古い時刻表
旧三鷹九番、待合所。
古い時刻表、一枚。
旧荻窪三番、学び舎まで。
新人のカナタは、掌ほどの運搬票を裏返した。裏には何も書いていない。表へ戻すと、さっきと同じ三行があった。
「これだけですか」
窓口の奥で、ゲンが背負い袋の紐を締めていた。
「それだけだ」
「時刻表なんて、もう使わないでしょう」
「届け先じゃ使うんだろ」
カナタは、票にある『時刻表』の字をもう一度見た。薬でも食べ物でもない。たった一枚の古い板を取りに、これから自転車を漕ぐのだ。
「何に?」
「聞いてこい。持って帰ってくるなよ」
ゲンはそう言って、次の運搬票に手を伸ばした。
*
運び屋――通称モグラ。それがカナタの仕事だ。
線路を見るたび、カナタは音を思い出す。
ガタン、と足の裏に伝わる揺れ。金属のきしみ。扉が開くと、一斉に動きだす靴。
母の手は、いつも少し先にあった。
『急がないと間に合わないよ』
あの頃は、壁に並んだ数字が苦手だった。読めなくても、自分が急がなければならないことだけは分かった。
いま、線路は頭の上にある。
*
カナタは、前方の荷車とすれ違うために自転車を降りた。
水筒を運ぶ、老人のモグラだった。よく見ると車輪が地面の継ぎ目に引っかかっている。二人で息を合わせて荷車を持ち上げると、積まれた水筒が鈍い音を立てた。
「悪いな」
「いえ」
返事をしたとき、おもむろに老人が通路の端へ寄った。
カナタが顔を上げると、赤い鎧が足元の照明を遮っていた。女王に仕える劫火の騎士だ。
自転車を壁へ引き寄せ、荷台が通路にはみ出していないか確かめる。騎士は二人を見たのかどうかも分からないまま歩いていった。
足音が遠ざかってから、老人が水筒の紐を結び直した。
「じゃあな」
カナタは頷き、自転車を押しだした。
重力が反転して五年。
地下鉄の通路を、避難路や地下施設へつなぎ直した都市、メトロジェイル。道の脇には、修理を請け負うシュウリヤの仕事場があり、金属を叩く音が響いている。布で覆われた箱を積んだモグラが通れば、その隙間から青い葉の匂いがした。
電車が走らなくなった道を、人と荷物はまだ行き来している。
*
旧三鷹九番の待合所には、天井に青い椅子が並んでいた。
カナタは自転車を停め、足元に固定された案内板をまたいだ。『待合所』の文字は逆さまだ。
その奥の壁に、目当ての時刻表が留まっていた。
首を傾けて読む。
06:12。
06:24。
06:37。
数字の端に、小さなひびが入っていた。
「変なひと」
振り返ると、五歳ぐらいの女の子が立っていた。大きなコートからミトンの先がのぞき、胸には紙の束を抱えている。
「首、いたくならないの?」
「なるよ。だから、そろそろやめようと思ってた」
首を戻すと、女の子も少し傾けていた頭を戻した。
「何を見てたの」
「電車が来る時間」
女の子は天井を見た。それから、誰もいない通路の先を見た。
「来るの?」
カナタは、ひとつ間を置いて答えた。
「……昔、来てた時間だよ」
「ふうん」
女の子は時刻表へ近づいた。
「電車って、モグラみたいに来てたの?」
「もっと大きい。一度に、たくさん人が乗れるんだ」
「おババも?」
「ああ、乗れるよ」
「歩けなくても?」
「乗るときに誰かが手伝えばね」
女の子は、何かを確かめるように頷いた。
「何時間待ったら来てたの?」
カナタは、ひびの入った数字を指した。
「時計が、この数字になると来たんだ」
「ぴったり?」
「だいたい」
女の子はカナタの袖口を見た。擦り傷のついた腕時計がのぞいている。
「モグラが来る時間も書けばいいのに」
カナタは時計を見た。ゲンの窓口を出てから、思ったより時間が経っていた。
「途中で道が塞がることもあるし、急な薬を頼まれることもあるからなあ」
「時計は、止まらないのに?」
「うん。こっちが止まるんだ」
女の子は少し考えたあと、紙の束を抱え直した。
「待ってるひと、困るね」
そのとき、通路から呼ぶ声がした。
「サヨ」
工具袋を肩に掛けた女性が、二人のところへ歩いてきた。
「ひとりで先に行かない約束でしょう」
「ここにいたよ」
女性は女の子のフードを直してから、カナタに頭を下げた。
「依頼を出した峰子です。この子はサヨ。来てくれてありがとう」
「カナタです。これを、学び舎へ運ぶんですね」
「はい。外すことは窓口に確認してあります。道具も持ってきました」
峰子は工具袋を下ろした。
「授業で使うんですか」
「ええ。私はそこで教師をしているの。子どもに聞かれたんです。電車を待っていた人は、その間に何をしていたのかって」
カナタは、頭上の椅子を見た。
小さい頃、座ると床に足が届かなかった。揺らしていると母に膝を押さえられた。隣には新聞を畳む人がいて、その向こうには目を閉じた人がいた。
