12/10 Fri.-4
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カイトは部屋に帰るや、まず着替えた。
昨日の件が尾を引いているので、何度も長袖シャツの前と後ろを確認する。
今日も。
一つの大きな失敗をした。
またも、彼女の目の前で、である。
メイが一生懸命に作ったという、ハンバーグを台無しにしてしまったのだ。
あの瞬間、心臓が縮んだ。
おかずを落としたくらいで、心臓がつぶれんばかりの気持ちを味わったのは、これが初めてである。
一口もつけることなく、床にべちゃっとはりついたハンバーグは、まるで彼女を冒涜したような気分にさせられて、罪の意識がいっせいに押し寄せてくる。
けれど、メイはすべての後かたづけを終えた後、笑顔を浮かべてくれたのである。
そして―― 半分のハンバーグ。
カイトは、ハンバーグは食べる。
嫌いじゃない。
ジャンクフードをよく食べる彼には、ハンバーガーなどで馴染みのある料理もでもあった。
しかし、あんなハンバーグを食べたのは初めてだった。
食べるたびに胸が苦しくなった。
一口食べるごとに、彼の心臓にまで詰め込まれていくかのように、ぎゅうぎゅうと胸を圧迫して。
彼女は何度も「おいしいですよ」と言ったが、本当のところ味なんてカイトには分からなかった。
味よりも、もっと別のものが溢れてしまったのだ。
本当に、自分が彼女のことを好きなのだと、痛いほど自覚させられる瞬間。
シャツに着替えて、あの食事の時の姿ではなくなったというのに、カイトはその気持ちまで脱ぎ捨てることは出来なかった。
パソコンの電源を入れるが、頭はぼーっとしている。
指も動かない。
いつの間にか、スクリーンセーバーが動いて、画面の中を赤や黄色い線がうごめくが、目にも入っていなかった。
たかが、ハンバーグである。
あんな子供だましな料理で、カイトは魂まで持っていかれてしまったのだ。
魂が戻ってきたのは、扉がノックされた時。
そう―― お茶の時間になったのだ。
ゆっくりとコーヒーを飲む。
彼女は、向かいのソファにいる。
昨日と同じ時間のように思えるが、今日の気持ちはまた違っていた。
コーヒーまでも、胸にしみこむのだ。
ハンバーグのことは、これ以上言及したくなかった。
だが、まだ胸に刺さっている。
だからといって、どんな言葉で伝えたらいいかも分からない。
きっとどう言っても、彼女は笑って『気にしないでください』というのだろう。
自分のパソコンに例えるなら、作ったプログラムを消去されてしまうようなものだ。
彼なら、あからさまに怒るに違いない。
けれども。
メイになら、たとえ消されてしまっても怒らないんじゃないかと思った。
気持ちが、どんどん違う方向に流されていく。
好きというだけで、こんなにまで自分が変わるものなのか、信じられないくらいだった。
しかしもう、あらがえない。
彼女の引力に引っ張られる。
「そう言えば…明日、ハルコさんが遊びに来ると言ってました」
そっと。
お茶の時間を壊さないようにするような、小さな声でそれが告げられた。
静かだからこそ、カイトの鼓膜にまで届く音だ。
内容に、ぴくっと耳が反応する。
ハルコが?
彼女でいっぱいだった心が、すっと地上に戻ってくる。
現実的な言葉のせいだった。
「あの…ソウマさんはお仕事だそうなので、一人で…その、お茶にいらっしゃるということなんですけど…」
許可を取るような目だ。
週末にお茶というくつろぎの時間を取っていいかどうか、許可を求めてきているのである。
茶ぁくらい、飲めばいいだろ!
パン、と心が跳ね上がる。
好きなことを好きな時にすればいいのだ。
メイは、しなくてもいい労働ばかりをやりたがる。
それが気にくわなかった。
しかし、同時にハルコの訪問も許すことになる。
厄介なソウマ夫婦の片割れが来るのは、全然ありがたいことではないのだが、メイを休ませるために来るという大義名分があるのだ。
拒めそうになかった。
もし拒めば、彼女に休むな、と言っているようなものである。
「好きにすりゃあいい…」
言ってしまって、失敗したと思った。
ハルコが来ることへの不満があったために、一歩間違えればなげやりとも思える言葉になってしまったのだ。
慌てて視線だけで、彼女の反応を見る。
紅茶を持っているカップの手が少し止まった。
いまの言葉について考えているようだ。
「お茶でも何でもしろ」
先にフォローを言ったが、これもいい表現ではない。
どうして、自分の口はこんな風にしか言えないのか。
『オレに、いちいち許可を取るな』―― これも違う。
『自分のやりたいようにしろ』―― これも。
頭の中にある語句を拾っていく度に、カイトは眉を顰めた。
ロクな表現が格納されていなかったのだ。
ソウマなら、『お茶か、それはいい…オレも入れてもらおう』、くらいのことを言って、彼女の気持ちを柔らかくできるに違いなかった。
しかし、そんなことは口が裂けても言うことが出来ない。
メイの視線が、彼の方を向いた。
いまのカイトの気持ちを探すかのようだ。
自分では、彼女の気持ち一つやわらげることが出来ない。
それがもどかしかった。
「あの…ちゃんとご飯の支度は…」
快く思っていないと判断されたのだろうか。
きちんと仕事はしますから、みたいな表現が出てきて、カイトはぱっと表情を曇らせた。
「んなこた、言ってねぇ!」
そうして、ついに―― 怒鳴ってしまった。
この口の悪い病気の一つだ。
言葉が見つからずにイライラしてくると、すぐこうなってしまう。
「そうじゃ…ねぇ」
ぐっと、その勢いをこらえて横を向く。
町を育成するシミュレーションゲームを作ったことがある。
出来るだけリアリティのあるようにするために、たくさんのパラメータを導入した。
いまをそのゲームで例えるなら、『貧富の差がありすぎます』と言ったところか。
心豊かな彼女に比べて、自分の貧しい内側がイヤになる。
女一人を住まわせるには、窮屈で汚く思えるのだ。
こんな家に遊びに来いなんて、言えるはずがない。こんな家に住めだなんて。
「明日は…仕事なんかしなくていい」
それが精一杯のフォローだった。
せいぜい、閉めっぱなしだったカーテンを開けて、太陽の光を入れる程度のフォローだったけれども、その光を、彼女はちゃんと拾ってくれた。
「ありがとうございます…でも、ご飯の支度はさせてくださいね。私もおなかがすきますから」
笑う。
くすっと。
しかし、すぐにその表情が、あっ、というものに変わった。
「明日…お仕事はあるんでしょうか?」
あまり意識をしていなかったが、そういえば明日は土曜日だ。
いまひとつ、一週間のサイクルがつかめないでいる。
彼女が来て2回目の週末なのだ。
いろいろ考えた。
と言っても、二択にすぎない。
会社に行くか行かないか、だ。
「土日は…休みだ」
カイトは、決着をつけた。
仕事に行くと―― 彼女がたくさんの労働をするような予感がして、こげ茶の髪の毛が引っ張られたのである。
「そう…ですか」
でも、ちょっとだけメイが嬉しそうな表情をしたように見えた。
気のせいかもしれない。