。
「ああ、まったくもう…気まぐれなのは、相変わらずねぇ」
ハルコは、一生懸命考えていたようだが、最後はきまぐれで片づけてしまった。
そうよね、きまぐれ…よね。
ハルコが分からない答えを、彼女に分かるはずもない。
言われる通りの形で納得した。
でも、彼の背広姿は好きなので―― 嬉しい気まぐれである。
カイトの背広は、毎朝毎夕見ていた。
着こなすことに、まったく興味を持っていないのは分かるけれども、あの姿は『働いてる男』という匂いをバンバン伝えてきて、メイをどきどきさせるのだ。
カイトは、そんなに背も高くはないし、体格がいいワケでもない。
しかし、あの姿のカイトは、頼りがいがありそうで、男っぽい骨組みを感じさせられた。
「何があったのかしら…」
ハルコは、ちらっと彼女を見てくるが、それに対する答えを持っているハズがない。
「さぁ…? 分かりません」
メイも首を傾げた。
カイトと背広。
カイトとネクタイ。
xとyをうまく計算すれば、ちゃんとした翻訳が出来そうなのに―― 何か、条件が足りないような気がした。