12/11 Sat.-1
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朝―― 起きてしまった。
メイは、枕元の時計を見る。
自分が目覚ましよりも早く起きたことに気づいて、はぁとため息をついた。
一応、目覚ましは9時に合わせたのだ。
しかし、まだ8時40分である。
ふぅ。
もう一度ため息をつく。
何もしてはいけないという日があるというのは、ある意味苦痛だった。
時間が余り過ぎるのだ。
ハルコが来てくれるけれども、きっと午後からだろう。
お茶という表現からすると、そう推測できる。
カイトはきっと、まだ眠りのフチだ。
しかし、先週はこっそりいろんなことをして、見事に失敗したのである。
今度は、あの失敗を繰り返すないように、おとなしくしておこうと思った。
ただ。
おとなしくしようと思っても、出来ることがない。
テレビも、ラジオも、編み物の道具も洋裁の道具も何もなかった。
ぼんやりと過ごしているしかないのか。
メイは、とりあえず枕元の電気をつける。
そう言えば、シュウに本を借りていた。
あの厚いハードカバーの本たち。
パラパラとそれぞれを開いてみて、一番文字が大きい本を選ぶ。
大きいと言っても、気持ちだけの差だが。
『流通システムは、近年小売レベルでの……』
『周知の事実だが、食品の規制緩和が…』
すぅー。
メイは、何が周知の事実かも分からないうちに、2ページ目で枕に吸い込まれた。
はっ!
飛び起きたのは、止めていなかった目覚ましが鳴った音のせいである。
ほんの20分、引きずり込まれてしまっていたのだ。
無意識に、手が本を閉じてしまっていた。
ああ…。
誰も見ていないと言うのに恥ずかしくて、彼女は頬を赤くした。
そうして、またキチンと枕元に本を積み直す。
結局、これは読破せずに返すことになってしまいそうだ。
もしも、シュウに感想なんかを求められたらどうしよう、と少し青ざめたけれども、彼がそんなことに興味を示すとも思えなかった。
もそもそと、毛布の中で丸くなったり伸びたりする。
毛布から足がこぼれた時、すごく冷たくてぱっと引っ込めた。
今日も、寒いようだ。
どうしよう。
起きるのは簡単だ。
けれども、起きてしまってもすることがないし、さっきの本が、彼女には合わないことも一目瞭然だ。
こうなると、何か考えたりすることでしか時間を使うことが出来ない。
クスッ。
一番最初に思い浮かんだのは、一昨日の夜のこと。
よぎった瞬間に、笑ってしまった。
カイトのトレーナーだ。
お茶の時間に部屋に伺った時、メイは違和感を覚えた。
カイトが、上はトレーナー、下は背広のズボンという出で立ちだったのだ。
もしかして、着替え中にお邪魔したんじゃ。
そう思ってしまうような姿である。
とりあえずお茶を飲み始めたら、また違和感がある。
今度は何かと思ったら―― カイトのトレーナーが、後ろ前だったのだ。
なのに、彼は小難しい顔をしたままコーヒーを飲んでいる。
言おうかどうか迷ったのだ。
しかし、そんなことを指摘されたら、すごく恥ずかしいのではないかと思った。
もう、多分外に出かけたりはしないだろうから、他の人に見られることはない。
結局、メイは言わずにいたのだ。
あれは…自分で気づいたのかな。
翌日、そのトレーナーは洗濯かごの中だった。
全然汚れている風には見えなかったけれども、せっかくなので一緒に洗う。
洗う時も、干す時も、取り込む時も。
何となくそのトレーナーを見ると、顔がゆるんでしまいそうだった。
あのカイトが、失敗をすることもあるのだと。
その失敗の一つが、昨日のハンバーグだった。
パーフェクトな人間なんか、いないのは知っている。
でも、カイトはあの若さで社長だし、パソコンはバリバリみたいだし―― 何でも出来るのではないかと、錯覚しそうになる。
けれども、食事の時に服も汚すし、お皿は洗っても綺麗におちてない。
トレーナーは後ろ前、おかずは落とす。
日常的な部分では、全然パーフェクトではなかった。
それがすごく嬉しい。
可愛いなんて言ったら、怒鳴られるでは済まないかもしれないが、その言葉が意識の中をちらつく。
パーフェクトではない部分が見える度に。
そんなところが、きっとソウマやハルコにはもっと見えているのだ。
だから、あんな風に彼をからかうのである。
怒鳴る言葉の裏の優しさ。
態度も荒いけど、それは彼女をないがしろにしているものなんかじゃ全然ない。
分かりにくい葉っぱの陰に、たくさんの気持ちが詰まっている。
いつも裏返してみないと分からないのだ。
もしも、彼女の勤めている会社にああいう社長がいたら。
ふっと、そんな風に空想した。
きっとメイは会社でたくさんの失敗をするから、カイトに怒鳴られるだろう。
大きな会社だったら、怒鳴ってももらえないかもしれない。
最初は、とっても怖い人なんだと思って。
でも、何かのはずみに、ぶっきらぼうな優しさに触れて、きっと――
な、何を考えてるの!
