森下伝 二
(森下伝 二)
エースのプレッシャーに耐えきれず、脱走を企てたところ用務員の古谷に見つかってしまった森下。
足取り重たくトボトボと寮に戻ってきた。
あの用務員さんは、自分の脱走の事を監督に告げるだろうか? 多分、告げるだろう。
そういう仕事なのだ。
……今更後悔が押し寄せてきた。
自分がマウンドに立つことより、マウンドから逃げた事の方がチームに迷惑がかかる。
もう手遅れのようなものだが、チームメイトを起こさないように戻ってくると、廊下に人が立っていた。
同じ部屋の二年生でショートを守っている名取だった。腕を組んで、壁に寄りかかっている。
……脱走がチームメイトにも知られたようである。
森下は何も言わず名取を通り過ぎ、自室に戻ろうとした時である。
「それでいい」
名取が森下の背中に言い、森下は立ち止まった。
「どこに行ってたかは、俺は聞かん。お前がどこかにいくよりも、『ここに戻ってきた』ことに意義がある」
森下は何も言い返さなかった。
「これは俺の独り言だから、何も言い返さなくていい。
……波瑠先輩達三年生が卒業した時、俺は何を思ったと思う?
ようやくお前とグランドに立てるって思ったんだよ」
名取の声は恐ろしく静かで、感情が読み取れなかった。しかし、一言一句がはっきりと、森下の耳にまで届いてきた。
「俺はな、この時期は自分がもっと殺気立ってるもんだって、一年前は思ったんだ。
最上級生になってベンチ要員からレギュラーになる。そうしたら心強かった先輩達はもう味方じゃなくなる。
自分達だけで点とって、自分達だけで二十七個アウトを取らないといけない。
その重圧に耐えられなくなるって思ってたんだよ。
……で、今どう思ってるかって?
びっくりするほど嬉しいんだ。
神林がいて、お前がいて、俺がいる。俺らの学年が『やっぱり最強だった』って証明できるわけだからな」
森下は俯いて黙っていた。さっき引っ込めた涙がまた溢れてきた。森下は拳を握って嗚咽を噛み殺した。
「相手がどんな投手だろうと、神林がいたら一点はきっと取れる。
そしたら、お前が打たせた球を俺が全部止めたら……俺らはどこにだって勝てる。
……よく戻ってきてくれた。じゃあ、また明日会おうぜ。戦友」
森下は涙と鼻水で潰れた顔面のまま、自室の扉を開けた。
部屋では……同じ部屋の下級生二人が起きていた。
「……森下先輩……」
すると森下の肩越しに名取が入ってきた。
「便所だ」
名取が言うと、下級生二人はお互いにどうしたものかと顔を見合わせた。
すると、やはり同室の、横になって黙っていたサードの田部井が、
「うるせえなあ。寝ろ一年」
……と、背中を向けたまま吐き捨てた。
森下は、仲間達には何も言わず、この日は深い眠りについたのだった。
結局、この森下の脱走騒動はこれ以上大きくなることはなく、彼はエースの自覚と、マウンドに立つ覚悟をこの夜決めた事になる。
新体制となった松ヶ谷高校は順調に予選を勝ち進み、秋の国大は敗退したものの春夏連覇を達成する。
ショート名取は言の通り、夏のベストフォーではビッグプレーを連発。再三森下を救う守備を見せた。
森下、神林バッテリーも、敵打者をショート方向にゴロを打たせればなんとかなると、マウンド上で思っていたために、シンプルな脳で投球に専念できた。
これが、甲子園ベストフォー完全試合の裏側である。
彼らは『不作の世代』と言う下馬票を覆し、『歴代最強ナイン』の称号を手にしたのであった。