お金目当てで契約婚!……したらこんなはずじゃなかった件
三日月の夜。
「――おやすみ、私の可愛い宝石」
透き通るような美貌の魔術師に手を取られてその甲にキスをされる一瞬。アリシアは今までの全てを後悔した。後悔というか、振り返ってみて、本当にこの選択は正解だったのだろうかと疑った。なぜって、頬が熱いから。体が熱いから。目の前のひとと目が遇わせられないから。
「おやすみなさい、レイナード……」
これなら、傭兵として働いていた頃の方がずっと気楽で、こんな感情なんか知らないで、楽しいだけで生きていけたのに――。
■ ■ ■
その日。傭兵ギルドの集会所に顔を出すなり、受付嬢に呼ばれた。
「アリシア・デボラ。レイナード・ヴァルティス卿から直々ご指名の依頼があります。受けますか?」
「――受けるよ。詳細を寄越して」
アリシアは言い切ってから、傭兵ギルドの受付嬢の手から羊皮紙を受け取り、しげしげと眺めた。
「領地西部に出没する翼竜の威嚇……威嚇か。殲滅じゃないんだ」
アリシアはギルド嬢へ身を乗り出して訊ねた。
「ね、ところで。移動費はあちらが持ってくれるんだよね? それかギルドの負担でしょ」
その日の食べ物と寝床があれば良い。それがアリシアの生き方だ。だからアリシアは余分なものを持たないし、持つつもりもない。
ヴァルティス卿が治める辺境の土地へ行くための路銀は持ち合わせていない。しかし受付嬢はにっこり笑ってそれ以上何も言わなかった。アリシアはそれを「ギルドから路銀が出るわけないだろ」という無言の主張と受け取った。
「ちっ。わかったよ。着いてから依頼主に請求するから」
「そうしてください。よろしくお願いします」
アリシアは唇をとがらせ、羊皮紙をポケットの奥に押し込む。
アリシア・デボラ、齢は二十一。赤い髪をなびかせて魔物を屠る姿はまさに戦女神。そう呼ばれるようになって久しい。この世界に飛び込んでからこっち、常勝不敗の人生を送ってきた。
「娘さん、たいそうな代物持ってるけど、どこまで行くんだい」
「ヴァルティス卿の領土の西を目指してるんだ。こう見えて傭兵でね」
農夫はロバの荷車を走らせながら訊ねる。
「傭兵って。その細っこい腕じゃ鍬も握れないだろうに」
アリシアは藁の上に寝転んで空を見た。隣には愛用の大剣が鞘に収まった状態で載っている。
「その剣も軽そうには見えねぇけどなぁ~。大男の脚くらいの大きさがあるじゃないか」
「この剣も慣れれば軽いものだよ」
農夫と別れ、さらに三日かかって、アリシアはヴァルティス卿の治める辺境に足を踏み入れた。
領地と言ってもさほど広くはない。小さな村くらいの大きさだ。遠眼鏡を使うと、森のただ中にそれらしい屋敷がある。貴族の屋敷と呼んで差し支えない、豪奢なつくりだ。
中央の流行からやや遅れているところをみるに、おそらくレイナード・ヴァルティス卿の住む屋敷で間違いない。
アリシアは背中に大剣を背負い直すと、屋敷への道を歩き出した。
金色のドアノックを鳴らすより先に、ドアが開く。
「お待ちしておりました」
「アリシア・デボラ。ギルドの紹介で来た。レイナード・ヴァルティス卿はどちらに」
手短に要件だけ告げると、深々と頭を下げたメイドは「こちらへ」とアリシアを促した。
メイドが案内したそこは、なにかの研究室のようだった。見たこともない器具があちこちに転がっている。濃紫色の長髪を束ねた男が一人椅子に座っていて、ゆるりとこちらを見た。
高い鼻梁、美しい緑の瞳――美丈夫とはこの人のための言葉に違いない。神様が特別愛してくれたみたいな、とんでもなく美しい男がそこに居る。
「来たか。アリシア・デボラ嬢」
「……はじめまして、アリシアです」
嬢、などという柄ではないと思う。思いがけない待遇に、思いがけず慣れない台詞を吐いてしまう。断じて彼が美しかったからではない。と、思う。
「依頼は翼竜の威嚇と聞いています。殲滅でなくてよろしいので?」
「ああ。翼竜の威嚇は本当の目的ではないからね。……ところで、デボラ嬢」
