『内藤メモ』のこと
神林くんは、当時は誰に対しても態度の変わらないやんちゃな子でした。
我々スタッフの末端と接する時間は短かったと思いますが、距離の遠い私たちでさえ神林くんのことを「ケン」と呼んでました。
関西弁のような、でもどこの訛りともつかない不思議な言葉を喋る子でした。
当時はそうだったんですよ。今みたいに清廉潔白な標準語でインタビューに答える姿は、私が見たら思わず笑ってしまうような姿です。
私が出会った時には、ケンは高校二年生。そしてもうすぐ三年生になろうとしていました。
高校野球のことなんて知らない私でも「すごい」と思ったのは、彼は入学した瞬間にレギュラー入りが決まっていたそうなのです。
これはなかなかすごいことだな。と当時から思っていましたよ。それってつまり、三年生を差し置いてレギュラーになるという意味でしたから。
高校生の成長度ってすごいんです。体つきがはっきり、違います。
ましてこんな、『真面目な運動部』ともなると肉体の違いは顕著に現れます。高さも厚みも、ひと回りは変わる。
「この子は何学年か」なんて見れば当てられるくらいですよ? ケンだって入部して天布山に来た時は小さかったって聞きます。
それこそ、サルと人間ほどの差……なんていうと失礼なのかもしれませんが、そのくらいの差は『目に見える』のです。
何が言いたいかというと、三年生が重ねてきた努力や肉体を、軽く凌駕するような才能を彼は持っていたのだと思います。
松ヶ谷高校野球部は、我々が生徒たちの身の回りをおある程度はするので、昔の強豪校のような感じとは少し違うのだと思いますが、
それでも学年の上下関係は激しい部です。運動部然として。
先輩たちの下着ユニフォームの洗濯と、その洗濯物を干したり、取り込んだり、畳むのは一年生の仕事です。我々はむしろ、よほどのことがない限り触らせてももらえないのです。
ですが、ケンが他の一年生と一緒に、洗濯物を干したり取り込んだりしている姿を全く想像できないのです。
そのくらい、オーラとでもいうのでしょうか? 親しみやすさと近寄りがたさ……矛盾する二つを兼ね備えてる子でした。
野鳥が好きで妙に詳しく、「ヒッ、ヒッ」という『ルリビタキ』という鳥の鳴き声が得意でよく披露してました。
* * * * *
ケンの話は、セットで思い出す出来事がいくつかあって。
そのうちの一つは私の同僚、内藤さんの事です。
彼は、私より十は年下でまだ若い青年でした。しかし天布山の用務員歴十年に達するベテラン用務員でした。
そんな彼が私にいうんです。
「やっぱり変だ。こやさん」
……今思えば、閉鎖された空間で住み込みで働くわけです。特に我々用務員スタッフ陣はいわゆる『卒業』が、生徒たちと同じ三年ではありませんから。
何年も山にいないといけないわけです。小屋付きの感覚も同じようなものですから私はすっかり慣れたのですが、
ここで頭が少し……おかしくなっちゃう同僚は少なからずいましたね。内藤さんもその一人でした。
彼に、何が変なのか聞くと周りの目を気にしてこっそり……
「歴史が繰り返してる」
なんて言うんです。
当然、こちらからしてみれば主語がないので話の要領を得ません。
内藤さんは私に、手書きのメモを渡してきました。
そこにはこう、書いてあったんです。
「一年目:コーヒーピッチャー(球種がまっすぐ、スライダー、フォーク、カーブ)
二年目:信仰系ピッチャー(フォームが決まってサイドスロー)
三年目:自然系キャッチャー、
四年目:???」
このメモの意味は、一度見たり聞いただけじゃあわからないと思いますので、これから小出しにします。
奇妙なのは四年目が終わったら、一年目に戻ってまた、コーヒーが好きなピッチャーが必ず入学してくると、言いたいのだそうです。
……私が、なぜ他人の意味不明なメモを、一回読んだだけで一言一句記憶できたか?
それは今にして思えば、内藤さんの言っていたことが少なからず分かるからです。
内藤さんが言うにはこの四年周期を永遠繰り返していて、今年はメモでいうところの『四年目』だと言うのです。
十年もいる彼のことです。同じ生徒が何人も、顔と名前を変えて何度も入学してくる……という妄想である、と認識してました。当時は。
しかし……
「捕手なんて野球の心臓部みたいなところなのに、四年に一度一人も獲らない年があるなんて絶対おかしい。
そして、それは絶対『三年目のキャッチャー』が入ってくる前の年なんだよ。それはなぜか?
『再来年、神林という天才キャッチャーが入学してくるから、今年は(キャッチャーが)いらないね』って言ってるようなものなんだよ!
逆なら分かるよ!? これじゃあまるで、ケンが入学するのを数年前からわかっていたみたいだ」
と、真剣な顔をしていうんです。初めて聞いた時は彼が、何が言いたいのか正直わかりませんでしたが今なら何となく……分かる気はします。
他にも、朝四時に監督が山にきて、『応接室』に入っていくのは何かを隠しているからだ。
「リーダーの北澤さんが何かを隠している」とも言ってましたね。
内藤さんの様子がおかしいので、一度北澤さんに相談したことがあります。
北澤さんは「こんな山に十年もいればおかしくもなる」と言うので、私もはぐらかされた気分になりましたね。
しかし朝三時起床後の、応接室から聞こえてくる物音に、私が敏感になり出したのもこの頃からでした。