その婚約破棄、記録には残っていますか?
「リディア・アーデルハイト。貴様との婚約を、本日をもって破棄する!」
王立学院の卒業記念夜会。
大広間の中央で、第一王子エドガーは高らかに宣言した。
ざわ、と周囲が揺れる。
わたしは手にしていた扇を閉じ、王子を見た。
「……婚約破棄、でございますか?」
「ああ。貴様は僕にふさわしくない」
隣には、淡い桃色のドレスを着た令嬢が寄り添っている。
男爵令嬢のマリア。
最近、王子が頻繁に連れ歩いている女性だった。
「マリアは僕を理解してくれる。僕が次期国王として何をすべきかも、彼女だけが分かっている」
「まあ」
思わず声が出た。
「何がおかしい!」
「いえ。ただ……」
わたしは胸元から一冊の手帳を取り出した。
そして、王子の目を見て話し出す。
「確認しておきたいことがございます」
「確認?」
「はい」
わたしは手帳を開いた。
「本日の件を、正式な記録として残してよろしいでしょうか?」
一瞬、静寂が落ちた。
王子が眉をひそめる。
「記録?」
「婚約破棄は、王族と公爵家の間で結ばれた正式な契約の破棄でございます。後日、言った言わないという問題にならないよう、発言者と内容を記録しておく必要があります」
「そんなものは必要ない!」
「では、記録は不要、と?」
「……いや」
王子は周囲を見回した。
大勢の貴族がこちらを見ている。
「好きにしろ。どうせ僕が婚約を破棄した。それだけだ」
「承知しました」
わたしはペンを走らせた。
『卒業記念夜会にて、第一王子エドガー殿下より婚約破棄の意思表示あり』
「続けて確認いたします」
「何をだ」
「婚約破棄の理由です」
王子は鼻を鳴らした。
「貴様が僕の婚約者として不適格だからだ」
「具体的には?」
「冷たい。僕に対する愛情がない。それに、王妃となる自覚もない」
「なるほど」
またペンが走る。
「他には?」
「いちいち聞くな!」
「記録ですので」
「……貴様は僕の命令に逆らったことがある!」
「いつでしょうか?」
「いつって……」
王子が詰まる。
わたしは待った。
「国境付近の干ばつが起きた際、殿下が予定していた祝賀行事を中止すべきだと申し上げた件でしょうか?」
「そうだ!」
「その際、殿下は『予定を変える必要はない』と仰いました」
「だから何だ!」
「祝賀行事に使う予定だった予算を、わたくしの判断で干ばつ地域への食料輸送費に回したところ、陛下からお褒めの言葉をいただきました」
周囲から小さなざわめきが起きる。
王子の顔が赤くなった。
「そんな細かいことまで覚えているのか!」
「記録しておりますので」
もっとも、その事象を記録しているのは2つも前の手帳ではあるが。
書くだけではなく、覚えること。
それも記録を行う上で必須になる技能だ。
「では次です。殿下は、わたくしが王妃として不適格と仰いました」
「ああ」
「その判断は、国王陛下から正式に承認されておりますか?」
「……必要ない!」
「王太子でもない殿下が、王妃候補の適格性を単独で判断できるという規定は?」
「僕は王子だぞ!」
「質問にお答えください」
王子が黙った。
マリアが不安そうに袖を引く。
「エドガー様、もうよろしいではありませんか?」
「マリア」
「こんな場で、いつまでも……」
「そうだな」
王子はようやく勢いを取り戻した。
「これで十分だ。僕は貴様との婚約を破棄する!」
「承知しました」
わたしは頷いた。
「では最後に一つだけ」
「まだあるのか!」
「はい」
手帳の最後のページを開く。
「本日の婚約破棄について、殿下は『自分の意思によるもの』と記録してよろしいでしょうか?」
「当然だ!」
「ありがとうございます」
走らせていたペンを置いた。
その瞬間。
大広間の入口から、低い声が響いた。
「では、その記録を私にも見せてもらおう」
全員が振り返る。
国王陛下だった。
その後ろには宰相、王家付きの法務官、そして数人の宮廷書記官が並んでいる。
