入寮
名前も知らなかったような場所なのに、「懐かしいな」って。そう、思ったんです。
私が、天布山にはじめて来たのは、秋の終わりに差し掛かっていた頃でした。
子供の頃からずっと、この県で暮らしていたものですから、この年齢で県内に再就職先が見つかってラッキーだった。と思っていました。
いかんせん、前職を辞めることが決まった時には、四十をとっくに過ぎていたものでしたので……。
それまで私は、舞台スタッフとして働いてまして、地元のホールで照明と音響をやっておりました。いわゆる、『小屋付きさん』というやつですね。
私の本名が古谷なので、『谷』の字を音読みして「こやさん」なんて仲間内には呼ばれてました。覚えやすいので。
しかし「こやさん」なんて呼ぶ人は、実際にはそんなに多くなかったと思いますよ。
元々私は、こういう顔つきなので、怒っていないのに「怒ってますか?」と、たびたび聞かれることがあります。
この仕事をやる上では、私が若い頃はこの顔が役に立ちました。何せ、若かろうが青かろうが「ナメられちゃいけない」時代だったものですから。
年上も年下も、何をするにもまずは私に気を遣って声をかけてくれたので、それでずいぶん助かったことが多かったと思います。
特に私の場合は真顔が怖いらしく、私と話をして、「ちゃんと笑う人だったんですね」と言われることが多々ありました。
私は二十代の頃から若白髪が生えてましたので、四十過ぎともなるとほぼ、総白髪になっておりました。
これが、威圧感に輪をかけたようでして、まあ後……年をとって自分でも気難しくなったのもあると、若干自覚はありますがね。
古い仲間ならまだしも、新しく入ってくる人がこの顔を怖がっちゃって。それで誰も話しかけてくれなくなっちゃったんですね。
時代でしょうね。
私がいるだけでホールを誰も利用してくれなくなるというので、申し訳なさもあって自主退社したんです。
ほとんどこれだけでしか食ってこなかったこともありまして、なかなか次の職が決まりませんでした。まあ、当然ですよね。
それで、むすっとした顔で職業安定所からの帰り道を、歩いている時のことでした。
見ず知らずの中年男性に声をかけられたのです。
これが『権藤監督』との初めての出会いでした。
監督は当時からすでに、自分の周りに取り巻きの方……といっては失礼なのでしょうか? スタッフたちを沢山連れて出かけていたんだと思います。
その時のスタッフさんの一人の話では、当時私は、少し離れた場所を歩いていたのだと言います。それを……
監督が私を見つけた瞬間、「彼がいい」といって、突然、私の側まで歩いてきたのです。
「君、いい顔をしてるな。手伝ってほしい仕事があるんだが今暇してるか?」
……この言葉を、一言一句、忘れたことはありません。
さすがそういう職業の方なのでしょうな。言葉に質量があるというか……そう、
質量なんです。温度ではなく質量。だから、言葉が『当たる』んです。私に。
もちろん困っていたので、ちょうど今就活中でしたと私が言った瞬間に、即雇用が決まりました。
監督の後にいた、監督よりも年上っぽい方が「突然の事なので略式で申し訳ありませんが……」と言ってその場で、鞄から契約書が出てきました。
突然の事と、こんな状況でしたので私も、ちょっとあっぷあっぷしてしまいまして。この契約書の内容をあまり覚えていなかったのです。
普通なら危険な事ですよね。そんな怪しい誘いに乗るのかと。
それで紹介されたのが、はい。今の仕事です。
『警備関係の、住み込みの仕事』というのが契約書の要約でした。
「要は用務員さんみたいなのを想像してくれたらいい」と、契約書をくれた方が答えてくれました。
給料は、良くも悪くもありませんでしたし、住み込みと考えると良い方なのかな?
山の中の、学校の施設。そこの用務員をしてほしいという事でした。住み込みというところがネックでしたが、私も独り身で、とにかく今困っているので背に腹は変えられませんでした。
それで、天布山にきたんです。
契約書を見たところ、県内の高校の施設なのかな? というところまではわかったのですが、行ってみてびっくりしました。
野生動物と毎日会えそうな山の中に、あんなに広くて立派な……施設があるんですから。
施設は、グランドと学生寮が一緒になった場所で、県立松ヶ谷高校の野球部が三年間生活する寮だと、この時知りました。
生徒たちは、朝から晩までこのグランドで練習をし、山の麓にある学校に通学バスで通う……という生活をしていました。
私は野球のことは全くと言って良いほど知りませんでした。まして高校野球はかすりもしなかった道でした。
どちらかというと球技は苦手だったので。
だので私は、松ヶ谷高校野球部が、毎年最低一人はプロが出て、『プロ野球選手育成校』なんて呼ばれる名門中の名門校だと知ったのは、ここで生活をしてしばらく経った後のことだったんです。