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古い時刻表

作者: 羽月楓
掲載日:2026/10/01

 


 旧三鷹九番、待合所。

 古い時刻表、一枚。

 旧荻窪三番、学び舎まで。


 新人のカナタは、掌ほどの運搬票を裏返した。裏には何も書いていない。表へ戻すと、さっきと同じ三行があった。


「これだけですか」


 窓口の奥で、ゲンが背負い袋の紐を締めていた。


「それだけだ」

「時刻表なんて、もう使わないでしょう」

「届け先じゃ使うんだろ」

  

 カナタは、票にある『時刻表』の字をもう一度見た。薬でも食べ物でもない。たった一枚の古い板を取りに、これから自転車を漕ぐのだ。


「何に?」

「聞いてこい。持って帰ってくるなよ」


 ゲンはそう言って、次の運搬票に手を伸ばした。


     *


 運び屋――通称モグラ。それがカナタの仕事だ。

 

 線路を見るたび、カナタは音を思い出す。

 ガタン、と足の裏に伝わる揺れ。金属のきしみ。扉が開くと、一斉に動きだす靴。

 母の手は、いつも少し先にあった。


『急がないと間に合わないよ』


 あの頃は、壁に並んだ数字が苦手だった。読めなくても、自分が急がなければならないことだけは分かった。


 いま、線路は頭の上にある。


     *

 

 カナタは、前方の荷車とすれ違うために自転車を降りた。

 水筒を運ぶ、老人のモグラだった。よく見ると車輪が地面の継ぎ目に引っかかっている。二人で息を合わせて荷車を持ち上げると、積まれた水筒が鈍い音を立てた。


「悪いな」

「いえ」


 返事をしたとき、おもむろに老人が通路の端へ寄った。

 カナタが顔を上げると、赤い鎧が足元の照明を遮っていた。女王に仕える劫火の騎士だ。

 自転車を壁へ引き寄せ、荷台が通路にはみ出していないか確かめる。騎士は二人を見たのかどうかも分からないまま歩いていった。


 足音が遠ざかってから、老人が水筒の紐を結び直した。


「じゃあな」


 カナタは頷き、自転車を押しだした。


 重力が反転して五年。

 地下鉄の通路を、避難路や地下施設へつなぎ直した都市、メトロジェイル。道の脇には、修理を請け負うシュウリヤの仕事場があり、金属を叩く音が響いている。布で覆われた箱を積んだモグラが通れば、その隙間から青い葉の匂いがした。


 電車が走らなくなった道を、人と荷物はまだ行き来している。


     *


 旧三鷹九番の待合所には、天井に青い椅子が並んでいた。

 カナタは自転車を停め、足元に固定された案内板をまたいだ。『待合所』の文字は逆さまだ。

 その奥の壁に、目当ての時刻表が留まっていた。


 首を傾けて読む。


 06:12。

 06:24。

 06:37。


 数字の端に、小さなひびが入っていた。


「変なひと」


 振り返ると、五歳ぐらいの女の子が立っていた。大きなコートからミトンの先がのぞき、胸には紙の束を抱えている。


「首、いたくならないの?」

「なるよ。だから、そろそろやめようと思ってた」


 首を戻すと、女の子も少し傾けていた頭を戻した。


「何を見てたの」

「電車が来る時間」


 女の子は天井を見た。それから、誰もいない通路の先を見た。


「来るの?」


 カナタは、ひとつ間を置いて答えた。


「……昔、来てた時間だよ」

「ふうん」


 女の子は時刻表へ近づいた。


「電車って、モグラみたいに来てたの?」

「もっと大きい。一度に、たくさん人が乗れるんだ」

「おババも?」

「ああ、乗れるよ」

「歩けなくても?」

「乗るときに誰かが手伝えばね」


 女の子は、何かを確かめるように頷いた。


「何時間待ったら来てたの?」


 カナタは、ひびの入った数字を指した。


「時計が、この数字になると来たんだ」

「ぴったり?」

「だいたい」


 女の子はカナタの袖口を見た。擦り傷のついた腕時計がのぞいている。


「モグラが来る時間も書けばいいのに」


 カナタは時計を見た。ゲンの窓口を出てから、思ったより時間が経っていた。


「途中で道が塞がることもあるし、急な薬を頼まれることもあるからなあ」

「時計は、止まらないのに?」

「うん。こっちが止まるんだ」


 女の子は少し考えたあと、紙の束を抱え直した。


「待ってるひと、困るね」


 そのとき、通路から呼ぶ声がした。


「サヨ」


 工具袋を肩に掛けた女性が、二人のところへ歩いてきた。


「ひとりで先に行かない約束でしょう」

「ここにいたよ」


 女性は女の子のフードを直してから、カナタに頭を下げた。


「依頼を出した峰子です。この子はサヨ。来てくれてありがとう」

「カナタです。これを、学び舎へ運ぶんですね」

「はい。外すことは窓口に確認してあります。道具も持ってきました」


 峰子は工具袋を下ろした。


「授業で使うんですか」

「ええ。私はそこで教師をしているの。子どもに聞かれたんです。電車を待っていた人は、その間に何をしていたのかって」


 カナタは、頭上の椅子を見た。


 小さい頃、座ると床に足が届かなかった。揺らしていると母に膝を押さえられた。隣には新聞を畳む人がいて、その向こうには目を閉じた人がいた。


「寝てる人も、いましたね」

「そうそう」


 峰子が笑った。


「急いでる人もいたし、お弁当を持ってる人もいた。そういうのを、皆で数字を見ながら想像してみようと思って」


 カナタは運搬票を畳んだ。


「じゃあ、外します。下で支えてもらえますか」


     *


 足場に乗ると、時刻表のひびがよく見えた。


 最初の留め具はすぐに回った。二つ目は錆びついていて、力を入れると板のほうが小さく軋んだ。

 