「アリシアと」アリシアは遮った。「デボラとは、母の名なのです。姓ではなく」
「なるほど。ではアリシア嬢。その威嚇の場に、私も居合わせてもよいだろうか?」
アリシアは目を瞬いた。そんな申し出が来るとは思わなかったからだ。
「居合わせて危険が生じても、貴方を守り切れる自信が……」
「私は『常勝不敗のリーシャ』を信用している」
リーシャ。それはアリシアの愛称だ。美しい男の、低くつややかな声でそう言われると、何も言えない。
「……わかりました。その代わり、負傷のさいは自己責任で」
「ありがたい」
ヴァルティス卿は笑んだ。笑うとくしゃりと目尻に皺が寄った。
レイナード・ヴァルティスの視線を背中に背負ったまま、アリシアは抜剣する。
体をひねるようにして大剣をかかげ持つと、ぐっと体勢を低くして、こちらを向いた翼竜の視線を真っ向から受け止める。咆吼が耳を裂き、羽ばたきの風がアリシアの体を打つ。
「殺すわけじゃない」
小さなつぶやきを聞きつけるものはいない。翼竜も背後のヴァルティスさえも。アリシアはすっと大剣をかかげて、こちらへ向かってくる翼竜を迎え撃った。向こうも威嚇のつもりだろう。
『ギャア!』
すれすれに飛んでいく翼竜の足下に剣をたたき込む。翼竜の鋭い爪が欠けた。
『ギャアア!』
長い柄の大剣をするすると頭上で回しながら、アリシアは後退した。
「いつでも殺せる――けど」
『ギャア! ギャアア!』
「今回は見逃してあげる。そういう依頼だから」
足を一歩、踏み込む。ギリギリまで伸ばした腕の先、その剣の先で、翼竜の翼にうすく傷をつける。大げさな流血こそしないが、その線はじわりと赤を広げていく。翼竜はじっとアリシアを見た後、引き返していった。
背後から拍手が響く。
「すばらしい。アリシア」
「……お気に召したなら、よかったですよ」
アリシアは心の底からそう言った。ヴァルティス卿は小首をかしげて「ところで」と言った。
「アリシア・デボラがキミの正式な名前だったね。他に隠している姓名はないだろうね?」
「は、い? ……ありませんけど」
唐突に変化したように思われるヴァルティス卿の口調に疑問を感じる間もなく、ひょろりとした長身が跪いた。
アリシアの足下にしゃがみ込んだ男は、そっとアリシアの手を取り、その瞳を真下からのぞき込む。
「アリシア・デボラ。傭兵をやめて、私と結婚してくれ」
「は?」
開いた口が塞がらないとはこのこと。言葉を失った唇がわなわな震えるのを、レイナード・ヴァルティスは穏やかに見つめている。あの美しい顔で。
「私は本気だ」
困惑そのものの表情を浮かべたアリシアをよそに、レイナードは笑った。それはもう、華やかに。
「キミを私の妻に迎えたい」
アリシアの認識が正しければ、今アリシアは会ったばかりの男に求婚されている。
「な、なぜ……」
「キミが強いからだ。それは今私の前でキミが証明してくれた」
「いえ、あの、なぜ私なので……?」
「強いからだ」
「突然すぎてちょっとよく分かっていないのですが――」
「承知している。だが、キミがいい」
握られた手をそっと引こうとするも、レイナードの手は頑として動かない。結果的に握られてレイナードの手中にある利き手を脱力させて、アリシアは唸った。
急に話が通じなくなったぞ。
「身分差の事なら問題ない。私はそんな些末な事は気にしない。それとも年齢差が気になるか。貴族の間じゃこれくらいふつうだ」
「……卿は、おいくつなんですか」
「今年、三十になる」
つまり、アリシアよりそこそこ歳上ということだ。
「……年齢差や身分差があるってわかっていて私を選ぶんですか? しかも傭兵ですよ? 貴方って相当な変わり者ですね」
「よく言われる」
嫌みも通じないと来た。
とびきり美しい面立ちの求婚者は、小さいとはいえ領地を持ち、領民を持ち、大きな屋敷と財を持つ男なのだ。そんな男に求愛されている。
アリシアはくらくらした。
