森下伝 一
(森下伝 一)
神林くんが最上級生の学年は、『不作の年』と呼ばれていました。
特に投手の森下くんの存在が薄く、……あくまでも波瑠くんと比べたら……なのですが……
春の甲子園出場も絶望的と言われていました。
私はよく知らないのですが、あんなに強い高校がたくさんあって、毎年技術もデータもアップデートされてきているのに、
ただでさえ時の運に左右されて勝負の行方なんて分かりっこないのに、数回でも負けたらもう甲子園には出られないんです。
高校生になんて過酷なレースをさせるんだ……と思ってしまいますがね。
しかし松ヶ谷は強豪。それも『プロ養成学校』なんて二つ名がつくほどの強豪で、甲子園は出て当たり前と言わんばかりに毎年注目を浴びるんです。
そんな学校で、波瑠くんに変わりエースナンバーを引き継いでしまった森下くんのプレッシャーを考えたら、それは逃げたくもなります。
しかし結果は、春夏連覇で終わってみれば、『史上最強の世代』と呼ばれるようになりました。
実は私が、森下くんの脱走を目撃してしまったあの日……。
周りでは色々なことがあったのです。
* * * * *
天布山、松ヶ谷高校学生寮。二階食堂。午後二十二時三十分。
野球部監督、権藤健一郎が、中央のテーブルに深く座り、自分で入れたお茶を飲んでいる。
学生寮内外問わず、この監督が一人でいるところは非常に珍しいことである。
お茶の湯気の前で腕を組み、微動だにせずじっとしている。
ガラガラガラと、そこに一人の生徒が入ってくる。
「お、監督のおっちゃんや」
二年生の神林である。
権藤監督に対し「おっちゃん」なんて呼べる人間は彼以外いないはずだ。
実際に何度も矯正を受けた。
監督に対しての態度を改めるよう、コーチから、スタッフから、上級生から怒られ続けてきた。
それを直す気も無いエセ関西弁と共に、彼が権藤に対して『監督』と呼んだことはついに一度もなかった。
権藤は神林が入ってきて、険しい顔がさらに険しくなる。
「なぜ起きている。さっさと寝ろばーたれ」
「おっちゃんだって起きとるやんへへへ」
神林は権藤の前に座る。
彼は、他の誰もが恐れて寄り付かない権藤に懐いていた。
特に食堂で飯を食うときは。
権藤も権藤で神林の事を信頼していた。
「珍しいやん? どないした一人で。話聞こか?」
権藤には、自分の立場がある。弱みを決して見せてはならない。
だから意図して一人になることを避けていた。
人は一人になった時、弱さが出やすい。
なんなら権藤は、この時間にここにいれば神林あたりが来てくれることを、どこかで期待していたのかもしれない。
「もうすぐ秋の初戦だ」
「せやな。なんや、緊張しとるんか?」
「ばーたれ。……こんな夜はな、何かが起きるもんなんだ」
「…… ……プ!! ハハハハハ!! なんやおっちゃんおもろいな!! いつもその顔で練習しいや! 場が和むわ」
「……真剣に聞け。神林。
…… ……森下をどう思う?」
「あっちゃん? (森下) ええやつやで」
「そうではない。……波瑠と比べてどうだという話をしているんだ」
「…… ……秋の初戦でわしらのバッテリーが一回から守るんは、初陣やからな。それで心配しとるんか?」
「……」
「わしより、おっちゃんの方がよくわかっちょるんやないか? あっちゃんの事」
「……お前は波瑠の球を一年以上受けてきた。だから聞いてるんだ」
「なるほどな? まあそうやな。……完封は諦めた方がええな。
まずスタミナがない。球も遅いし手数も少ない。
ええやつすぎて打者のインコースが甘なる」
「……それで?」
「なんや?」
「それで、どうなんだ。先発を変えるべきか」
「……それが本題やな? らしくないで。決意が揺らいどるんか?」
「この季節になるといつも決意は揺らぐ。三年の片岡からレギュラー剥奪してお前にマスクを被らせた時とかな」
「そらそうやろ。当然や」
「それで、どうなんだ。秋と、春、そして夏。森下で行けるか?」
「……その様子やと、大分スタッフの方に言われたんやな。あっちゃんについて。それでおっちゃんは迷っとるんや。そうじゃろ?
ええで。じゃあ現場の声を聞かせたるけん。
……確かに波瑠くんと比べたらあっちゃんは劣っとるかもしれん。数字の上ではの。
しかし一緒に勝負するんやったら……ワシはあっちゃん……森下以外の球は受けとうない。同じ学年に波瑠くんがおってもな」
「……」
「数字とか理屈ちゃうんよ。例えばボールスピード。例えば四死球の少なさ。例えば勝負球の多さ。スタッフはそこを信じる職業や。
せやからわしらとは意見が食い違うんやろな。
でも一回あいつとキャッチボールしてみ? いろんな事がわかるで。あいつと波瑠くんと、投げ合ったらどっちが勝つか?
……案外ええ勝負かもしれんぞ。
森下という投手の良さについて、根拠を求められてもワシにはわからん。でも世の中根拠がないことばかりやんか。
二人の球を受けたワシが言っとる。それが根拠じゃ」
「……わかった」
権藤監督は席をたつ。窓の方をじっと見ている。
「おっちゃんどこにいくつもりや?」
「外だ。さっきも言ったろ。『こんな夜は何かが起きる』っ……てな」
「は!? 外!? なして!?」
「…… ……野暮用だよ。杞憂に終わってくれたらいいがね」