「寝てる人も、いましたね」
「そうそう」
峰子が笑った。
「急いでる人もいたし、お弁当を持ってる人もいた。そういうのを、皆で数字を見ながら想像してみようと思って」
カナタは運搬票を畳んだ。
「じゃあ、外します。下で支えてもらえますか」
*
足場に乗ると、時刻表のひびがよく見えた。
最初の留め具はすぐに回った。二つ目は錆びついていて、力を入れると板のほうが小さく軋んだ。
「モグラさん、いっぱい運ぶものがある?」
サヨが訊くと、カナタは振り返らずに答えた。
「あるよ。一人で運びきれないときは、別のモグラに頼む」
「だれが待ってるか、分からなくならない?」
カナタは手を止め、工具を持ち直した。
「そのために、これがあるんだ」
胸の運搬票を顎で示す。
するとサヨは自分の紙の束を見た。使い終えた裏紙が、大きな黄色いクリップで留めてあった。
「お母さん、鉛筆」
峰子から短い鉛筆を受け取ると、サヨはミトンを外し、膝をついた。紙の裏の文字が透けない場所を選んで、線を引く。
カナタが三つ目の留め具を外したころ、サヨが顔を上げた。
「まなびやの、や、ってどう書くんだっけ」
峰子は時刻表に手を掛けたまま、口で分かるように教えた。サヨは声に出しながら書いていく。
まなびや こども すうじのいた
「サヨ、それ何の表?」
「待ってる人の」
サヨは紙を少し離し、出来具合いを眺めた。
「数字の板、まだ来ないかなって」
カナタは、板の下側へ手を回した。
「もう少しだよ」
最後の留め具が外れた。思っていたより軽い板を、峰子と二人で下ろす。ひびを広げないように裏へ当て板を添え、布で包んだ。
「モグラさん、これも一緒に運んで欲しいの」
サヨは黄色いクリップを外し、さっき描いた一枚の表をカナタに差し出した。
それを見た峰子が申し訳なさそうに付け足した。
「ごめんなさいね。この子の依頼も一緒に受けてくれるかしら」
「構いませんよ」
カナタはしゃがみ、サヨに視線を合わせた。
「時刻表の隣に置いておけばいい?」
「うん。待ってるものを、大きい子たちにも書いて欲しいの」
「分かった。そう伝える」
カナタは表を受け取り、板を包んだ布の内側へ挟んだ。
サヨは、手元に残った紙の束の一番上に鉛筆を当てた。
まちものちょう。
最後の字が少し下へはみ出していた。
*
「どうして、ここの時刻表じゃないと駄目だったんですか」
荷台の紐を確かめながら、カナタが訊いた。
峰子は、時刻表があった壁から、頭上の青い椅子へ目を移した。
「私の母、待ち合わせにはいつも早く来る人だったんです。ここの椅子に座って、私を待っていて」
カナタは椅子を見上げた。
母親を待たせて、ここへ急いで来る峰子を思い浮かべた。サヨの手を引いている今より、ずっと若い峰子だった。
荷台を左右に揺すっても、板は動かなかった。カナタは余った紐を巻いて結んだ。
「じゃあ、行ってきます」
「私たちも、後から追うわ」
カナタは頷き、自転車にまたがった。
学び舎へ向かう道では、途中の工事で一度、自転車を押した。脇を抜ける間、荷台が壁に当たらないよう、ゆっくり歩いた。
*
学び舎に着くと、入口にいた子が板の包みを見た。
「それ、何?」
「先生が頼んだ時刻表」
「来た!」
子どもは奥へ走り、もう一人を連れて戻ってきた。
カナタは長い卓に包みを置いた。布を開くと、一人がすぐに首を傾ける。
「反対だよ」
もう一人が言った。
二人で慎重に板を回す。06:12の数字が、カナタにもまっすぐ読める向きになった。
「こっちの紙は?」
カナタは、少し折れた紙の端を伸ばした。
「サヨって子から。皆にも書いてほしいんだってさ。みんなが、何を待ってるか」
「書いたらどうするの?」
「あとで先生と一緒に来るそうだから、そのときに聞いてみて」
大きいほうの子が、たどたどしい字を声に出して読んだ。
「まなびや。こども。すうじのいた……これ、僕らのこと?」
「うん」
子どもは少し笑って、紙を時刻表の隣へ置いた。
カナタは受け取りを確認してもらい、空になった荷台の紐をまとめた。
入口を出る前に振り返ると、二人はまだ、ふたつの表を比べて眺めていた。
古い時刻表には、電車がいつ来るかが書いてある。
その隣の紙には、誰が何を待っているかが書いてある。
昔、母の手を追いかけながら見た数字の向こうにも、こんなふうに待っている人がいたのだろうか。
カナタが運んできた板を、二人の子どもが並んで覗き込んでいた。
時計を見る。
待合所を出発してから、二時間あまりが経っていた。
カナタはゲンに何と報告しようか考えながら、自転車を押しだした。
古い板、一枚。
待っていた子ども、二人。
窓口に戻ったら、後のほうも伝えようと思った。