「あの、正直なところを言うと、私、まだ『そういう』こと、といいますか、恋愛のことまるで考えてなくて、その……」
「なお好都合だ。私がほしいのは私の隣に立ってくれる強い存在であって伴侶ではない」
「はい?」
アリシアはまたも絶句した。
「そうだな、契約妻とでも言おうか」
嬉々としてレイナードは続ける。
「物騒な来客や弟が持ち込む縁談や、政略結婚の類いが煩わしくてね。ちょうどいい契約妻候補をずっと探していた。腕さえ立つなら男でもよいかと思っていたところだ。だがキミは――」
「あの、ちょっと、話が見えないのですが」
アリシアが口を挟むと、レイナードは瞬きを一つし、よどみなく答えた。
「条件さえ呑んでくれれば、キミに毎月報酬を支払おう。食事と居所を提供しよう。服もちゃんとしたものを着てくれさえすれば自由だ。その上で私の妻を装ってくれれば良い。夫婦の営みは強制しない。どうだ。キミにとってもいい『ビジネス』じゃないか?」
「――……なるほど」
要するに、言葉の通りだ。契約を交わして妻になる。
アリシアは頭の中で算盤をはじきまくっていた。傭兵稼業も嫌いじゃないが、別に好き好んで傭兵をやっているわけでもない。衣食住が保証されている上で報酬も発生するというのなら、今の傭兵稼業よりずっとずっと楽に稼げる。
なんていったって、暮らしているだけで金銭が入ってくるのだ。今に比べてどんなに楽だろうか。アリシアの目はすでに見えない金貨を数え始めていた。
人生に必要なのは何よりも金だ。金。
「――そうですね」
そこからは即決だった。
「わかりました。契約妻の話、お受けいたします。私で宜しければ」
三日後に後悔しているとは知らずに。
三日後。
あああああああああ。
声にならない絶叫を頭の中で響かせて、アリシアはまとったワンピースのスカート部分をつかむ。
レイナードはアリシアにありったけの財をつぎ込んで普段着やら夜着やら訪問着やらを見繕わせたらしいが、まず、そのどれもが女性的すぎる。足下まで覆っているひらひらした布は、歩くたびに脚にまといつく。趣味じゃないとか以前に動きづらくて、シンプルにストレスが溜まる。
次に、新たな居所になる屋敷に住むにあたって、アリシア専門のメイドが従くことになった――このメイドが、気が利きすぎて気に食わない。
寝起きに夜着を着るのも、寝る前に夜着に着替えるのも、影のように忍び寄ってきた彼女が勝手にやってしまう。唯一嫁入りに持ってきた大剣の手入れさえ、彼女がやってしまうのだ。
これではアリシアがすることなんか無い。
「自分で着替えるという選択肢はないんですか」
「はい、お着替えで奥様の手をわずらわせるなんてそんな滅相もない」
「大剣の手入れくらいさせてほしいんですけど」
「旦那様から、奥様の手をわずらわせぬようにと仰せつかっておりまして」
「じゃあ私はなにをすれば……」
「奥様のお仕事を」
さらに、それなりの格好をするのならばそれなりの振る舞いをしてもらわなければならないと、三日前からアリシアには教育係が付けられることになり――。
絶賛、アリシアは教育係から逃亡しているところである。
「奥様! アリシア奥様!」
もういい、こりごりだ、逃げよう。早々の契約違反になるけどこれは耐えられない。なかったことにしよう。
「奥様。奥様。そこにいらっしゃるのは分かっているんですよ! 大人しくレッスンの続きを――」
教育係の高い声が廊下の向こうから聞こえてくる。アリシアはそっと後ろ手に窓を開けた。
物心ついたときから傭兵ギルドでそれなりの「礼儀」を仕込まれてきたけれど、社交界のそれと傭兵のそれとでは全くの別物らしいことがこの三日で分かった。
言葉遣いから所作に至るまで全てを矯正される前に逃げなければならない、アリシアはそう判断した。
窓の外には巨木。この木に乗り移って地面に下りる。そこから庭園を走り抜けて門をくぐって適当な荷馬車を捕まえて王都に帰ろう。傭兵に戻ろう。うまい話なんかない、金は地道に稼ぐに限る!
