中村圭介伝 二
【中村圭介伝 二】
「ゲーム!!」
その声がグランドに響いた瞬間。
中村圭介は地面に突っ伏していた。
口の中に、湿った土の味が広がる。
右手の指先は擦り切れてヒリつき、胸は強く打ちつけたせいで鈍い痛みがある。
一塁ベースの冷たい感触が、かろうじて右手に残っている。
実戦でヘッドスライディングなんて、初めてだった。
ベースに触れるまでは、痛みも恐怖もなかったのに、審判の声が響いた途端、全身が一気に重くなる。
まさか自分が最後のバッターになるとは思っていなかった。
打席の記憶が曖昧で、何を考えていたのかもよく覚えていない。
ただ、確かに焦っていた。
――なんとか次に繋げないと。
――繋げないと、三年生の夏がここで終わってしまう。
相手投手のカットボールを、咄嗟にショート方向へ弾き返した。
どうせゴロになる。だが、せめてひっぱり方向に打ててよかった。
ショート正面じゃなくてよかった――肩と足の勝負になるなら、まだ走れる。
二十七メートル。
いつもはあっという間に駆け抜ける距離が、信じられないほど遠く長く感じた。
頭が真っ白になって、ただ足だけが動く。考える余裕などなかった。
「ゲーム」の声がもう一度響いた時、ようやく頭が冷えていく。
そして、遅れて胸の痛みや、右手のヒリつきが押し寄せた。
――今の走塁はどうだった?
三年のためなら、ここで骨が折れても構わない、という気持ちで走れていただろうか?
それとも、どこかで思ってはいなかったか――「俺にはまだ一年ある」と。
先輩たちと、素直に顔を合わせられるだろうか?
ヘッドスライディングに対して、
「バカ野郎、怪我したらどうするつもりだ!」と監督が怒鳴ってくれるだろうか?
今までやってきたことの全て、今日の結果の全てが、胸の奥でざわざわと渦を巻いている。
いつか今日を思い出す時、胸が苦しくならずに済むのだろうか?
それとも、この瞬間がずっと棘のように残り続けるのか。
耳に届く歓声は、全て相手チームのものだった。
「松ヶ谷を倒した。まだ夏が続く」
歓声がそう告げているように聞こえた。
圭介は、うつ伏せたまま起き上がれなかった。
やがて背中に手が添えられ、体が起こされる。
肩も貸された。――山下先輩だった。
先輩は、何も言わなかった。
その沈黙が、余計に胸を締めつける。
「何か言ってくれ」と強く念じていた。――怒鳴るでも、慰めるでも、なんでもいい。
声をかけてくれさえすれば、少しは楽になれたかもしれないのに。
嗚咽がこみあげた。
それが自分のものだと気づいた時、余計に止まらなくなった。
先輩は泣いていないのに、自分だけが泣いている。
土で汚れた顔を伝う涙が、次から次へと溢れる。
太陽が眩しく、視界は霞み、耳には相手チームの歓声。
チームメイトの顔は怖くて見られなかった。
山下先輩は、それでも何も言わなかった。
ただ、肩を貸したまま歩き続けた。
三年生の夏が、終わった。
三年生は、誰一人、泣いてなかったと思う。




