11/30 Tue.-3
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どうしても!
メイは、ドアを開けて部屋の中に飛び込むなり、ベッドの中に潜り込んだ。
自分の行動力が信じられなかったのである。
どうしても――我慢できなかったのだ。
一度は、収まった気持ちだと思っていたのに、やっぱりダメだった。
あのぶらさがったネクタイが、どうしても気になってしょうがなかったのだ。
ダメだろうと思った。
それなのに、部屋を出た。
どうせ、もう彼は近くにいないと、分かっていてドアを開けて外を覗いたのである。
カイトがいなければ、どんなに我慢できなくても、どうしようもなかった。
自分をあきらめさせるつもりだったのに。
しかし、彼はまだ階段のところにいたのである。
目があった。
かぁ。
その時。
彼の驚いたようなグレイの目を見た時、メイは頭が熱くなるのを感じた。
いや、頭じゃない――顔だ。
瞬間、頭の配線がひきちぎれた。
おかげで、自分が自分でも分からない部分で動いたりしゃべったりするコトがあるのだと、初めて知るハメなったのだ。
だから、こんな恥ずかしい格好で飛び出していき、ワケの分からないことを口走りながら、勝手に彼のネクタイを締めてしまったのである。
手が、ネクタイの締め方をしっかり覚えていてよかった。
でなければ、落ち着かない余り、彼の首を絞めていたかもしれない。
後はもう、逃げ帰ってくるだけだった。
また、カイトに怒鳴られてしまう前に。
毛布を頭からひっかぶりながら、さっきの自分の所行を思い返して、信じられない気持ちでいっぱいだった。
「…………!」
廊下から、彼が何か怒鳴るような声が聞こえる。
びくっと彼女は震えた。
さっき自分のしたことについて、彼が怒っているのではないだろうかと思ったのだ。
またここに、怒鳴りに戻ってくるのでは、と。
しかし、遠くで何度か声が聞こえた後――静かになった。
シーン。
家中静まり返っているのが分かった。
人の気配らしきものは何もなく、おそらくこの屋敷には、自分一人しかいないだろうということを、メイは感じた。
ただカチカチと、小さな時計の音が聞こえる。
それ以外は、何の音も聞こえなかった。
壊れた頭が、だんだん同じように静かになってくる。
そうして、ベッドから降り立った。
カチカチカチカチ。
頭を巡らせて時計を探す。
机の上。
放置されたままのパソコンの側に、無造作にあった。
カイトという男は――時計には興味がないのだろうか。
まるで、何とか記念で配られるような、安っぽいアナログの置き時計だったのだ。
広い部屋にそぐわない。
この部屋に、時計が一つだけというのも変な感じだ。
かけ時計も目覚まし時計もないのである。
どうやって、起きているのか不思議だった。
しかし、彼女が起きた時のことを考えたら、ちょっと納得出来た。
もう一人の、のっぽの男である。
彼が起こしに来ているのだ。
けれども、どう推理しても、所詮推理で終わりだった。
メイが知っていることは、彼が『カイト』という名前であるということだけなのである。
他は何の説明もされなかった。
その言葉だけを持たされても、彼女はどうしたらいいのか分からずに、ウロウロするだけだ。
ここにいろ、と命令された。
いるより他にはない。
彼女には、衣服もお金もないのだ。
外に出ていけるハズがなかった。
いや、衣服だけならこの部屋にもある。彼のものだ。
勝手に着て逃げようと思えば、逃げることが出来るだろう。
カイトだって、彼女のことは『メイ』という名前しか知らないハズなのだから。
けれど。
そんなことを、彼女が出来るハズがなかった。
カイトは、借金を返してくれた人である。
まだメイは、その金額に見合うだけのことをされていないのだ。
いや、そうじゃない。
彼女はゆがみかけた考えを、頭を振って払った。
勿論、何かされたいワケではないのだ。
しかし、男と女が同じ部屋で夜に、心許ない格好で眠れば――その上、メイにとってあれだけ不利な条件が揃えば、本当に何をされてもおかしくなかったのである。
なのに、彼は何もしなかったのだ。
結果だけを見るなら、昨夜のカイトは紳士だった。
まあ、あんなに怒鳴る紳士などいないだろうが。
いっそ。
何かされていたら、こんなに悩むことはなかったハズだ。
ああ、やっぱり。
そういう気持ちで終わりなのである。
思えば、あのランパブに勤めていたって、結果は一緒だっただろう。
いつかは、そういう道に墜ちていくしかなかったのだ。
だから、きっと諦められた。
悲しくても怖くても、諦めなければならないことだったのだ。
でも。
他のイヤな男の人に抱かれるくらいなら…。
え?
ぱちっと目を見開く。
いま、自分が何かとんでもないことを考えたような気がしたのだ。
え……私……。
誰もいないのに、メイは慌ててうつむいた。
いきなり、顔が真っ赤になったのが分かったのだ。
耳までかぁっと熱い。
ばか…。
自分に対してそう呟きながら、彼女は慌てて左右に頭を振った。
しかし、思考は止まらなかった。
いきなり、彼女に向かって爆笑したカイトがよぎったのだ。
水割りをつくるのを失敗したメイに大爆笑した男――それが、カイト。
メイの初めての客だった。
普通なら、新人の彼女は他の先輩について大人数のところに配置されるハズだったのに、間違えてその席に連れていかれたのである。
気がついたら、ボックスの入り口に立っていた。
カイトが彼女を見た。
うまくしゃべれなかった。
何をしたらいいのかも、一応教えてもらっていたけれども、その通りには何一つ出来なかった。
お酒をこぼして怒られ、彼の言いつけを守らずにボックスを出て、また怒られた。
そんな怒りっぽい男の登場で、いきなり鍋がひっくり返されたかのように――人生が変わった。
落ちついて考えなきゃ。
メイは、自分にそう言った。
結果だけ見たら、彼女はあのランパブから救われたのである。
毎夜、毎時間相手の変わる空間に、あんな格好でいなければならない怖さからだけは、救われたのだ。
いまは――分からない。
分からないけれども、あのカイトは何か違った。
いや、違いっぱなしだ。
考え方が根本から、他の誰にも似ていないのだろう。
だから、メイはこれまでの経験を持ち出しても、どうしても彼の気持ちが読めないのである。
けれど、このままタダで済むはずがなかった。
彼女の身代金は2千万円。
この事実を、見過ごせるハズがないのだ。
お金を、何かで返さなければならない。
でも、カイトがその代償として、彼女に何を望んでいるのか―― 一番知りたいそれが、一番深い水の中に沈んでいた。
手を伸ばしても掴めそうにない。
飛び込んでもいいのだが、メイでは、ぶくぶくと沈んでしまいそうだった。
あの、カイトという男の水の中は。
どうしよう。
そう呟いてみても、彼が帰ってくるのを待つほかない。
カイトの口から意図を聞くまで、メイは一歩も進めずに、堂々巡りの思考を繰り返すだけなのだから。
バターは、もうとっくに出来上がっていた。
しかし、バターから何が出来上がるのかは、メイはまだ知らなかったのである。
不安な中――ただ一つだけ、違う道があった。
そこだけは、深い水の中につながっていなかった。
ネクタイだ。
じっと自分の手を見る。
鼓動が――三回になった。