教育係が部屋の扉を開くのと同時、アリシアは窓の桟からひらりと巨木の枝に乗り移った。もちろん愛用の大剣も忘れない。
似合うかどうかさえ定かでない、桃色のワンピースは足に張り付いて邪魔だった。太い枝に乗り上げたアリシアはその値段も分からないワンピースの裾をまくり上げて破き、さらに枝を伝って窓から離れようとする。
「アリシア奥様!」
「ごめんなさい! 私、奥様、やめます!」
アリシアは破いたワンピースの裾を縛って短くすると、大剣を背負い直して枝から枝へと逃げる。太い幹にしがみつき、そのまま地面へ滑り降りようと――。
「奥様! あぶな――」
その時だった。しっかりと幹をつかんでいたはずの指先がつるりと滑った。大剣の重さが災いし、そのまま仰向けに地面へたたきつけられ――!
「おや、おてんばな奧さんだね」
――ない。
暖かな風がアリシアを包み込み、さらに大きな腕がアリシアを包んだ。跪いた美丈夫はアリシアの体を大剣ごと抱きかかえ、穏やかに笑った。
「どうしたんだい、アリシア。どうしてキミは空から降ってきたのかな?」
「あ、あはは、えっと」
「どうしてこのワンピースは破けているのかな?」
「その……」
「私から逃げようと思った?」
レイナードがにこりと笑う。目は笑っていない。
「契約違反だよ、アリシア」
「あははは……はい」
無理だ。教育係からは逃げられても、この人からは逃げられそうにない。
■ ■ ■
この世界には魔術師と、そうでない人間が存在する。レイナード・ヴァルティスは前者に相当し、アリシアは後者にあたる。魔術師の家系として最も名高いのはこの国の王家で、傭兵として生きてきたアリシアの耳に入るほど有名だ。
「レイナード……様は」
「レイナードでいい、アリシア。堅苦しい敬語もなしだ」
「レイナードは、いったい何の研究をしているの?」
レイナードが魔術師なのは、息をするように魔術を使うことから明白だった。さらに、最初に顔を合わせた時に通された研究室のような部屋。あれは「のような」ではなくて研究室そのものだ。
レイナードは魔術の研究をしているらしい。
「魔道具の研究だ。物質に回路を仕込んである条件下で魔術が確実に発動するように開発している」
「うーん、私にはわからないってことがわかった」
「要するに、魔術の使えないものにも手軽に魔術を使えるようにあらゆる道具を改造している」
「魔術の使えないものって、例えば私にも?」
「……そうだ」
少しの間があった。アリシアが首をかしげると、レイナードは咳払いをしてからアリシアを見つめた。
「アリシア。魔術を使ったことはあるかな」
「ないよ! 魔術なんか使えないもの。私はただの人間だし」
「本当に?」
「本当だってば」
レイナードは頬杖を突き、アリシアを疑わしげに見つめた。なぜそんな目を向けられるのか、よく分からない。
「魔術は血筋で決まる。キミの出自は? 話したくないなら別に構わないが」
そんなことはない。
「私? 私は王都の高級娼館にいた、デボラって娼婦の娘。アリシアって名前は王都では結構ありふれてるから、母さんの名前をもらって名乗ってる。デボラの娘アリシア。アリシア・デボラって」
「……なるほど」
「だから、私は魔術なんか――」
「では父親か」
アリシアは目を見開いた。父親。考えたこともなかった。
「おそらく父親が魔術師なんだ。王都の高級娼館だろう? あり得なくはない話だ」
「――レイナードはどうして私に魔術を使っていてほしいわけ? そんなに私を魔術師にしたい?」
「魔術師でないと説明がつかない」
レイナードはアリシアの大剣を指し示した。
「この大剣、使用人に持たせてみた。それなりに力のある成人の男だ。だが、持ち上げる事すら叶わなかった。キミはこれを平然と頭上に掲げることが出来るじゃないか」
「それは私が、とんでもない怪力だから――」
「いや、私の見立てだと、キミは平均的な成人女性だ。特別腕力があるわけではないと思う」
「え、でも」
今の今まで、この大剣を振り回して、バッサバッサと魔物を倒してきたけれど。
「そんなに、重くないと思うんだけど……」
「今ここで持ってごらん」
促されるままに剣をとる。なんてことない、いつもの重さだ。レイナードはじっとアリシアの様子を見守っていた。緑色の瞳がきらりとひかる。
