冷えた屋敷
屋敷の朝は、整いすぎていた。
人の動きは無駄がなく、音も控えめで、どこか張りつめている。
紗夜は廊下を歩きながら、その空気を肌で感じていた。
ここでは、大きな声は不要で、笑いも慎まれる。
感情は、できるだけ外に出さない。
まるで屋敷そのものが、そう教えているようだった。
「奥様、こちらでございます」
宗一郎に案内され、帳簿や領地の書付が保管されている部屋へ入る。
領主の妻として把握すべきこと。
紗夜は淡々と説明を聞き、必要なことを覚えていった。
「旦那様は、常にこうなのですか」
ふと、口をついて出た言葉だった。
宗一郎は一瞬だけ動きを止め、それから静かに答える。
「……お若い頃から、あまり人を近づけられません」
それ以上は語られなかった。
詮索は不要だと、暗に示されている。
屋敷の人々は久遠を恐れているわけではない。
だが、近づきすぎることを避けている。
その距離感が、この屋敷の冷えを生んでいるのだと、紗夜は思った。
昼下がり、侍女の千代と共に庭へ出る。
千代は控えめながらも、どこか柔らかい空気を持つ女性だった。
「奥様、寒くはございませんか」
「大丈夫です」
そう答えると、千代はほっとしたように微笑んだ。
その表情に、胸の奥が少しだけ緩む。
庭の端、山茶花の木の下に足を止める。
白と紅が混じる花が、静かに咲いていた。
「この花、旦那様がお好きなのです」
「……そうなの」
「ええ。手入れは他に任せておられますが、切ることだけは決して許されません」
不思議な話だと思った。
情を見せない人が、花を残す。
その夜、久遠は遅くに屋敷へ戻った。
廊下で偶然すれ違い、紗夜は立ち止まって一礼する。
「遅くまで、ご苦労さまです」
自分でも驚くほど、自然に言葉が出た。
久遠は足を止め、わずかに眉を寄せる。
「……労いは、不要だ」
拒むようでいて、声は強くなかった。
「承知しました」
そう答えた紗夜を、久遠は一瞬だけ見つめた。
感情を測るような、戸惑うような視線。
「この屋敷は、寒い」
唐突な言葉だった。
「はい」
「……慣れなくていい」
そう言い残し、久遠は去っていった。
一人残された廊下で、紗夜は静かに息を吐く。
冷えた屋敷。
だが、その冷えの奥に、誰かが長く耐えてきた気配を感じていた。
山茶花は、今日も落ちずに咲いている。