「モグラさん、いっぱい運ぶものがある?」


 サヨが訊くと、カナタは振り返らずに答えた。

 

「あるよ。一人で運びきれないときは、別のモグラに頼む」

「だれが待ってるか、分からなくならない?」


 カナタは手を止め、工具を持ち直した。

 

「そのために、これがあるんだ」

 

 胸の運搬票を顎で示す。

 するとサヨは自分の紙の束を見た。使い終えた裏紙が、大きな黄色いクリップで留めてあった。


「お母さん、鉛筆」


 峰子から短い鉛筆を受け取ると、サヨはミトンを外し、膝をついた。紙の裏の文字が透けない場所を選んで、線を引く。


 カナタが三つ目の留め具を外したころ、サヨが顔を上げた。


「まなびやの、や、ってどう書くんだっけ」


 峰子は時刻表に手を掛けたまま、口で分かるように教えた。サヨは声に出しながら書いていく。


 まなびや こども すうじのいた


「サヨ、それ何の表?」

「待ってる人の」


 サヨは紙を少し離し、出来具合いを眺めた。


「数字の板、まだ来ないかなって」


 カナタは、板の下側へ手を回した。


「もう少しだよ」


 最後の留め具が外れた。思っていたより軽い板を、峰子と二人で下ろす。ひびを広げないように裏へ当て板を添え、布で包んだ。


「モグラさん、これも一緒に運んで欲しいの」


 サヨは黄色いクリップを外し、さっき描いた一枚の表をカナタに差し出した。

 それを見た峰子が申し訳なさそうに付け足した。


「ごめんなさいね。この子の依頼も一緒に受けてくれるかしら」

「構いませんよ」


 カナタはしゃがみ、サヨに視線を合わせた。

 

「時刻表の隣に置いておけばいい?」 

「うん。待ってるものを、大きい子たちにも書いて欲しいの」

「分かった。そう伝える」

 

 カナタは表を受け取り、板を包んだ布の内側へ挟んだ。


 サヨは、手元に残った紙の束の一番上に鉛筆を当てた。


 まちものちょう。


 最後の字が少し下へはみ出していた。

 

     *


「どうして、ここの時刻表じゃないと駄目だったんですか」


 荷台の紐を確かめながら、カナタが訊いた。

 峰子は、時刻表があった壁から、頭上の青い椅子へ目を移した。


「私の母、待ち合わせにはいつも早く来る人だったんです。ここの椅子に座って、私を待っていて」


 カナタは椅子を見上げた。

 母親を待たせて、ここへ急いで来る峰子を思い浮かべた。サヨの手を引いている今より、ずっと若い峰子だった。


 荷台を左右に揺すっても、板は動かなかった。カナタは余った紐を巻いて結んだ。


「じゃあ、行ってきます」

「私たちも、後から追うわ」


 カナタは頷き、自転車にまたがった。

 学び舎へ向かう道では、途中の工事で一度、自転車を押した。脇を抜ける間、荷台が壁に当たらないよう、ゆっくり歩いた。


    *

 

 学び舎に着くと、入口にいた子が板の包みを見た。


「それ、何?」

「先生が頼んだ時刻表」

「来た!」


 子どもは奥へ走り、もう一人を連れて戻ってきた。

 カナタは長い卓に包みを置いた。布を開くと、一人がすぐに首を傾ける。


「反対だよ」


 もう一人が言った。


 二人で慎重に板を回す。06:12の数字が、カナタにもまっすぐ読める向きになった。


「こっちの紙は?」


 カナタは、少し折れた紙の端を伸ばした。


「サヨって子から。皆にも書いてほしいんだってさ。みんなが、何を待ってるか」

「書いたらどうするの?」

「あとで先生と一緒に来るそうだから、そのときに聞いてみて」


 大きいほうの子が、たどたどしい字を声に出して読んだ。

 

「まなびや。こども。すうじのいた……これ、僕らのこと?」

「うん」


 子どもは少し笑って、紙を時刻表の隣へ置いた。


 カナタは受け取りを確認してもらい、空になった荷台の紐をまとめた。

 入口を出る前に振り返ると、二人はまだ、ふたつの表を比べて眺めていた。


 古い時刻表には、電車がいつ来るかが書いてある。

 その隣の紙には、誰が何を待っているかが書いてある。


 昔、母の手を追いかけながら見た数字の向こうにも、こんなふうに待っている人がいたのだろうか。


 カナタが運んできた板を、二人の子どもが並んで覗き込んでいた。


 時計を見る。

 待合所を出発してから、二時間あまりが経っていた。

 カナタはゲンに何と報告しようか考えながら、自転車を押しだした。


 古い板、一枚。

 待っていた子ども、二人。


 窓口に戻ったら、後のほうも伝えようと思った。


 

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