12/10 Fri.-2
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「ちゃんとネクタイを締めてください…」
首からぶら下がるだけだったものについて、エレベーターの中で鋭い指摘が飛ぶ。
今日は久しぶりのネクタイ仕事だった。
しかし、それはカイトのご機嫌があまり麗しくないことを示す。
人間はどうして、ネクタイなんて無駄で窮屈なものを発明して、未だに使い続けているのだろうか。
こんな不要なものは、一番最初に淘汰されていてもおかしくないというのに。
しかし、このネクタイが彼とメイを一瞬結んでくれることも、また確かなことだった。
自分の指で、面倒くさそうにネクタイを結びながら、カイトは今朝のことを思い出してしまった。
いや、今朝だけではない。
昨日の朝も、その前の朝も―― もう、何度彼女にネクタイを結んでもらっただろう。
自分が締める時と同じやり方のように思えるのに、出来映えが全然違った。
それどころか、締め心地も幸福度も何もかも違うのだ。
「毎日背広を着られているから、ネクタイも嫌いではなくなったのかと思いきや…」
シュウは、勝手な推測でものを言ってくれる。
カイトが背広を愛したことなど、生まれてこの方一度もなかった。
鏡を見ても、お世辞にも似合っているとは思い難かった。
シャツにジーンズの方が、余程似合っている。
しかし、それでは社長という職業は勤まらない時があるのだ。
彼が、ようやく適当にネクタイを結び終えると、エレベーターは目的の回に到着する。
ぱっと目の前が開けた。
ホテルに来ていた。
ここで今日の会議は催されるのである。
シュウの意向で、ソフトハウス関連の組合だか同盟だか、とにかくそういうものに入っていたのだ。
その集まりだった。
会社のためには、損にはならないでしょう。
シュウは、本当に損をしないことについてはうまい。
地道な利益を出していく仕事は、天職と言ってもいいくらいだった。
勿論、その同盟とやらを最終的に承認したのはカイトだ。
内容的には納得していたが、やはりこういう会議は嫌いだった。
ドアを開けると、既に半数以上の会社の偉いさんが雁首揃えていた。
ざわざわと騒がしいのは、お互いの会社の腹の内側を探るため、挨拶などを交わし合ってるせいだ。
ゲーム会社には、大きく分けて2種類ある。
老舗も老舗の古参連中か、資本金などほとんどナシの状態で、数人のブレインの力でぽっと出てきた連中だ。
元々大名だった連中か、下克上よろしくのし上がって来た連中か、ということである。
今日は、前者はほとんどいない。
後者ばかりの会議と言っても過言ではなかった。
カイトの会社は、この中でもかなり大きい方だ。
古参がいないと、ありがたいことがあった。
社長クラスに、いかめしいジジィが少ないのである。ついでに、脂ぎったジジィも。
年齢も30~40が平均と言ったところだ。
別に誰と話をするワケでもなく、彼は用意されている席にどかっと座った。
名刺を交わし合ったり、「もうかりまっか?」「ぼちぼちでんな」という会話を交わす気には、到底なれなかったのだ。
「おや? これはこれは…鋼南さんじゃないか」
しかし、ずっと放っておかれるのは難しかった。
聞き覚えのある声だ。カイトは、目を半目にした。
聞こえないフリをして、振り返りもするまいと思ったのだ。
「これは、F・カンパニーの…」
代わりに対応しているのは、シュウだ。
カイトが彼のことを嫌っているのを知っているのである。
ちらりと見ると、女の秘書を3人も連れていた。
こういうことをしているのは、業界の中でもこの会社だけだった。
ギャルゲーの王者。
ゲーム雑誌のレビューでは、いつも大きく取り上げられている。
いま流行のゲームでもあった。
ふっと気がつくと、いつの間にか影のように隣の席に座る存在がいた。
一瞬、見逃しそうになって、はっと横を向く。