「……やはりな。キミは魔術師だ。極めて優れた素質を持っている」
「え? なんで?」
「誰に教わったわけでもないのに、この応用。……すさまじいな。私はすばらしい女性を妻に迎えたらしい」
「なんのこと?」
きょとんとするアリシアの腕を掴み、「失礼」とその袖をまくり上げる。
つかまれた手首から何か暖かいものが流れるような感覚がしたあと、アリシアの白い腕には、銀色の筋が幾重にも重なって浮き上がってきた。
「なにこれ!?」
「これがキミの魔力回路だ」
レイナードは興奮気味に続ける。
「キミの中には内向きの力が働いていて、剣を握っている間、いや臨戦態勢のあいだといってもいいか、キミに強力な強化魔法をかけ続けているんだ。この回路はかなり使い込まれていて、強靱だ。魔力の色は銀色か」
「何を言ってるのか全然分からない!」
「つまりキミは魔術師だったということだ。この回路はその証だ。キミはキミに強化をかけ続けていたんだよ」
■ ■ ■
アリシアの腕に回路を見た日から、レイナードはことあるごとにアリシアを呼び寄せた。そして決まってこう言った。
「手を繋ごう」
差し伸べられる手が大きい……のはどうでも良いとして。
「……また例の回路とかいうのを見るつもり?」
「それもあるね。そして、我が妻に魔術を会得してほしいという裏の目的もある」
「いらない」
「そう言わずに。ひょっとしたら私を超える魔術師かもしれないんだ。みすみす才能の芽を見逃すわけにはいかないんだよ、研究者としては」
ほら、と差し出される手をしぶしぶ握ると、指先に絡んできた温かな体温が、指の腹をくすぐり、指の股に触れ、お互いの指をたがいちがいに折り重ねるように手を握る。まるで宝物でも手中にあるかのような手つきに、心の隅の方がくすぐったくなる。
「レイナード、妙な触り方はやめて」
「失礼。そんなつもりはなかったんだが」
レイナードはアリシアの手を握り直すと、アリシアの目線まで腰を落した。
「ソファに掛けよう。その方がいい『語らい』ができる」
「……」
気は進まなかったが、この男が一度言い出したらテコでも動かないのはこの数日間でイヤというほど実感しているアリシアだ。素直に二人がけのソファに腰を落ち着ける。
「今からキミの回路に私の魔力を流し込む。キミはこれを押し返してくれ」
「押し返す?」
「きわめて感覚的なものだが」レイナードは視線を宙にさまよわせ、言葉を探しているようだった。
「侵入する私の魔力をキミの魔力で押し返す……という言い方しか出来ないな。浸食率を下げて……じゃ通じないだろう?」
「当たり前です」
アリシアはぎゅっとレイナードの手を握った。
「要するに押し返せばいいの?」
「そうだ」
「……わかった。やってみる」
「いくぞ」
レイナードの長い指がアリシアの手の甲の骨にそっと触れたかと思うと――瞬間、皮膚がびりびりするほど熱いものが指先から流れ込んで、肘のあたりまでを浸食した。
「あっ……つっ!」
「押し返してこい、アリシア」
「く、う……!」
浮き上がったアリシアの回路とやらは淡い紫色に光っている。レイナードの言葉を鵜呑みにするならそれがレイナードの魔力の色なのだ。
逃げようにも逃げられない、手をしっかり握られているからずっとこの感覚から逃れられない。
アリシアは身をよじって腕を浸食してくるレイナードの手から逃れようとするが、気づけばレイナードにがっちりと腰を抱かれていて体を離すこともままならない。
「む、むり、無理、レイナード!」
「このままだと全身を掌握してしまうぞ」
「だから、無理だって……!」
「押し返してこい」
もはや右腕の感覚がない。視界の端を灼く紫の光を、アリシアは荒い息のまま見つめる。自分の体が自分のものではなくなっていく。
アリシアの、がくがく震える手を握ったまま、レイナードはふうと息をついた。
「……今日は、ここまで」
瞬時にアリシアをさいなんでいた熱が止む。アリシアはへなへなと崩れ落ち、レイナードの肩にもたれかかった。
「一時的にでも私の魔力を受け止める事が出来るのだから、キミの回路は相当に強靱だということだ」
貴公子の纏う香水の香りのなかで、アリシアは緩慢に瞬きを繰り返した。
「……本当に、キミを選んでよかったと思っている」
抱きしめられるような格好になって、アリシアは思う。
まるでほんとうに、恋人か夫婦のようだと。
