12/09 Thu.-3
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今日は、珍しくカイトにとって腹の立つことも起きなかった。
すっかりアオイ教授もなりをひそめ、シュウも諦めたようで、あの話題を持ち出してくることはなかった。
家に帰ると、メイが「おかえりなさい」を言ってくれる。
夕食を取る。
部屋に戻って一息つく。
静かで幸せな時間だ。
本当ならここで風呂にでも入るのだが、いまの彼はその行動が起こせなかった。
昨日のお茶事件が、尾を引いているのである。
メイが、何の予告もナシにお茶を持ってきたのだ。大した話もなかったのに。
ということは。
今日もお茶を持ってくる可能性があった。
もしも、その時に風呂に入っていてノックの音が聞こえなかったりしたら、そのまま帰られてしまうような気がしたのだ。
昨日だけ、たまたまお茶を持ってきたということだってありえる。
そのどちらか判別つかずに―― しかし、風呂に入れないままだった。
結果、部屋の中をウロウロしている自分に気づいてムッとする。
何やってんだ!
自分を罵倒して、机の前に座る。
彼のこういう落ち着かない気分を沈めてくれる鎮静剤が、そこにはあるのだ。
電源を入れる。
パソコンは、カイトににっこり笑うことはなかったが、青空の中で窓が飛んで歓迎してくれた。
全然、嬉しくはなかったけれども。
こうやって、何気なくパソコンを使っていればいいのである。
そうすれば、彼女が来たとしても何の違和感もなく迎え入れられるのだ。
しかし、どうしても集中できない。
背中の方にばかり意識が行ってしまって、何度も顔を顰めては、ディスプレイの方に戻そうとした。
だが、一向にメイが来る様子はない。
9時半を回ったが、気配すらないのである。
やっぱり、昨日のあれは一過性のものだったのかもしれない。
今にして思えば、毎晩コーヒーをいれる理由もなかった。
昨日だけ、たまたまと考えた方がしっくりいくだろう。
カイトは、パソコンの電源をそのままに立ち上がる。
自分が、いやに落胆しているのが気に入らなかった。
彼女に来て欲しかったのだ。
普通なら、そんなくだらない時間なんか欲しくもない。
けれども、メイが持ってくるものなのだ。彼のために。
そう思うと、ネクタイや朝食と同じ扱いになってしまう。
彼のための労働だけは、どうしても拒否が甘くなるのだ。
結局、メイが来る様子はなく。
自分の気持ちをため息でごまかして、風呂場に向うことにした。
乱暴にドアを開けて、脱衣所でシャツを脱ぐ。
ボタンがまどろっこしくて脱ぐのも着るのも嫌いなそれだ。
ベルトに手をかける。ジッパーを下ろす。
コンコン。
ノックがあったのは、そんな時だった。
脱衣所のドアが、完全に閉まってなかったので聞こえたのだ。
カチン。
思わず、カイトは動きを凍らせてしまった。
すっかりあきらめていた存在が、現れたのである。
しかし、もしかしたらこういう時は、フェイントでシュウの可能性もある。
いつも彼の期待をうち砕いてくれる邪魔者だ。
疑惑が払えないが、一応ジッパーとベルトを元に戻す。
そこらにあるトレーナーをひっつかみながら部屋に戻った。
「誰だ?」
両方の袖を先に通しながら、ドアに向かって誰何する。
シュウなら殺してやる、とか思いながら。
ドアは言った。
「メイです…あの、お茶を」
ガッチーン!
その声を聞くやいなや、またカチカチに凍ってしまう。
まだ彼は、トレーナーに袖は通しているものの、頭はくぐらせていなかった。
風呂や着替え中だと思われたら、メイは間が悪かったと判断して引き上げてしまうかもしれない。
慌ててトレーナーに首を突っ込んだ。
それから、近づいて行ってドアを開けた。
片手でトレイを支えるようにしていたメイが、驚いた顔で見ている。
入室の許可が、言葉であると思っていたのだろう。
『入れ』という言葉さえも、彼は言えなかったのである。
思えば、彼女は昨日もトレイを持ってきていた。
わざわざ、ノックをしたりドアを開けたりする時に、片手では大変だろう。
そこまで考えたわけではなかったが、結果的には親切になってしまった。
カイトは、逃げるように部屋に戻った。
ドアは、開けっ放しで。
パタン。
ドアを閉ざすところまでは、頭は回らなかった。
結局彼女は、また片手でトレイを支えたのだ。
気のきかなさに歯がみをするが、彼女のためにドアを開けてドアを閉めるという行為なんかをしている自分を想像すると、やはりいい気持ちにはなれなかった。
紳士だのレディー・ファーストだのという、かゆい言葉が乱舞するのだ。
自分に『やめろよ!』と言い聞かせながら、カイトは立ち止まった。
このままソファに座ってしまうと、彼女があのマグカップを「どうぞ」と、テーブルに置いてくれるのが予測できたからである。
くるっと振り返ると、近づいてくるところで。
無言で腕を伸ばして、カイトはコーヒーの方のカップを奪い取った。
それから、奥の方のソファに座る。
昨日と同じだ。
メイも、恐縮しながらも向かいのソファに座って。
そうして、静かで心地よいお茶の時間とやらが始まるのである。
カイトは、手持ち無沙汰だった。
実際は、マグカップを持っているので、手持ち無沙汰でいる必要などはない。
だが、昨日はその気持ちに押されて、ぐいぐいとコーヒーを飲んでしまったのだ。
おかげで、彼女はあっという間に出ていってしまった。
それを踏まえると、たとえカップを持っていたとしても、口をつけるのをぐっと我慢しなければならないのだ。
一口つけると、昨日と違って熱いコーヒーであることが分かる。
今すぐ処理できそうになかった。
それも幸いだったか。
とにかく、カップを持ったカイトは、違うことをしていなければならなかった。
別の方に気があるようによそを向いたり、考え事をする素振りをしたり。
時々、飲んで。
その内、コーヒーがすっかりぬるくなる。
メイのカップの方も、残り少なくなってきているようだ。
さりげなく、彼女の手元を盗み見る。
お互い、それ以上カップに口をつけようとしなかった。
きっとメイは、一人だけ飲み終わるワケにもいかないと、彼の間合いを計っているのだろう。
これ以上引き延ばすのも不自然だった。
カイトはしょうがなく、マグカップを空っぽにしたのだ。
それを見た彼女も、多分すっかり冷たくなってしまっただろう紅茶を飲み干して。
「それじゃあ、おやすみなさい」
そう言うのだ。
寂しさが、胸に滑り込んでくる瞬間。
たとえ同じ家に住んでいたとしても、彼女がいろんな言葉をかける時に、別れもやってくる。
いってらっしゃいも、おやすみなさい、も。
一日の内で、一緒にいる時間というのは、考えればほとんどない。
平日なんかは、本当に食事の時くらいだ。
もっと一緒にいたい気持ちが胸の中に蔓延するけれども、それは彼の意志だけではどうしようもないものだった。
出ていく姿を眺めながら、カイトはため息をつく。
彼女に聞こえてしまわないような、小さなものを。
ようやく、後ろ髪を引かれることもなく風呂に入れるようになった彼は、再び脱衣所に入った。
トレーナーを脱ごうとした。
しかし。
カイトは動きを止めた。
喉元に、タグがあったのだ。トレーナーの首を引っ張ったら見える位置に。
クソッ。
慌てたせいで、彼はトレーナーを後ろ前に着てしまったのだ。
メイが、気づいていなかったことを祈るしかなかった。