12/10 Fri.-1
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「さむ…」
朝、起きた時の第一印象がそれだった。
昨日までも寒かったのだが、今日は一段と冷え込んでいる。
慌てて着替えて階下に下りる。
一番最初にやるのは、ダイニングに暖房を入れること。
でないと、カイトが朝食を取る時までに部屋が暖まらないのだ。
今日も、バイクなのよね。
朝食の準備をしながら、メイはそう思った。
ご飯を食べていってくれるのは嬉しい。
けれども、その代償としてバイク通勤になっているのだ。それが心配だった。
先日は雨で、ずぶ濡れになって帰ってきたし。
今日まで会社に行けば、また休みなのだろう。
しかし、そういう日に限って、こんなお天気なのだ。
普通は、余り天気について考えることはなかった。
確かに会社に行っていた頃は、雨が降らないといいなぁ、寒くないといいなぁ、と思ってはいたものの、いまほど切実な感じはなかった。
彼は寒いのなんか関係ない、みたいに言っていたが、自分の感覚で考えたら、やっぱり寒くてしょうがないんじゃないかと思うのだ。
メイが朝食を作る前は、車で出勤だった。
シュウと同乗していたのだ。
あれなら、寒いという心配はないだろう。
しかし、それに乗るためには、いつもよりも、もっと早く起こさなければならなかった。
どうしよう…。
さんざん思い悩んだ末、メイはガスを切った。二階へ向かおうとしたのだ。
いつもよりは15分も早い。
だから、まだ朝食の準備も完全ではなかった。
とりあえず、彼の様子を見て決めようと思ったのだ。
深く眠っているようだったら戻って、いつも通りの時間に起こそうと。起きそうな気配があったら、相談してみようと。
そっと扉を開けた。
薄暗い部屋。
カーテンを閉めているせいだ。
暖房だけが動いている音がする。
いつも、かけっぱなしで寝ているようだ。
足音を忍ばせて近付く。
彼は、まだベッドの上のカタマリに過ぎなかった。
距離が短くなっていくにつれ、だんだんと輪郭がはっきりしてくる。
彼は横を向いて眠っていた。
顔の向いている方に回って、覗き込む。
ドキン。
毎朝、この距離になると胸がドキドキする。
起こすのをためらう瞬間でもあった。
こげ茶の髪は、横を向いているせいで流れ気味に逆立っていて、薄く開いた唇が、呼吸を繰り返している。
ゆるやかに閉じられているまぶたは、しかし、ぴくりともする様子はなかった。
ぐっすり眠っているようである。
はっ。
思い切り見とれてしまっていたメイは、ようやく我に返った。
彼が寒くなく会社に行けるかもしれないのに、それを無駄にしてしまいそうになったのだ。
でも…どうしよう。
こんなにぐっすり眠っているのに起こすのは忍びなかった。
やっぱり、いつも通りの時間に起こそうかな。
結局、それ以上強気になれずに部屋を出て行こうかと思った。
「……!」
しかし、驚いて動きを止める。
ぱちっと――目が開いたのだ。何の前触れもなく。
あ。
ど、ど、ど、どうしようー!!!!
まさか、こんなことになるなんて思っていなくて、パニックになった。
せっかく心で決着しかけた予定が、いきなり狂ってしまったのである。
混乱したままでいると、カイトは何度か瞬きをした。
それから、焦点を合わせるように目を細めたのだ。
「あ…おはようございます」
相手が起きてしまってはしょうがない。
とりあえず、朝の挨拶にかかる。
布団の中から手が出てきて、自分の顔を一度強くなでる動きをした。
それから、ギシッとベッドをきしませる。
身体をよじって、枕元の時計を見たのだ。
ああー。
穴があったら入りたかった。
不審に思うのは間違いないかった。
「あのっ! 今日、すごく寒いので…それで、車で一緒に出勤されたらどうかって思って…だから…その…」
先手を打って、事情を説明する。
言いながらも、朝一番から怒鳴られるのではないかとビクビクしていた。
ふーっと吐かれる息にさえ、メイは身を竦ませた。
「大丈夫だっつってんだろ…」
今日初めての声。
それは、寝起きの掠れたものだった。
とりあえず、朝から怒鳴る気力はないらしい。
彼女にとっては、大変ありがたい事態だった。
「そうですか…すみません起こしてしまって」
しかし、睡眠を邪魔したことは確かだ。
貴重な朝の時間に、不愉快な気分にさせてしまった。
あと15分も眠られるのにと、考えているに違いない。
「あ、それじゃあ、また来ます…眠っててください!」
まだ朝食は作りかけだ。
このままでは、いつもの時間にも障ってしまいそうな気がした。
メイはぺこっと頭を下げると、部屋を飛び出した。
ああ、もう。
よかれと思ったことが、見事に裏目に出てしまった。
考えれば、お節介にもホドがある。
けれど、できるだけよりよい一日を送って欲しかったのだ。
もっとちゃんと、彼のことを知らなければならない。
カイトは余り多くのことを語らないので、その態度や行動から性格をちゃんと読まなければ、こんな失敗をあと何回してしまうか分からなかった。
とにかく。
いまは、朝食を作らなければいけない。
もう一度、起こしにいくまでに。
調理場に戻るなり、電子レンジで温野菜を作りながら、ネギを刻んで。
くるくると、メイは動き回った。
できた!