短い赤髪に差し込まれた指が優しいのは、気のせいだろうか、アリシアが、意識を手放す手前まで来ているから、何か夢でも見ているんだろうか……。
レイナードの「手を繋ぐ訓練」は、毎日のように続けられた。
アリシアは必ずくたくたになってレイナードの腕の中で気絶するのだが、毎度のことながら「押し返す」という感覚が分からないままだった。
侵入してくるレイナードの魔力に全部許してしまうのだ。このまま行けば全身レイナードの魔力に浸されてしまう。
「ぜんっぜん上手くいかない……」
ぽつりと教育係の前でそんなことを漏らしてしまう。教育係はぱちぱちと目をしばたたかせ、考え込むように腕を組んだ。
「夫婦の夜の営みのことについては私も口を出す立場にございませんので……」
「違う! 営んでないから!」
アリシアは頑として言い張った。
「レイナードの魔術バカが毎日やってくる訓練とやらが上手くいかないだけ!」
「ああ、あの方の魔術バカは国家のお墨付きですので……」
今度はアリシアが目を瞬く番だった。
「国家?」
「ご存じないのですか? レイナード様は前国王のご長男であらせられます。今上王の異母兄にして……」
「今上王の異母兄!? そんなこと聞いてないよ!!!」
ということは、なんだ。
アリシアは国王の兄の嫁になってしまったのか。契約書一枚で。
一気にスケールが違う話になってきた。
「魔術以外のことは特に気に掛けていらっしゃらない方なので……申し訳ありません、我が主に代わってお詫びします」
「あ、あああ、あの、今からでも結婚はなかったことに――」
「なるとお思いですか? あの一度決めたら二度と曲げない御方が、それを認めるとでも?」
「……思いません」
頭に乗せるための本を掲げて、アリシアはため息をついた。
貯金はもうそこそこの額貯まっていたけれど、使うあてがなかった。
使わない金ほど不要なものはない。
「でも、ちょっと後悔してる、かも……」
■ ■ ■
「後悔している?」
いつもの通り貝殻のように握り合わされたふたりの手。のぞき込んでくる緑の瞳。
「最初に教えてくれれば、求婚されたときにもうちょっと考えたと思っただけ」
「言ったらキミは断ったろう」
「そうですけど」
レイナードは美しい顔で笑う。よく見ると王都の肖像画にある、今上王によく似ていた。なぜ気づかなかったんだろうというくらい、似ていた。
「……それで、王太子殿下は、なぜこんな辺鄙な土地で領主をしていらっしゃるので?」
「堅苦しい敬語は無しだといったろう、アリシア」
握りあっていない方の手で、レイナードはアリシアの髪を耳に掛ける。
「単に王都が息苦しくて。それ以上に理由がいるかい」
「その理由一つで、この領地ひとつ治めようという気になるのがすごいというか」
「いったろう。物騒な来客や弟が持ち込む縁談や、政略結婚の類いが煩わしくてね。国王陛下に至ってはここまで辺境に離れたと言うのに、毎月良い年頃のお嬢さんとの縁談を送りつけてくる。いつまで経っても兄離れの出来ない弟だ」
「だから私を見繕ったと」
「そうだ。もう妻ができたからと断る口実が出来た」
「国王の兄ともあろうかたがわざわざ娶ったのが傭兵の小娘だなんて、国民が知ったら泣きますよ」
「泣くものか。私の妻は稀代の魔術師になる。これからね」
レイナードは言うなり、魔力を流し込んできた。
前触れもなくやられたのはこれが初めてだ。すっかり脱力していたアリシアは一気に肩まで持って行かれて、慌てて意識を集中させる。
「いきなりなんて、ずるい……!」
「魔術師たるもの、いついかなる時も備えておかなければ。……もっと強く行くぞ」
「……っ」
腕を伝う魔力の流れが強くなる。アリシアはぐっとこらえるようにレイナードの手の甲に爪を立てた。
押し返す。押し返す。
心で念じる。何度も念じる。体の細部を巡る回路を意識する。
頭を使うんじゃない。体を使うんだ。いままでそうやってやってきたじゃないか。大剣を握るように。気に食わない相手の胸ぐらをつかむ時みたいに。
「っ」
レイナードの手が軋んだ。アリシアの握力が増したためだ。だが美丈夫は顔をすこしゆがめただけで何も言わない。ただアリシアの銀色の瞳を見つめている。
「……出来るじゃないか」
肩まで流れていた魔力は肘のあたりで拮抗している。そしてやがて、手首のあたりまでアリシアの銀色が塗り替えた。