王子の顔から血の気が引いた。
「父上……?」
「エドガー」
国王陛下はゆっくりと歩いてくる。
「今の発言に間違いはないな?」
「そ、それは……」
「答えよ」
「……ありません」
「ならば話は早い」
陛下が法務官を見る。
「記録を」
「はっ」
法務官が一礼した。
「本日付で、第一王子エドガー殿下より、アーデルハイト公爵令嬢リディアとの婚約を自身の意思で破棄した旨、記録いたします」
王子が目を見開く。
「待ってください!」
「何を待つ?」
「これは……その……」
「そなた自身が婚約破棄すると宣言したのだろう?」
「ですが!」
「ならば、その意思を尊重しよう」
冷たい声だった。
言い訳など聞きたくもないということであろう。
「ただし」
陛下がわたしの手帳を見る。
そして優しい、いつも私を慮ってくれたあの声で一つ問いかけを行った。
「リディア嬢。その記録は、いつから取っている?」
「三年前からでございます」
「三年前?」
王子が呆然と呟く。
わたしは頷いた。
「王妃教育の一環として、王族との公務に関する記録を残すよう命じられておりました」
「……そんな」
「こちらには、殿下が公務を欠席された日。予算を私的な宴に流用された日。国境への支援要請を無視された日。側近に責任を押しつけられた日。そのすべてが記録されております」
王子の顔が青ざめる。
「嘘だ!」
「では、確認なさいますか?」
わたしは手帳を差し出した。
「もちろん、この一冊だけでなく、実家の方にもう何冊か保管してありますので、そちらもご覧になられますか?」
ーーすぐにはもってこれないですが。
王子は受け取れなかった。
陛下が静かに言う。
「すでに私も読んでいる」
「父上が……?」
「宰相も、法務官もな」
王子はその場に立ち尽くした。
マリアが震えながら一歩下がる。
助けを求めるように周囲を見渡すが、誰も彼も呆れた目をしている。
好意的な目は一つもない。
それがわかったのだろう。
羞恥と恐怖で俯きながら、か細い声をもらす。
「では……私は……」
「マリア嬢」
宰相が声をかけた。
「そなたについても記録がある」
「え……?」
「王子との私的な面会記録。王宮への無断出入り。公爵家の財産について発言した記録」
「違います!」
「ならば、法廷で説明するとよい」
マリアの顔が更に強張った。
大広間は完全に静まり返っていた。
王子がわたしを見る。
「リディア……」
「はい」
「なぜ……そこまで……」
わたしは少し考えた。
そして、素直に答えた。
「記録するように命じられていたからです」
「それだけか?」
「はい」
王子は唇を噛んだ。
怒りも、悔しさも、もう見えなかった。
ただ、自分が何をしたのか理解できない子供のような顔をしている。
陛下が兵士に目を向けた。
「エドガーを王宮へ連れていけ」
「父上!」
「婚約破棄については、そなた自身の希望通り成立させよう」
王子の目が見開かれる。
「ただし、王位継承権については別途審議する」
兵士が王子の両脇に立った。
そのまま連れていかれていく。
最後まで、王子は何も言えなかった。
大広間に静けさが戻る。
わたしは手帳を閉じた。
そして最後のページに、一行だけ書き加えた。
『本日、エドガー殿下との婚約破棄、成立』
ペン先を止める。
少し考えて、その下にもう一行。
『なお、殿下本人の希望によるもの』
書き終えたわたしは、手帳を閉じた。
「これで終わりです」
いつのまにか隣にいた友人が小声で尋ねる。
「……怒ってないの?」
「何に?」
「婚約破棄されたこと」
わたしは首を傾げた。
「いいえ」
そして、ほんの少しだけ笑った。
「三年前から記録していましたから」
友人は目を丸くする。
わたしは手帳を胸元にしまった。
婚約者としての記録は、今日で終わった。
けれど。
明日からは、わたし自身の人生を記録していけばいい。
その最初の一行には、こう書こう。
『婚約破棄。わたくしの人生には、特に問題なし』




