12/10 Fri.-3
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あっ!
メイが驚いた時には、カイトの箸からハンバーグが丸ごと転げ落ちた。
彼も、反射的にぱっと下を向いたが、その後にイヤそうな顔になって箸を置く。
最悪なことに、床まで落ちてしまったのだ。
カイトは、がたっと椅子を引く。
「あっ! 私、片づけます!」
と言って立ち上がったのだけれども、時はすでに遅かった。
カイトは、素手でそれを拾い上げたのだ。
拾い上げたはいいが、今度はそれのやり場に困ったように顎を巡らせている。
ハンバーグソースをかけているので、うかつなところに置けないのだ。
メイは、たたっと調理場まで走って、別の小皿を取って帰ってきた。
それを持って行くと、何とも言えない表情のまま、その皿の上にハンバーグだったものを乗せる。
ふぅ。
彼女は、小さなため息をついた。
一口も食べられていないそれを、残念に眺めて。
おいしくできたので味わって欲しかったのに、こんなことになってしまったのだ。
事故とは言え、本当に残念である。
だが、いつまでもそうしているワケにはいかない。
「ちょっと待っててくださいね…タオル取ってきますから」
カイトに指は、ソースで赤く汚れているのだ。
そのままでは、食事を続けられない。
落ちたハンバーグを持って調理場の方に戻りながら、彼女はタオルを捕まえた。
さっき、小皿と一緒に取ってくればよかったと思いながら。
けれど、タオルを持っていくまでもなかった。
カイトが、調理場の方に入ってきたのである。
えっと思って見ていると、彼は流しで手を洗った。
その方が早いと思ったのだろうか。
「あ、はい…」
水を止めたカイトに、タオルを差し出す。
「……」
カイトは、彼女から視線を逸らしたままタオルを受け取って。
ハンバーグを落としてしまったことで、機嫌が悪くなってしまったのだろうか。
じっとその様子を見ていると、拭き終わったタオルをその辺に置いて、カイトは背中を向けた。
「わりぃ…」
背中が、そう言った。
言うなり、ダイニングの方に戻ってしまう。
メイは、一瞬立ちつくした。
彼の言葉が、全身を駆けめぐる。
分かったのだ。
ハンバーグを落としたことについて不機嫌になったんじゃなくて、作ってくれた彼女に悪いことをしたのだと思ったのだと。
あの表情の全部が、一気に解明される。
ハンバーグを落とした時の、拾った時の、渡す時の、手を洗う時の、タオルを受け取る時の表情が、全部彼女への罪悪感で彩られた。
怒っていたとしたら、落としてしまった自分に対して、だろう。
そんなこと!
分かったけれども、それは嬉しいことではなかった。
これは、単なる事故なのだ。
カイトが、彼女の作った食事を粗末にしたことは、これまで一度だってない。
用意したものは、ちゃんと全部食べてくれた。
残したところなんて見たこともなかった。
不平も文句もない。
いつだって、「うめぇ」と言ってくれた。
だから、これが本当に不幸な事故であることくらい、ちゃんと分かっていたのである。
しかし、メイはそのまま彼の後を追わなかった。
引き出しを開けて、ステンレスの包丁を取ったのだ。
これで…。
しっかりと握りしめて、ダイニングへ戻る。
すると、カイトは残ったサラダとスープで食事を続けていた。
まだ、不機嫌な表情のまま。
「おい!」
しかし、その視線がぱっと上がって、彼女を見るなり驚いた声を出す。
包丁なんて、物騒なものを持っていたからだろうか。
でも、その声には構わなかった。
メイは、包丁で―― 自分のハンバーグを半分切ったのだ。
まだ、箸をつけていない方を。
切り終わった後、包丁を戻しに一度調理場の方に戻る。
帰って来たら、カイトは箸を持ったまま呆然と彼女の方を見ていた。
そんな彼に、にっこりと笑う。
「今日のハンバーグは、とってもおいしいんですよ」
そうして、お皿を持って彼に近づく。
先手を打ってそういう風に言うのは、『いらねぇ!』と拒否されるのを防ぐため。
こんな空気の中で、一人だけハンバーグを食べたくなかったのだ。
同じものを同じように共有したかった。
それに、カイトにもちゃんと食べて欲しかったのだ。
罪悪感も、どこかに捨てて来て欲しかった。
いろんな思いが、溢れるように巡っていく。
「ホントに、ホントにおいしいんですよ」
こう言いながら、さっと半分のハンバーグを彼のお皿に乗せて戻る。
あんまりモタモタしていると、本当に拒まれそうで怖かったのもある。
自分の料理をここまで言う必要はないが、逆にここまで言えば、カイトだって食べざるを得ないだろうと思ったのだ。
席に戻ってカイトを見ると、どうしたらいいのか分からない戸惑った顔をしていた。
だから、もう一度メイは笑って言った。
「いただきます」、と。
2回目のいただきます、だった。
メイは食事を再開していて。
彼が、じっと自分の方を見ているのが分かった。
あえて気づかないふりをして、食べ続けた。
そうすることで、自分がこの事件について深く思っていないことをアピールしたかったのだ。
半分こにすることなんて、何でもないのだと。
ようやく、箸が動く。
メイは、それに緊張した。
けれども、それを表に出さないように、向こうの方を見ないように努めた。
カイトの行動を、止めたくなかったのだ。
彼は、今度は落とさずにハンバーグを掴んで、かぶりついた。
半月の形をしたハンバーグに。
「うめぇ…」
その声を聞いた時、胸がきゅーっとなった。
いつもよりも、もっともっと違う思いがぎゅーっと詰め込まれていたのだ。
それが、はっきりと分かった。
だから、こんなにまでも胸を締め付けるのだ。
彼と食事をすると、自分の作った料理が、どれもこれも特別なものに思えてきはじめる。
こんなことは、いままでなかった。
確かに父親も、メイに感謝はしてくれたし、ちゃんと残さずに全部食べてくれていた。
けれども、一つ一つの料理がこんなにまでも特別な感じはしなかったのだ。
カレーも、みそ汁も、ご飯も、たかがサラダであったとしても、カイトに食べてもらえると思ったら、彼に「うめぇ」と言ってもらえたら。
それだけで幸せになれる。
誰かのために食事を作ることが、こんなにも自分の幸せにつながるとは思ってもみなかった。
ずっと、彼のために食事を作り続けられたら―― 夕食の間中、そう願って止まらなくなった。
結婚しない、と言った言葉が本当であると、信じたかったのだ。