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服部・中村伝 三


【服部・中村伝 三】



 忘れたくても、目を閉じれば『あの』景色が浮かんでしまう。

 そして、自分はこの世にいてはいけない人間なんだ。という気持ちになってしまう。

 野沢悠一。

 四河路商業高校野球部の、希望の星になるはずだった男。



 あの日。あの時。

 独りぼっちのマウンド。

 心が壊れたグランドの中。

 

 世間があの事件を完全に忘れるまでの数日間、野沢は日本中の『敵』になった。


 人の心は、深い。

 深くまで沈んだ景色は、いつまで経っても掬い上げることなどできず、何度も何度も再生される。

 心に効くロキソニンなど、ありはしないのだ。


 

 あれ以来、ボールを握っていない。

 眠れず食えずトイレにも行けずといった、悲惨な状態が続き、みるみる痩せていった。

 人と目があっただけで傷つけられるのではないかという妄想にやられて涙が止まらなくなった。


 毎朝毎晩、野球漬けだった日常が、

一週間に一度、心療内科で診察を受ける日常に上書きされたのであった。


 彼は悩みに悩んだ末に、ついに世間に『あの日の真相』を公表した。

 自分の墓場まで持って行こうとした記憶だ。


 そうして……四河路商業高校野球部監督に話の焦点は移りはしたが、本人は知らぬ、存ぜぬの繰り返しで、

あまつさえ「彼(野沢)は、精神的に脆い部分があった」などと言う始末だった。

 服部や、松ヶ谷高校に対しては、「(試合に)勝てたから、いいじゃないですか」などと吐き捨てた。




 そうして寺堂監督は高校野球の世界から姿を消した。

 高野連も、寺堂監督に責任の所在を追求しなかった。

 強者と悪人と年寄りに優しい世界というのは、どこにいったってそうなのかもしれない。




 * * * * *




 服部が入院している松ヶ谷大学病院。その入口。

 中村と山下はすれ違った。

 山下は今出てきたところ。中村はこれからである。


「おう」


 と、お互い挨拶をする。


「どうだった?」


 中村は聞いた。服部の様子のことである。


「ああ、別にいつもの服部だったよ。ベットの上でヘラヘラしながらリンゴ食ってた」

 

「そうか」


 山下とは、それ以上の会話はなく、「じゃ」と言って別れた。

 それでも少しは心が落ち着いた。なんというか、救われた気がした。



 * * * * *



 なのに病室は、山下から聞いていた印象とはかけ離れていた。

 服部の顔の半分は包帯で隠れ、彼は無気力に、ベッドに座っていた。

 

 部屋中の生気というのか……空気が枯れ果て、部屋の中にある全ての物体が無機物に見えた。


 入ってきた中村に気がつくと、幾分か服部の表情は柔らかくはなったように感じる。

 中村は、言葉を失いかけたがかろうじて……

 