そう思った時、ダイニングの方でがたっと音がした。
え?
たたたっと駆けていって、ひょいと覗くと―― ワイシャツの袖口のボタンを留めながら、カイトが椅子に座るところだった。
あっ、とメイは口だけを開けた。
声は出さなかったので、こうして覗いていることは気づかれなかったようだ。
ぱっと調理場の方に顔を引っ込めて、一人オロオロした。
結局。
あのまま、カイトは起きてしまったのだ。
二度寝をすると踏んでいたのに、見事予想は外れてしまった。
急いでおみそ汁をよそう。
温野菜とスクランブルエッグの皿も一緒にトレイに乗せて、彼女はダイニングへ直行した。
カイトは、いつものように余り表情豊かではないまま座っているだけだ。
「すみませんでした…」
朝食を並べながら、彼女は小さな声で言った。
「目が覚めちまっただけだ」
暗に気にするなと言ってくれているのだろうか。
翻訳装置は、「?」付きでそんな結果を出してきた。
「いただきます…」
うまくそれに反応できないまま、朝食が始まる。
時々、彼の態度を盗み見た。
怒ってないか。
朝のことをどう感じているのかを知ろうとしたのだが、いつもと何も変わらないように思える。
「新聞…取ってらっしゃらないんですか?」
何気ない話題を切り出して、彼のいまの気持ちを探ろうとした。
いや、それは何となく気になっていることでもあったのだ。
何か足りないと思ったら、新聞がこの家には来なかった。
彼女の父親は、何回注意しても食事中の新聞をやめなかったのに。
その記憶のせいで、違和感となったのだろう。
カイトは顔を上げる。
「…見てぇのか?」
こっちが探ろうと思っていたのに、まるで反対だ。
カイトの目こそ、彼女がどういう気持ちで質問をしてきたのか、探るような色をしていた。
しかし、見当違いもいいところである。
「ち、違います! ただ、何となく…新聞を読まれてるところを見たことがないので」
誤解がないように注意しながら言葉を発した。
別に、メイは新聞好きというワケではないのだ。
「新聞は会社に来るようになってる…あと、ニュースはネットでも見られる」
言い終わるや、みそ汁がずずっとすすられた。
ちゃんとした言葉で答えてくれるところを見ると、怒っているような様子はなかった。
内容にというよりも、その口調にほっとする。
「そうなんですか…」
安堵がそのまま声に出てしまったのか、カイトがもう一度顔を上げた。
視線がぶつかる。
「あのっ! ホントに新聞が好きというわけじゃないんですよ…家でもテレビ欄くらいしか見てなかったですし…」
何を一人でペラペラ言い訳をしているのか。
最後の辺りは恥ずかしくなってしまって、声を途切れさせてしまった。
シーン。
いつも静かだけれども、今日の沈黙はメイには痛かった。
やることなすこと空回りしているような気がしてしょうがなかったのだ。
気をつけないと、こういう日は転ぶのである。
「ごっそさん…」
言ってカイトが立ち上がってくれたのは、ある意味救いでもあった。
この、どうしようもない静けさの中から解放されるのだ。
慌てて立ち上がり、ネクタイを結びに行く。
ドキドキが、身体からこぼれてしまわないように気をつけなければいけない瞬間でもあった。
今日は特に、空回っているから要注意である。
丁寧に結び終えて。
「いってらっしゃい」
笑顔で送り出す。
彼の姿がドアの向こうに消えた後―― ほぉっと深い吐息をついた。
ああよかった、と思ったのだ。
あれ以上の失態をせずに済んだのだ。
数十秒後。
「オレはバイクで行くっつってんだろ! てめーは一人で車ででも行きやがれ!」
怒鳴ってる声が聞こえて、メイはびくっとした。
しかし、その後クスッと笑ってしまう。
声だけで、玄関で何が起きているか分かってしまったのだ。