黒髪のロンゲを、後ろで一つにくくっている男がいる。
その向こう隣には、副社長だか秘書だか未だに判別のついていない存在もいる。
長身長髪の男2人が、背広を着込んでいる姿は、迫力がかなり違った。
『ダークネス』。
2人とも涼しい顔をしているが、ホラー系のゲームを作らせたら右に出るものはいないと言われている。
サウンドノベルを極めている会社だ。
「よぉ…」
ダークネスの会社は、そう嫌いではなかった。
騒々しくもないし、逆に2人とも静か過ぎて、こういう会議では浮いているくらいだ。
ちらりと視線をカイトの方にやって、「久しぶりだな…」と低い声が返される。
神経に障らない声だ。
それ以上の会話はなかった。
お互い、そんなにしゃべることに向けるパワーを持っていないのだ。
全然違った意味で、だが。
そんな感じで、会議が始まった。
内容で、大きな問題はなかった。
例の、新しいハードが販売されることについて、という情報が突出していたが、ゲームソフトを既に作る立場となっているカイトには、知っている内容ばかりだった。
会議のための部屋を出るや、彼は指をぐいっと入れてネクタイを緩める。
完全に外さないのは、まだ周囲に社長軍団がいるからだ。
連中にナメられるのだけはご免だった。
いまは、一緒に会議をして頑張りましょう、などと言っているが、結局はライバル社ばかりなのである。
たとえいいゲームを作ったとしても、戦略を間違えればすぐにつぶされるのだ。
「春先のゲームの販売時期で、バッティングするライバル社がいくつかありますね」
帰りの車の中で、シュウは憂慮すべき事態であるかのように話題を切り出す。
カイトが、ネクタイをただのヒモにしてしまった後だった。
そう、バッティングも問題があるのだ。
いくら、子供連中が金を持っている時代で、大人もゲームをたしなむ時代だからと言っても、同日に複数のゲームが発売される場合、全部を買うことはない。
ゲーマーという称号を自ら持っている人間以外は。
より面白そうなゲームを買うのが普通だ。
しかし、もっと手っ取り早く客を吸い取る方法があった。
「…販売日を調べ上げろ」
後部座席のカイトは、面白くもない外を見ながら言った。
「そいつらよりも、販売日を一日でも早くすりゃあ、いいんだろうが」
言うのは簡単だ。
たかが一日だが、その一日は開発の方に大きな負担をかける。
しかし、カイトは自ら開発の方に手を染めているのだ。
出来ない、なんて言わせるはずがなかった。
「分かりました」
シュウは満足そうだったが、カイトはそんなものには構っていなかった。
頭は、ゲームのことにトランス入ってしまったのだから。
だから。
「おかえりなさい…」
と言われるまで、自分が家に帰ってきた意識はなかった。
ドキーン!!!!
不意打ちである。
意識していなかった時に、笑顔での出迎えがやってきたのだ。
いつものクセで、本当に無意識にバイクに乗って定時に帰ってきたらしい。
「どうかしたんですか?」
難しい顔をしていたカイトに気づいたのだろう。
心配そうに見上げてくる目に、また胸を高鳴らせる。
「何でもねぇ…」
心の内を読まれないように、メイの横を素通りして入って行った。
いつの間にか、早く帰ることが習慣づいてきている自分に、かなり驚いていた。
無意識でまで、出来るようになっていたとは。
しかし、トランスというものは厄介で。
これがディスプレイの前に座っていようものなら、とんでもない事態にだってなりえる。
気づいたら真夜中、などということが今まででもザラだったのだ。
そんなことを、いまやろうものなら――
女と仕事の板挟みになる日が来るとは、思ってもみなかった。
いままでは、そんなに自分をひきつける女には、出会っていなかったということになるか。
それを自覚すると、なお落ち着かなくなる。
おかげで箸が手につかず、夕食の時はせっかくのおかずとやらを、床にダイビングさせてしまった。