「はーっ、はーっ……」
肩で荒い息をしているアリシアをそっと抱き寄せて、低い声が囁く。
「上出来だ。私の宝石」
「!??!?!?!?」
王兄殿下の唇からこぼれた台詞に、アリシアは目を見開いた。
「!?!?!!!?!?!?」
「どうした?」
「た、たらし……?」
「愛らしい妻をたらして何が悪い?」
レイナードは穏やかに笑った。目元にくしゃりと皺が寄った。
「キミは私の妻だぞ」
その日以来、アリシアの周囲は変わり始めた。
派手な音を立てて割れる窓ガラス。吹き飛ぶドアノブ。破けるスカート。
レイナードの言うところの魔術が、アリシアの中で開花したのである。しかし、アリシアは制御の方法を知らないので――。
「ち、近づかないで! 今どうにもならないから!」
脱ごうとして派手に魔術で引き裂いた夜着をかき合わせ、近寄ろうとするメイドを振り払う。
「収まるまで待って! またけがしちゃう!」
今まで手足の中でうまいこと扱ってきた魔術が指先から無作為に放たれるようになってしまい、アリシアは三日であらゆるものを破壊した。壺、食器、壁、ドア、寝台――本当にあらゆるものを壊した。
レイナードは「魔術を覚えたての魔術師の子どもはそんなものだ」とからから笑っていたけれど、笑って済むものではない。
窓が吹っ飛んだときなどはメイドにけがをさせてしまったし、眠っているあいだ夢見心地で使ってしまった魔術で寝台が一つまるっと焼け落ちた。火事にならなかったのが本当に幸いである。
「今の私は危険だから――!」
「落ち着け、アリシア」
壊れたドアをくぐってレイナードが現れた。そしてはだけた夜着をかき合わせているアリシアを長身が抱きすくめる。
「レイナード、だめ、危険、」
「アリシア。手を繋いだときのことを思い出すんだ」
涙目のアリシアは、無我夢中でレイナードの手を探り当て、その手を握る。増減を繰り返している諸刃の剣――アリシアの凶暴な魔力は、レイナードの手に吸い込まれていく。
彼の手の甲が銀色に光るのを見て、アリシアはほっとした。レイナードが余分な魔力を吸い込んでくれているのだろう。
「キミは自分の本当の姿に戸惑っているだけだ。魔術を覚えたての子どもは、もっとひどい。キミは控えめな方だよ」
レイナードはやはりそう繰り返して、アリシアから体を離した。そしてくしゃくしゃとアリシアの赤髪を撫でると、ゆるりと手を離した。
アリシアはその手が惜しくてならなかったけれど、――言わずにおいた。
なぜ惜しいか、そう問われたら、間違った答えを返してしまいそうな気がして。
手を繋いでいたいから惜しいんじゃない。レイナードと手を繋いでいる間は、誰も傷つけなくて済むから、惜しいんだ。順番を間違えてはならない。この結婚の本質を間違ってはいけない。
アリシアはただ、レイナードにとって都合が良い属性を持っていたから選ばれただけだ。アリシアがアリシアだったから選ばれたわけではないことを忘れてはいけない。
「私がレイナードに選ばれたのは、私が強いからだ」
アリシアは焦げた寝台の上に座って、両手のひらを見つめた。
「強くなくちゃいけない」
けど。
「このままじゃ、強くなんかいられない……!」
おちおち眠れなかった。いつ何時魔力が暴走して、メイドや教育係を傷つけるか分からない。それに、レイナードにも迷惑を掛けてしまう。
破壊されて目張りされた窓の外には三日月が輝いている。
「……制御、しなくちゃ」
アリシアはゆっくりと拳を握り込み、体中を巡る回路を意識した。緩やかに、血液のように流れる魔力を感じる。前は何も感じなかったのに、今は体中に満ちている銀色の魔力を感じ取ることが出来る。
「強くならなくちゃ」
指先に炎のような熱がともる。銀色の小さな光球が生まれる。
強くならなくちゃ。そうでないと、契約違反になる。レイナードの盾になり、レイナードの妻になり、あらゆる面倒ごとを退ける。その代わり、アリシアは大量のお金と裕福な暮らしを手に入れるのだ。
そうでなければならない。
「強く、もっと強く」
指先の光球はどんどん肥大していく。無尽蔵にも思われるアリシアの魔力を吸い上げて、じょじょに大きくなっていく。アリシアはそれを手の中に包み込んだ。
「消えろ」
しかし、消えない。消えるどころか大きくなっていく。
「き、消えて!」
