名ばかりの夫婦
朝は、規則正しく訪れた。
紗夜は決められた時刻に目を覚まし、決められた手順で身支度を整える。
新しい屋敷、新しい身分。
それでも、することはこれまでと大きく変わらなかった。
鏡に映る自分の顔は静かだった。
笑ってもいないし、泣いてもいない。
嫁としては、正しい顔だと教えられてきた。
朝餉は、久遠と共に取ることになっていた。
そう告げられたのは、身支度を終えたあとだった。
広い食事の間。
向かい合って座るには、少し距離がある卓。
久遠はすでに席についており、紗夜が入ってくると、視線だけを向けた。
「体調に問題はないか」
初めて、夫から向けられた問いだった。
それは気遣いというより、確認に近い。
「ございません」
短く答える。
それ以上の言葉は必要とされていないと、直感で分かった。
食事は静かに進んだ。
器が触れる音、湯気の立つ気配。
会話はない。
沈黙は、紗夜にとって苦ではなかった。
慣れている。
言葉を持たない時間の方が、長かったから。
だが、久遠の沈黙は、少し違って感じられた。
拒絶でも無関心でもない。
ただ、線を引いているだけ。
食事を終えると、久遠は立ち上がった。
「屋敷のことは宗一郎に任せてある。困ったことがあれば、彼に言え」
「承知しました」
「……無理に、この家に馴染もうとしなくていい」
一瞬、言葉の意味を測る。
それは、突き放しにも、配慮にも取れた。
「はい」
久遠はそれ以上何も言わず、部屋を出ていった。
その背中を見送りながら、紗夜は思う。
夫婦とは、もっと何かを共有するものではなかったか。
だが、思い出したのは教えだけだった。
嫁は、期待してはならない。
与えられた役目を果たせば、それでいい。
屋敷を案内され、仕事の流れを教わる。
宗一郎は丁寧で、必要以上に踏み込まない男だった。
「奥様は、無理をなさらず」
その言葉に、紗夜はわずかに首を傾げた。
無理、とは何だろう。
夕刻、庭を歩く。
昨日見た山茶花が、今日も変わらず咲いている。
触れようとして、やめた。
夜。
部屋には、やはり久遠は来なかった。
紗夜は布団に入り、天井を見つめる。
名ばかりの夫婦。
それでいい、と自分に言い聞かせる。
それでも胸の奥で、小さく何かが動いた。
期待ではない。
失望でもない。
ただ、知らない感情が、そこに芽生えかけていただけだった。




