12/11 Sat.-4
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知らないメイが―― そこにいた。
たかがケーキの箱が開いただけで、幸せな顔をしたのだ。
そんなものに、あっさり自分が敗北したのを、カイトは知った。
自分は、あそこまで手放しで喜ぶメイを作ることは出来ないのである。
持って来たのはハルコだ。
カイトの知らないメイを、おそらくたくさん知っているだろう女。
ムカッ。
ケーキやハルコのことを考えると、胃の裏側が熱くなった。
ある一つの物事について、全員が全員同じように出来るワケではない。
カイトだって、それをちゃんと分かっている。
だから、自分が誰にも負けたくないと思う方面だけはひたすらに磨き上げ、それ以外の部分では怠惰の限りを尽くしてきた。
メイという女がいる。
カイトは、彼女を幸せにしたいと思っている。
大事にしたいと。
しかし、それは彼がいままで磨き上げてきた方面とは、全然違うところにあるものだった。
それどころか、怠惰の限りをつくしてきたエリアに、間違いなく存在しているのだ。
彼にとってメイを大事にするということは、未開のジャングルを分け入るようなものだった。
そこには、見たこともないイヤなものが、山ほど横たわっているのである。
しかし、そこはハルコにとっては庭だった。
彼女の庭で、楽しそうにメイは歌う。
カイトの庭ではない。
ムカムカムカムカ。
人の家の庭に踏み込み、そこにいるメイを引きずって、自分の庭に連れてきたかった。
垣根の向こうにいるのを見せられるのは、腹が立ってしょうがない。
しかし、その庭でないと彼女の笑顔は見られないような気がした。
もどかしさに、苛立ちを隠せなくなる。
それが、彼の眉間に深いシワを刻んだのだった。
その表情が、尚更メイを萎縮させる。
ケーキを食べるのを戸惑っているのだ。
彼の顔に、ちらりと視線が投げられた時、それがはっきり分かった。
「食え」
そう言うしかなかった。
でなければ、いつまでもメイは遠慮しそうだったのだ。
ケーキくらい、カイトだって買うことは出来る。
それどころか、財政的には山のように買ってくることも可能だ。
しかし、いままで彼女は一度だってそういうものを欲しがったりしなかった。
贅沢を言ってはいけないと、遠慮していたに違いない。
女は甘いものが好きだ。
それをカイトが知らなかったワケではないが、日常、彼が考える項目とはかけ離れていた。
だから、気づかなかったのだ。
彼女の好みが分かった今、じゃあ買ってきてやれるのか、ということになるのだが。
じとっ、と背中にいやな汗が伝う。
自分が、ケーキ屋とやらに入っているところを想像したのだ。
今度は米とはワケが違う。
米は簡単に買って来られたが、ケーキはそうはいかないのだ。
あのケーキ屋なる建物に、自分が入っていって、しかもケーキを選ばなければならないのである。
カイトは、その考えを頭から振り払った。
プライドが、彼に足をかけて転ばそうとするのだ。
クソッ。
このプライドが、メイと自分を更に隔てている。
それが、はっきりと分かった。
崩せと言われても困るのだ。
何しろ、そのプライドとやらは、彼が磨きをかけてきた船の舳先をかざるマーメイドのようなものなのだから。
激しい葛藤をしているカイトに、ハルコの笑み混じりの声。
「ほら…お許しが出たわよ」
カイトは、彼女を睨んだ。
何てことを言うのか、と。
「許しなんかじゃねぇ」
メイを、これ以上ビクつかせまいと、カイトは押さえ込んだ声で言った。
許すとか許さないとかではないのだ。
彼に許可を取らなければならないようなことではない。
メイの意思で、食べていいのだから。
許す、なんて言葉を使ったら―― まるで、主従関係のようだった。
彼女との間に横たわる言葉の中で、一番大嫌いなものである。
しかし、言葉が悪かった。
メイは、更に戸惑ってしまったようだ。
許しなんかじゃないという言葉を、許さないと勘違いしたのだろうか。
分かれ!
これ以上の言葉を、いまハルコがいる目の前でフォローすることは出来なかった。
だから、誰かがいるのはイヤなのだ。
メイと2人だけならば、何とか挽回するチャンスを探すことが出来るかもしれない。
しかし、他の邪魔者一人いるだけで、余計にカイトの口が重くなるのだ。
「いいのよ…食べてオッケーってことなんだから」
ハルコ一人が、きちんと言葉の意味を把握している。
それもまた腹が立った。
これ以上反応すると、頭から湯気が出そうだ。
カイトは、唇を引き結んで目を閉じた。
しばらくの沈黙。
パリパリ。
ようやく。
メイが、ケーキに手をつけた音がした。
深いため息をつきたかったけれども、心の中だけでぐっととどめたのだった。
※
カップ?
カイトは、眉を寄せた。
いま、ハルコが言及したのである。マグカップについて。
手に持っているコーヒーのマグカップ。
どこから出てきたものなのか、彼は知らなかった。
メイが持ち出して来たということは、調理場にでもあったのだろう。
それをハルコは、自分がプレゼントしたと言いだしたのだ。
彼の記憶に、そんな些細でくだらないことは格納されていない。
大体、何故男が2人の同居に、マグカップをプレゼントしようと思ったのか。
その思考の流れも理解できなかった。
お茶もコーヒーも興味がないシュウと、飲めればどうでもいいカイトなのだ。
このカップを使った記憶すらなかった。
しかし、マグカップの話題はそこで終わらなかった。
おしゃべりなハルコは、どっちのカップを誰にあげたかまで言及したのだ。
カイトの使っているカップは、シュウにあげたもの。
メイの使っているカップは――
ぱっと、カイトの中の火がはぜた。
使った記憶すらないものだというのに、彼の持ち物だというカップを、いまメイが使っていると考えただけで、熱いものが走ったのである。
その反応が表情に出てしまいそうだった。
ハルコの目の前なのだ。
「覚えてねぇっつってんだろ! 大体、何年前の話だ!」
怒鳴る。
怒鳴れば、顔が反射的に歪むのだ。
いまの気持ちを、隠さなければならなかった。
もしも、このマグカップのことでメイが妙なことを考えて、今夜からのお茶の時間がナシになってしまったら。
そんな不安が、胸を斜めに刺した。
怒鳴った後、興奮したせいで肩が上下する。
そんな状態のまま、メイを見た。
カップを持ったまま、止まっている。
考え込んでいるのだろうか。このカップを使うということについて。
別に!
気にすることなどないのだ。
ハルコの言う通り、カップは新品同様なのだから。
大体、おめーが余計なことを言うから!
カイトは、ハルコをギンと睨んだ。
あら、という風に眉を上げて反応されるだけだ。
「気になるようだったら、あなた用にマグカップをプレゼントしましょうか?」
固まったままのメイへのフォローのつもりか。
ハルコは、そんな風に言った。
ケーキだけじゃ飽きたらず。
カイトの中の嫉妬心が、ばっと襲いかかった。
動いたのは同時。
「そんな!」
「すんな!」
どっちが誰の発言かは、一目瞭然だった。