「よう」


 の二文字を絞り出した。


「おう」


 と、服部から返ってくる。


 勝ったぜ。とか、大丈夫か? とか、色々あったと思うが、中村はどれも言えないで呑み込んでしまった。

 何を言っても、服部を傷つけてしまいそうで。

 沈黙が部屋を支配する前に、服部の方から口を開いた。


「医者のさ……顔が、スゲー熊みてえなんだよ」


「……はあ?」


「髭とかこう……すごくて。多分胸毛もすげえんだと思う。体毛の毛量が人間じゃねえって思って……」


 服部は、だんだん笑ってきた。中村も釣られて表情が緩む。


「どういう男性ホルモンなんだろうなあれは。ああいう人のチン毛とかもすごそうだよな。

 銭湯で一緒になったら俺、三度見くらいしちゃうかもしんない」


「くだらねえ」


 そう言いながらも、二人の投手の顔からは笑顔が現れ出した。


「本当なんだよ。喋り方もさ、なんか、口が開ききらねえから何喋ってんのかわかんねえの。

 多分、髭が邪魔で口が動かせないんだと思う」


「んなわけねえだろ」


「いやいやそうなんだってマジで。マジで何言ってんのかわかんなくて……

 わかんねえけど……

 俺の左目はもう、ダメらしい」


「え」


 鳥が、首を絞められたような声が出たと思う。

 どん詰まりの「え」だった。


「な。何言ってるかわかんねえだろ。

 ……わかんねえよな」


「……本当なのか?」


「…… ……」


 服部の顔が曇っていく。


「完全に視力が戻ることはないんだと。片目で八木橋のサイン、見えるかな。

 ……あいつのミットがどこ構えてるか見えるかな。十八メートル離れたとこから」


 中村は、何も言えなくなった。


「……もういいか。これからの事なんか。

 だからさ、今までの話をしないか?」


「なんだよ」


「俺さ……」


 服部は、中村にしっかりと顔を合わせた。


「ずっと怖かったんだよ。お前が」


「……なんでだよ」


「俺中学生の時、ずっと幸せだったんだよ。『俺が松ヶ谷に通う頃には、もう波瑠先輩みたいなのはいない』って。

 だからエースになれるって。……でも、お前みたいなのが同世代にいるんだもんなあ。

 俺よりタッパあって、体重もあって、体力もあって、足も早くて……俺にないもん全部持ってて……しかもそんなやつが八木橋の友達で……」


 中村は、思わず自分の耳を疑った。

 何があってもブレない服部が、自分のことをそんなふうに思っていたなんて知らなかった。


「そんなのと勝負しなきゃならない俺の身にもなってみろよ! 『努力してます!』ってアピールしたって結果残せなかったらダサいだけだし、

 手に血豆作って、それ潰してまた作って、痛え痛えっつってもボール握り続けて、

 増えねえ体重と、伸びねえ球速球威。お前が八木橋とキャッチボールする時の音がいつも怖かったんだよ。

 でも……それで俺は生まれたよ。今の俺が」


「服部……」


「お前に勝ったんだもん。誰がどう考えたってお前が着ると思ってた1番、先に背負っちゃったもん。俺の甲子園は勝ったようなもんだよ。

 ……もう誰にも負けるきしねえもんな」


 窓から刺す西日でよく服部の顔がみれない。でも、確かに右目から何かが一直線に溢れていた。


「中村…… ……ありがと」


 気がつけば中村も泣いていた。同学年の男子の前で泣くなんて、それまでの中村には無いことだった。


「中村。俺にエース奪われたとき、悔しかったかよ」


「悔しかったよ!! …… すげー悔しいのに寮だし山ん中だし後輩とかにも見られるから泣けねえしよ! お前みたいなフォークボール覚えようとしたら、

 俺の中指が太すぎて軟骨痛めるし! カーブは狙ったとこに投げられねえから八木橋にも笑われるし! 

 仮にコントロールできたとして、フルカウントでカーブなんて投げる勇気俺にはねえし! 俺だってずっとお前が怖かったんだよ! 同じ年に生まれてきやがって! 

 ……でも他のことならお前に負けねえもん」


「なんだよ他のことならって。お前勉強もできねえだろ」


「……野球と勉強以外ならお前に勝てる」


「例えばなんだよ」


「…… …… ……早食いとか」


「はあ!? …… ……なんだそれ」


 服部にしても、中村の胸の内なんて聞いたのは初めてのことだったろう。



 中村と服部は馬鹿みたいに泣いた。馬鹿みたいに笑いながら。

 外では、陽が傾きかけていた。




 服部・中村世代は、春の甲子園に出場するも一回戦で平林実業に敗退。

 夏は地区大会で姿を消した。


 足りないもの同士、お互い補い合いつつも、常に競い合っていた。

 二人で、一つのエースだった。と、この世代を知るものは答える。

 服部のこの事故がなかったら、この年の松ヶ谷の戦績はどうなっていたか。

 議論は数年後も繰り返されることになる。


 こうして服部と中村は、記録ではなく記憶に残るエースとなった。


しかし彼らの活躍を知った一人の少年が、『彼ら』の投球を参考にして後にとんでもない投手となるのだが、それはまた別の物語である。



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