手の中で手のひら大になってしまった魔力の塊は、アリシアの意志に反して輝き始める。
「うそ……!」
その時だ。レイナードの低い声が言った。
「そのまま動かないで」
瞬間、紫色の閃光が視界を灼く。かと思えば、ガラス玉が割れるような高い音が響き、アリシアの手の中にあった光球が消滅した。
「あっ」
「なにをやっているんだ、アリシア。今のは初級攻撃魔法だぞ。そんなものを放ったらこの屋敷はひとたまりもない」
夜着に身を包んだ屋敷の主が、静かな、しかし確かにあきれをはらんだ声でそういう。アリシアはうつむいた。
「――貴方に、失望されたくなかった、から……」
「失望?」
「私、貴方の足手まといになるのがイヤで。足手まとい、あんまりなったことないから」
「……アリシア」
「ずっとこの先このままで、……レイナードに見捨てられたらどうしようって、少し、考えちゃったというか……」
こんなことを考えるのも、こんなことになったのも、全部全部レイナードのせいだ。そう思ったら目の前の夫を一発殴りたくなった。
「魔術なんか使えないよ。レイナード。私、こんなの使いこなせない」
でも、殴れなかった。アリシアは手を握り合わせてうつむいた。
「誰かを傷つけるのがこわい。貴方を傷つけるのがこわい。傭兵の時はこんなこと考えなかったのに!」
「アリシア、キミは」
レイナードが動いた。寝台の隣に距離をあけて座り、そっとアリシアの頬を拭った。涙に濡れていた。
「思ったよりずっと、等身大の女の子だったんだな」
「……ひとこと、余計だよ」
すん、と洟をすすり、アリシアはレイナードにされるまま、頭を撫でられた。
「もっと成熟した女性だと思っていた」
「余計」
「私が手を入れても全く動じない女性だと思っていた」
「……余計だって」
「戦闘力を目当てに娶った妻がこんなに可愛いとは知らなかったよ」
「よ、……」
アリシアは固まった。開いた口が塞がらなくなったのを、レイナードが笑う。
「アリシア・デボラ。……私の宝石」
「あ、……え?」
急に改まった様子のレイナード・ヴァルティスが、アリシアの手を取った。
「剣を持ち勇敢に戦うキミも美しいが、こうして夜に私の手をけなげに待っているキミも可愛い」
「……待って。なにそれ」
「いけなかったかな? 本音なのだけど」
アリシアは耳まで真っ赤にして首を横に振った。
「いけなくは、……ないけど!」
「本当は出会った時から、美しい娘だと思っていたよ。キミが遮るから言えなかったけどね」
アリシアは今度こそ何も言えなくなってしまう。
どうしよう。
握られている手が熱い。顔も体も全部熱い。どうしよう。
レイナードが笑うたびに、心の中の、一番繊細な箇所が揺れる。音を立てて揺れる。アリシアは戸惑いの中で、なんとかその美しい顔から目をそらして、言葉を選んだ。
「夫婦の営みは強制しないんじゃなかったの?」
「ああ、しないよ」
「……離れて。もう大丈夫、だから……」
「でも、私の妻が離してほしくないと言っているようだから、もう少しこのままで良いかな? アリシア」
ばれている。アリシアはゆっくりとレイナードの肩に頭を預けた。
ばれているならもう、仕方ない。
「おや」
「……貴方の妻が離してほしくないと言っているんでしょ」
――後悔している。あのときどうして、契約妻の話に乗ってしまったんだろう。どうして、はねのけて帰らなかったんだろう。そうすれば、こんな気持ちを知ることもないまま、ずっと楽しく気ままに暮らしていたはずだ。
アリシアは熱い頬を持て余しながら、レイナードに囁いた。
「ぜんぶぜーんぶ、貴方のせい」
「ああ、それでもいいよ。アリシア」
レイナードは微笑み、アリシアのつむじにキスをおとした。
■ ■ ■
レイナード・ヴァルティスの妻、アリシア・デボラ・ヴァルティスは、その後終生にわたって彼を守ったとされる。
時に大剣、時に魔術を使いこなす彼女はあらゆる諸侯から恐れられ、「レイナードの盾」と称された。
彼女はレイナードの没した翌年、三人の子どもたちに看取られてレイナードの元へと旅立った。
王太子レイナードと傭兵アリシアの物語は、形を変え語り部を変えて今も王国に語り継がれるおとぎ話のひとつである。
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