かぁっと顔が熱くなる。
布団の中で、ジタバタと暴れてしまった。
記憶が巡るだけならまだしも、空想にまで発展してしまったのだ。
これでは、まるで中高生のようである。
メイはベッドから起き出した。
これ以上、暖かい布団の中にいたら、自分がもっととんでもないことを空想してしまいそうで怖かったのだ。
その点では、既に前科もあった。
あの時は、夢だったけれども。
しかし、布団の中のジタバタのおかげで大分時間が過ぎていた。
もうすぐ十時だ。1時間近く、いろんなことを考えていた計算になる。
着替えて支度を済ませると、部屋を出てダイニングに向った。
別に仕事をするワケじゃない。
朝ご飯を食べに行こうと思ったのだ。
いつもなら、もうとっくに朝食は終わっている時間だ。
おかげで、随分おなかがすいていることに気づいた。
ついでに、ちょこっとだけ―― 流しの周りだけ。
しかし、メイは、往生際の悪いことを考えていた。
余ったご飯を冷凍していたので、それを引っぱり出してレンジにかける。
その間に、タマネギを刻んで。
卵と一緒に簡単なチャーハンにしようと思ったのだ。
お昼は、どうしよう。
朝食の準備の時から、もうお昼ご飯の心配である。
いや、これは自分の食事の心配じゃない。カイトの分だ。
一体、何時くらいに起き出すのだろう。
お昼前後だろうか、それとももっと遅く?
レンジから解凍されたご飯を取り出しながら、いろんな結果を引き出してみるが、どれもこれも「多分」の領域からは出てこなかった。
フライパンを取る。
コンロに乗せて火を入れる。油を落として。
ふっと、頬に何か当たった。
いや、何も当たるハズなどない。
しかし、たとえて言うならそんな感じだった。
「…?」
メイは、顔をそっちに向けた。
ぱっと目を見開いた。
カイトが立っていたのだ。
仕事をしていないかを、確認しているような検査官の目で。
ドキーンと、心臓がエビのように跳ねる。
慌てて、いまの自分にやましいところがないかを確認す心理は、警察官にいきなり出会った時と似ているか。
「あ、朝ご飯を…」
フライパンの油が、ぱちっと言った。
火をつけているので、どんどん温度を上げているのだ。
慌てて、ガスを切る。
見たら、カイトは―― パジャマのままだった。
先日、彼女が洗ったばかりのそれだ。
上着も着ていないのは、起きてそのままここに来たからだろうか。
よほど、メイは信用されていないらしい。
「あっ…! 朝ご飯食べません?」
パンと手を叩く。
結果はどうあれ、彼は起きてきたのだ。
少し遅いけれども、一緒に朝食が食べられる。
「チャーハンですけど、すぐ用意しますから」
メイは冷凍室を開けた。小分けしている別のご飯を取ろうとしたのだ。
しかし、その途中で動きを止める。
そうして、カイトの方を見た。
「あの…冷凍ご飯でいいです?」
まさか起きてくるとは思っていなくて、今日の朝は、ご飯を炊いていないのである。
自分一人の分なら、この冷凍室のご飯を減らそうと思っていたのだ。
何となく、彼にこれを食べさせるのは悪いような気がした。
父親は、何度言っても冷凍したご飯が、また普通通りの形状で食べられるということを信じてくれなかった。
魔法か何かだと勘違いしていたのだ。
カイトは、眉を顰めて首をちょっと傾ける。
どうやら―― 彼も、魔法だと思っているようだった。